第15話 年上の人々
京都という町について
あれこれ書いても仕方ない
ビートルズが有名なくらい誰でも知ってるからだ
おそらくたぶんに画一的ではあるだろうけど
要は住むか
観光するかの違いである
観光地としての京都は
大人から子供までまあそこそこ楽しめる
日本の歴史に興味がなくても
神社仏閣に造詣がなくてもその風情を感じる少しだけの
感性があれば良い
例えその感性がなくても
お土産を買う段になれば
ああ、何となく京都に来たのだなという感触くらいは手に入る
うちに帰って
誰かにお土産を渡す時
「うわあー良いね〜、京都行って来たんだあ!」
と、たいていは感動してもらえる
そういう意味で京都はメジャーである
京都に住む人々は
意外にクールである
京都の住人であるというプライドの高さは
一種格式のレベルにまで達している
しかしクールなのである
決して観光客に対して
こびない
言葉遣いこそ
優しく丁寧であるが
なんというか
目つきがへりくだっていない
他の土地から来た人で
鋭い感覚の持ち主なら
客として
本心から快く思われていないな?
というのが判るはずだ
何処か
居心地が悪い
観光には良い町だが
住むにはイマイチ
これが僕の京都の印象だ
優しく愛らしい言葉遣いの裏に潜むしたたかさを
理解しなければ
京都人にはなれない
観光地に住む人々には
それなりの苦労がある
行儀の良い旅行者というのはまずいない
恥のかき捨てというくらい
無茶をする
無茶を言う
京都人が一般的に
よそ者を嫌うのではなく
よそから来て
勝手気ままに好きなことを言い
好き放題やって去っていく旅行者と毎日のように接していれば
平均的な日本人なら
誰でも欝陶しいはずである
その上、遥か昔から
国を揺るがす戦や謀略の
舞台として引っ掻き回された背景があるから
少しくらい
京都人がどこか冷たいなあ〜
と思っても
大目に見るべきであろう
なんにせよ景色は良い
漬け物は美味しい
そして
新しく住み始めた人々も
徐々に京都人の
気迫みたいなものを身につけていくから
京都というのは
つくづく不思議な町なのだ
清水寺、八坂神社
知恩院、南禅寺
銀閣寺、金閣寺
大覚寺、仁和寺
太秦、嵐山、嵯峨野
下鴨神社、京都御所
二条城、北野天満宮
上賀茂神社、大徳寺
漢字変換も1発だ
京都では
収入の高い低いを問わず
住居が町の中心に近ければ近いほど住む人の
そこに住む人の京都人たる誇りも強くなる
そんな気がする‥
逆に郊外へ行けば行くほど研ぎ澄まされた京都意識は陰を潜めて
ごく普通の
田舎の人になっていく
これも
そんな気がするだけだ
京都は観光地になってしまったから
つまらない町になったんじゃないかと思う
またまたそんな気がする
本物の京都人は
過去を売り物になんかしたくなかったんじゃないかって
僕はそんな風に思う
新しい母も
プライドの高い人だった
でも決して
攻撃的なわけじゃない
むしろ腰は低く
挨拶は丁寧で親しみやすい
そして言いたいことは
きちんと伝える
きれいな京都のイントネーションで
「孝ちゃんかいな、よう来たなあ、早よあがりよし
今お茶入れるさかいな
コーヒーの方がええか
紅茶もあるえ?どっちなとええ方にしてな?」
こんな感じだった
おっとりなんかしていない
どちらかと言えば
早口でせっかちだった
僕がアルバイトをしたい
と話すと
次の日にはもう喫茶店を紹介してくれた
京都人は
行動力も兼ね備えていたのだ
僕はお金が欲しいと思った
こんなに欲しいと思ったことは
それまでなかった
京都と広島を往復するだけでも
大金がかかる
京都と広島で頻繁に
電話をするわけにもいかないし
かといって手紙を出すにも切手代がかかる
広美に何か買って
送ってもあげたかった
彼女のために働いて
プレゼントを買うなんてカッコ良いじゃないか
京都に慣れるには時間が必要だ
学校以外で京都に触れ
京都ならではの話しもしてあげたかった
学校なんてどこだって同じだ
関西弁の授業とか
観光案内の授業なんかがあったらサイコーなんだけど日本人の感覚じゃ無理だ
当然のことながら
周りはすべて京都弁
まるで外国にいるみたいだった
