第14話 静かな夜
晴れた夏の道路には陽炎が立つ
立つというのはちょっと変かも知れないけど
遥か遠くで
ゆらゆらと人陰が揺れているように見えるからだ
近づくにつれて
その妖しい夏の幻は跡