バスの中でも
電車の中でも
僕は自分が
異邦人であることを意識しないわけにはいかなかった
このプレッシャーを打破するためにも
相手の懐に飛び込むというのは
最良の方法に思えた
そうでなくても
京都にはヤンキーが多い
凄い数だ
こんな所で
広島弁なんて出せるか
たちまち餌食だ
言葉の壁
まずこれを
やっつけなきゃなんない
「そうどすえ〜」
なんて普通は誰も使わない
新しい住まいは洛中と洛西の境
境とは言え京都は小さな街だから
電車に乗れば20分ほどで中心街河原町に出られる
大阪の梅田までは特急で約1時間
便利は便利である
しかしつまらない
友達が近くにいないから
文句も言えない
なんでもいいから
主張のひとつもしてみたいが
聴いてくれる人がいない
主張のしようがない
主張は聴衆がいるから成り立つので
聴いてくれる友がいなけりゃ
その辺の大人しい高校生と何も変わらない
言葉が違うので
自然と押し黙ってしまう
外も内も
蒸し風呂のように暑く
寺院や庭園じみた場所が多いせいか
朝から晩まで
狂ったように蝉がわめき立てた
僕は観光などは一切しなかった
だって住民だもん
というか
碁盤の目のような市内の地図を見ただけで
探索する気は失せた
縦と横の通りの名前を覚えなきゃならない
上ルとか下ルとか
入ルとかわけがわからない
地元の人が使う呼び名と
地図の地名がことごとく違うから
余計混乱する
パズルだ
迷路だ
嫌がらせだ
異常な蒸し暑さの上
絶え間無い蝉の鳴き声と
京都弁に囲まれた異邦人
それが8月の僕だった
喫茶店の名はモンシェリといった
なんかイイ感じである
四条烏丸と上賀茂
祇園と北白川通りに4店舗の店を構えていた
母が紹介してくれたのは烏丸の店で
母が着物の問屋街で働いていた頃の知り合いが
今のマスターなのだった
もしかすると
恋人だったのかも知れない
このあたりはオフィス街で来るお客も
近隣のビジネスマンやOL
高校生の僕も
変な色に染まらず安心して働けるという話しだったが
変な色とは何色なのかよくわからなかった
工場やガソリンスタンドで働くよりは面白そうだ
キツイし男ばかりだし
高校生なんて
いいようにこき使われるだけで
ろくなことがなかった
だいたいツッパリが多くて車とバイクの話題ばかり
幼稚でしょうがない
「いらっしゃいませー」
「あ、あのう、高杉ですが」
「あー高杉さん?いらっしゃい、こっちこっち」
お客さんは2、3人
暇そうでいいや‥
店内は珈琲の香りが満ちていて
甘ったるい‥なんだろ‥
お菓子の匂いも混じっていた
僕はマスターらしい人を見つけて
カウンターのそばに立った
「こんにちは」
「はい、こんにちは、暑かったやろ、今オシボリ出すさかい待っててや」
マスターは
今アイスコーヒーを落としているところで
手が離せへんねん
堪忍してや、と笑った
髪はオールバックで
後ろへきちんと撫で付けてあった
ワイシャツの袖を肘までたくしあげて
ピッタリした黒いチョッキが
やけにカッコ良いいと思った
飲み物を勧められたので
アイスオーレというのを戴いた
これはミルクに
アイスコーヒーを…
知ってるか
そんなこと‥
ミルクとコーヒーが
グラスの中で混じり合わずに
上下2色にきれいに分かれていたので
どうやって飲めばいいのか迷った
「君い、男前やなあー、モテるやろ? え?」
「いや、その、そんなことないです」
「よう言うわあ、なあー加奈ちゃん!ええ男やろ」
加奈ちゃんと呼ばれたロングヘアーのお姉さんが
「マスター負けたなあ」
と笑った
「あほ、男は30過ぎてからや」
「気にしたらあかんよー、おっちゃんの言うことやし」
加奈ちゃんは
砂糖が入ったポットを持ってテーブルからテーブルへ移動しながら
けらけらとまた笑った
えーと、僕は‥
「せやなー、いつから来れる?」
加奈ちゃんが
どういうわけだか僕の隣に座る
「えーと…」
何と答えたら‥
「…いつからでもいいです」
「ほな明日からでもかめへんか?」
「えーと、かめ…かま、いいです」
ぷうーッ!と
加奈ちゃんが吹き出す
「ごめんなあー、気にしんといてなあー」
って、気になるし‥
香水きつくない?
「ほんま失礼なやっちゃなー、堪忍やで」
「いやあの、大丈夫なんで」
「見てみいー、ええ子や、加奈ちゃんも見習いやー」
「マスターいけずやなあ」
「ほい、ブレンド」
マスターが加奈ちゃんの前に
珈琲を置いた
ちびり…
「ああ美味しいわ〜」
カップの縁に毒々しい真っ赤な口紅の跡がついた
それをキュッと指で拭って肩まである髪をザワッとかきあげる
シガレットケースから細いミルク
いや、煙草を取り出し
薄っぺらいピカピカのライターで火を点けた
ふうーー
横から見るとエプロンの下の
なんというか
ものすごく胸が大きい
「高杉くん?」
「あ、はい?」
「飲まへんの?アイオレ?」
アイオレ?
ああコレ?
僕はストローをくわえて一口飲んだ
ニガ‥マズ‥
「ガムシロ入れへんのん?」
ガムシロ?
何しろ、初めて
「入ってんのかと思って」
トクトクトク…
「甘ない?」
「ちょうどいいです」
僕はきっぱり言った
なんて男らしい僕‥
「いーやあ!可愛いなあー!」
なんでやねん‥
「いくつなん?」
「高杉孝一くん、17才」
とマスター
「じゅうななあ〜?若いなあー」
すぱー
ふうーー
煙草のフィルターが
口紅まみれになる
「加奈ちゃん、悪いコト教えたらあかんで」
加奈ちゃんはプッと口を尖らせた
「暇やったらゆっくり涼んでったらええわ」
カウンターの中の時計は午後3:30になろうとしていた
僕は時間や服装のことを少しだけ質問して
明日からお願いしますとお辞儀をした
「ご馳走さまでした」
「あいよ」
「また明日ねえ〜」
加奈ちゃんが大袈裟に手を振って
僕を見送ってくれた
店のドアを開けると
むっとした熱気に包まれた
うわ、暑‥
すれ違いに一人の
若い女の人が入って来た
白い半袖のブラウスに
クリーム色のタイトスカート
涼しげな編み目のカゴバッグを提げていた
僕は開けたドアを片手で支えて
女の人が入るのを待った
なぜそうしたのか
わからない
「ア、ありがとう」
関西弁訛りの綺麗な女の人だった
キャンディ・キャンディのような髪型で
熟した桃みたいな
とてもいい匂いがした
わずか5、6分歩いただけなのに汗が吹き出た
地下鉄に入り
阪急に乗り込むと急激に汗がひいていった
果たして
やっていけるのか‥
ゴーゴーと走り過ぎる暗闇を見つめていると
窓の中に疲れきった自分がいた
マスターは慣れるまで
カウンターで洗い物をしてくれたら良いと言っていた
「何も心配せんでええで」
加奈ちゃんは
いろんな意味でド派手な人だったが
根は良さそうな人だ
歳はハタチ
ぶったまげた
3才しか違わないなんて
短大の頃から働いていて
就職せずに遊んでるという
電車の中は冷房が効いていて
快適だった
あずき色の車体に大きくて広い窓
内装はベージュ
シートはワインレッドで清潔感があった
とても落ち着いた配色だ
乗客はまばらで
みんな真っ直ぐに前を向いて大人しく座っていた
広島の人達と
どこか顔つきが違うように思えて
なんだか恐ろしかった
気のせいじゃない
明らかに違う
ってことは
僕も違って見えてるってことだ
時折
ささやくように聞こえてくる関西弁が
悪い冗談のようだった
みんなにからかわれてるような
そんな錯覚に陥り
ますます怖くなった
自分の存在が
あやふやになっていくのがわかった
心細さを愛おしく感じながら
家路を急いだ
こんな感覚
滅多に味わえない
と考えながら
ちなみに洛中(京の街)の若者ファッションは
ニュートラ
サーファー
それにヤートラが主流
ヤートラというのは
ヤンキーのトラッドだ
ツッパリというのはない
髪型の定番はリーゼントよりパンチパーマかアイロン
ヤンキーが洒落たシャツ
(例えばピンホールとか)
にWのスーツを羽織り
タイを締めてコンビの靴を履けば
コンチネンタルとなる
品が悪きゃ安っぽい極道
良くても
お水のお兄さんだ
新京極には
ヤートラの店が溢れてた
アイビー少年には
ほとんどお目にかからない
たぶんヤンキーが
駆逐してしまうのだろう
あとは
サーフィンもしないのに
フィラのパンツに馬鹿高いモカシン
ブランドのセカンドバッグ
これがリッチなサーファー
貧乏なサーファーは
裾が擦り切れたジーンズに擦り減ったビーチサンダル
ハワイアン柄でヨレヨレのTシャツ
マジックテープで
バリバリッと開ける財布を持ってる
オカッパ頭にブリーチは
金持ちもビンボーも変わらない
ポイントはサーフィンをしないことにある
少なくとも京都ではそうだった
ロックンローラー達みたいに男女が同じファッションである必要はなく
ヤンキーがニュートラや
サーファーの女子を連れてることは珍しくない
逆に
サーファーがヤンキーの娘を連れてると
間違いなく絡まれる
猫も杓子もブランドに憧れカクテルが流行りつつあった
それとディスコだ
有線ではアラベスク
ドナ・サマー
アース・ウィンド&ファイアー
アバが朝から晩まで流れ
日本の歌謡曲界には
サザンオールなんとかが彗星の如く現れた
早口で何が何だかわからない歌を唄うのだが
これが不思議なことに大ヒット
歌詞をいち早く覚えた奴が勝ち!みたいな歌で
批評家じゃなくても
誰もが1発屋だと思った
おそらくあの黒柳徹子も
僕はお金のために仕事をしセンチになるのが嫌で極力店に出た
喫茶店の仕事は
最初の頃こそまごついたが
思っていた以上に
僕に合っていた
お客と話すのは難しかったが
マスターや
店の従業員達との会話に飽きることはなかった
僕は真面目で覚えも早く
手先が器用だったから評判も上々
僕は変われそうな気がしていた
いつだって
“チェンジ”ってのは
魅力的な言葉なのだった
変わるために
僕は仮装もしたし
プールにも飛び込んだ
だけど結局無駄だった
田舎も悪くないけど
やっぱり退屈だ
友情は大切だが
何か物足りない
本当に自分を変えたきゃ
環境を変えるのが1番だ
変わった先に何があるか
僕はそれを知りたいと思った
地下鉄に乗ってブルーになったところで
何も生まれないし
何も変わらない
もしもあの時
こうしていれば、なんて思うのは愚の骨頂だ
人生は1度しかない
僕は自分を奮い立たせた
済んだことには見切りをつけ
前を向いて歩いてくだけだ
小遣いを遣り繰りして新しい服やレコードを買った
その夏
封切りした映画に興味はなかった
人との
とりわけ年上の人達との交流が楽しかったからだ
1人前に扱って欲しいという願望もあった
喫茶店のアルバイトは僕の視野を広げた
お金をもらって
いろんな先輩達から人生観を学ぶ
願ったり叶ったりだ
僕は吸収した
捨て去るものもあった
世の中は実力なのだ
僕になかったもの
それは実力だ
それはお金では買えない
目的のある行動が道を開いてくれる
ただの変わり者では意味がないのだ
河原町の藤井大丸がお気に入りの場所になった
なんてことのない若者向けのデパートだ
ここで最新のモードを研究し
僕はにわかサーファーになることにした
髪が長かったのでちょうど良かった
本当は真っ白なWのスーツがほしかったんだけど
どう見積もっても
バイト代では上着しか買えなかった
夢は将来にとっておいて
手っ取り早く
サーファーに変身した
いつだって僕は臨機応変なのだ
バイトに行くのは益々楽しくなり
店に流れていた有線のお陰で
ヒットチャートにも詳しくなった
年上からレコードを借りる機会が増えたので
いろんな曲を知ることが出来た
それが何の役に立つのかわからなかったけれど
借りたレコードを
毎夜カセットに録音
僕はせっせとレーベル書きにいそしんだ
小うるさい教師もいなければ
偏差値というろくでもない物差しがない世界は
僕には天国のようだった
目の色変えて勉強してる連中を想像して滑稽だと思った
君ならどうする?
ドアを閉めて机に向かい教科書を広げ…
深夜ラジオを聴きながら
蛍光ペンでアンダーラインを引く毎日
17才という貴重な時間を
そんなことで台なしにするなんて
僕にはできなかった
勉強なんて僕には無理だ
そう悟った
だから久坂から電話があった時
素直には喜べなかった
「高杉、なんとかなりそうじゃ」
「何が?」
「親戚の叔父さんちでの、下宿させてもらえそうなんじゃ」
「叔父さんて?」
「オカンの弟なんじゃ」
「へえー、ほんまか」
「ホンマじゃ、オカンから電話さすけん、親父さん出てくれんか」
「わ、わかった、そうするよ、いろいろスマンかった」
「ええんじゃ、あとは大人同士で話してどうなるかじゃ」
「そうだな」
「うまくいくとええな」
「うん」
「元気か」
「元気だよ、そっちは?」
「みんな元気じゃ」
「まだ話すなよ?」
「ちゃんと決まったらの」
「そうだな」
「誰か電話してくるか?」
「いやあんまり…、電話代がかかるからな」
「そうじゃな」
「親父からかけさせるよ」
「わかった、何時頃?」
「8時過ぎに」
「高杉」
「うん?」
「帰って来いよ?」
「帰れたらな」
「待っとるぞ」
「わかった」
「ほいじゃのう」
「バイよ」
「バイ」
チン…
さて、どうする‥
運命の女神はまたしても
僕に難題をふっかけて来た
今さらリターンとは‥
迷わなかったと言えば嘘になる
広島に帰れば
バイトなんか出来ない
しかし‥
忘れかけてた郷愁が
僕をくすぐった
広美に会いたい
そして抱きしめたい
手紙はずっと書いていた
何通も何通も
広美は僕を必要としてるだろうか
必要とされてるなら
僕は戻るべきだ
そうでなければ戻る理由がない
けれど
それを確かめる術がない
「どうしよう?」
僕はカウンターの隅に座りサムタイムを吸いながら聞いてみた
「帰ったらええやんけ」
飛島さんが事もなげに言う
貧乏サーファーのプー太郎だ
「そんな簡単なことちゃうやん」
と真由美さん
同志社の3年生
「なんでやねん」
「アホやなあー、帰って彼女の気持ちが冷めてたらどうすんのん?」
「冷めへんやろ」
「言い切れへんやん」
「あかんようなったら、こっち帰ったらええがな」
「そんな無茶無茶やん」
確かに無茶だ‥
軽く行ったり来たりできる
問題じゃない
「お前はどうしたいねん?」
「だからどうしようかなって」
「じれったいやっちゃなあー」
「高校が変わるんやもん、適当に決めれへんでしょ」
「高校なんかヤメてまえ」
「無責任やわ」
「あれえ?真由美ハンなんでそないにこいつの肩持つんでっか〜」
「だって孝一くん、可愛いも〜ん」
「けっ!なんやなんや、なんやねーん!」
ここは祇園の店だ
烏丸の店には3日だけ出勤して
こっちに回された
マスターが出張してしまったからだ
祇園には社長がいる
それから奥さん
どちらもかなりのご高齢で1日の半分を交替でレジに座って過ごす
厳しいのは奥さんの方だ
それに娘さんが1人
娘さんと言っても
オールドミスのおばさんで美しい人だ
笑顔は稀にしか見れない
店には吾妻さんというチーフがいて
店の味を決めていた
そして飛島さんがセコンド
社長は毎朝1杯のブレンドをすすり
吾妻さんが炒れた珈琲にはニッコリと微笑み
飛島さんの炒れた珈琲には苦い顔をした
珈琲だから苦いのは仕方ない
吾妻さんによると
「昨日の珈琲出したってわかるもんか」
との事である
朝の一服が終わって開店
吾妻さんが腰を上げたら
1日がスタートする
開店直後に入って来る常連が数組
彼らは近所の置屋やお茶屋の人達だ
店のカウンターには
常連が使用するカップが並んでいて
どれも高価な代物だった
それからぼちぼち
舞妓さん達が来店し始める
寝起きのまま来る人もいれば
いかにも高価そうな洋装に身を包み
気取って来る人もいた
たいていは数人で
お稽古の前後にやって来ては
サンドイッチをぱくつき
珈琲やジュースをがぶがぶ飲んでいった
だらり帯に
白塗りの化粧で来るなんてことは
そうそうないのだ
舞妓とは若手のことで
先輩方は芸妓と呼ばれる
舞妓さん達は
みんな僕より2、3才年下で
なのにとても大人びて見えた
稽古で鍛えた立ち振る舞いは
ブランドをぶら下げて
四条通りを闊歩するお姉さん達より
遥かに優雅で華麗であった
僕と同い年くらいになると
すっかり風格と気品を兼ね備え
貫禄も十分
高級クラブのママでもやってけそうな迫力があった
行ったことないけど‥
吾妻さんが休みの日は
飛島さんが他のアルバイト達を仕切る番だった
なんだかちょっと頼りないが‥
「おい、新人!パン取って来てくれやー」
「あ、はい」
「飛島くん、感じ悪いなあー」
と真由美さん
「何ゆうてるんですかー、こんなんまだ優しい方でっせえー、なあー新人!」
僕は笑ってごまかした
飛島さんが冗談で言ってると
僕は判ってるからだ
でも真由美さんは
半分本気で怒ってる
真由美さんは
イイとこのお嬢さまらしく下品で軽薄な飛島さんとはウマが合わない
というより大キライ
カウンターの奥のドアを開けるとそこは
オーブンや製氷機のある狭い倉庫
ここには他に
アイスクリームストッカーや食品棚、それに
従業員の私物なんかが乱雑に置いてあって
通路の先は裏の通用口に続いている
「えーと、パン、パンはと…」
食パンは大きいし
いつも3〜5斤あるはずだから
見当たらないわけは‥
ない‥
わけ‥
なん‥
だ‥
けど‥
あれえ〜??
僕は食品庫のカーテンを開けた
シャア〜
女の人が着替えていた
ア‥
「キャ…」
エッ‥
「すいません!」
なんで???
シャ!
カーテンが開いた
「ごめんなあー、びっくりしたやろ〜」
ブラウスのボタンを留めながら
“彼女”は言った
「僕こそスイマセン」
「ここ来るまでに汗でびしょびしょやわー」
彼女はTシャツを小さく折り畳んだ
「せやけど、ここな、カーテンしてある時は開けん方がええよ?」
重ね重ね
「スイマセン」
あれ?この匂い‥
「新人の子お?」
「あ、はい高杉です」
「うちは咲子、不破野咲子、よろしくやで」
「よろしくお願いします」
「なんか探してたんちゃうの?」
「あ、パンを」
「パン?あー、パンはここやわ」
咲子さんは後ろを振り返って
食品棚の上にあったパンに手を伸ばした
か細い腕が
ひゅっひゅっと動いて
たちまち両手が
4斤のパンで一杯になった
キャンディキャンディ?
栗色の巻き毛、華奢な身体
そうだ、間違いない‥
烏丸の店ですれ違ったあの女の人だ
「はい、これ」
僕は差し出されたパンを受け取った
「あのー」
「ん?何?」
「前に烏丸の店で会いましたよね、入口のとこで」
「え?烏丸…?前に…?」
「はい……」
「あー!あん時の子?…思い出したわ!あんなんされたん初めてやったから」
覚えていてくれた
「あんなん?」
「アタシのこと先に入れてくれたやん、普通やったら気障やなー思うんやけど、自然やったし、やのに見たら若かってびっくりしたわ」
ナニ?
ナンダッテ?
「綺麗だったんで、なんとなくつい…」
「まあ!お上手やねえー」
「いや、ホントです」
マズイ‥
暴走してる‥
「おーい!新人〜何してんねん!」
ドアの隙間から
飛島さんが顔を出した
「飛島くん、オハヨー」
「あ!咲子ハン、おはようございますうー!ヘルプご苦労様ですうー」
「ヘルプ?」
「そ、祇園さんから夏休みが終わるまでの間だけや」
「祇園さん?」
「祇園祭やん、知らへんのん?」
「ああ、こいつ来たん8月やさかい」
「見てへんのかいな」
「まあその話しはまた後で、新人早よ来いやー」
「あ、はい」
「ちょっと待ってー」
「はい?」
「こっち来てみ?」
「はい?」
「やっぱりなあー、縦結びやんリボン…」
前で留めてある洗い物用のエプロンの紐だ
「飛島くん、ちゃんと教えたらんとあかんやんか」
「へえ、へえ〜」
僕は咲子さんが
リボンを結び終わるのをじっとして待っていた
なんかこんなの
前にもどこかで‥
咲子さんの髪が軽く揺れるたびに
あのいい匂いがした
なんだろ
この匂い‥
「はい!出来上がり!」
「すいません」
「男のくせに謝りすぎッ!」
「あ、すいま…あ」
「社長に怒られまっせえー!」
「はいー」
「名前なんて言うのん?」
「高杉」
「ちゃうて、下の名前やんか」
「孝一です」
「ほな、コーちゃんでええか?」
「あ、なんでもいいです」
ちょっと北公二みたいだけど‥
「真由美ちゃん、オハヨーさん!」
「おはようございます」
真由美さんは
お冷やの近くで座ったままカウンターに三つ指をついて
ペコリと頭を下げた
「真由美、聞いてくれるうー?この前買うたワコールなあー、不良品やってん」
「えー!ホンマにいー?」
「ワコールって?」
僕はしゃがんでいる飛島さんの隣へ座った
「アホ!ブラやんけ!胸大きいやろ、咲子ハン?ワイヤーがこう、当たってやな〜」
「………」
「アホ!どこ見てんネン!あの人怖いねんど!」
「そ、そうなんですか?」
「元はバリバリのヤンキーやってん」
「へえー」
「見えへんやろ?」
「はい」
「せやから女は気イ付けなあかんねん」
「はあー?」
「綺麗やろ?」
「はい」
「残念ながらもう結婚してはんねん」
「そうなんですか!」
「せや、人妻や、わかるか人妻?」
「わかりますよ」
「旦那がおらんかったら、今頃は俺が…」
「飛島くん、朝の炒れてくれるか?」
いきなり社長が
カウンターから身を乗り出してニカッと笑った
「あ!はい!すぐ炒れますよってに!」
咲子さんと真由美さんが大笑いした
社長の金歯が
キラリと光った
その後、店は何故かメチャ混みをし
やっと客が引いたのは夕方近くだった
僕は洗い物専門だが
咲子さんの特大“ワコール”が頭にチラついて
コーヒーカップを3つ
お冷やのグラスを2つ破壊した
大失態だ
食器洗浄機なんかないからシンクをフル稼動
右のシンクに汚れ物を溜め真ん中で洗いまくり
左のゆすぎ用シンクに溜めた水に
ザバッと浸けて洗剤を落とす
パレットに逆さに重ねて
置いた時、泡が残ってたら僕の負けだ
溜めた水は5回以上使える
今これをやったら
保健所から怒られる
手の指はふやふやになり
ビニールエプロンをしてたにも係わらず
ズボンはビッチャビチャになった
「ああー疲れたあ〜」
「ハイ、ご苦労さん」
とニッコニコの社長
ポンと千円札を出して
「アイスクリームでも買っといで」
「ご馳走さまで〜す」
女の人達は
カウンターに
飛島さんと僕は中に座ってとりあえず一服だ
「来週は大文字の送り火やし、夏休みはやっぱり油断できへんなあ〜」
「ホンマですねえ〜」
ふと時計を見ると
もう上がりの時間が近づいていた
「あ、もうこんな時間やん、はよ帰ってご飯の支度しいひんと!」
ズキン…
アレ?
なんだ今の?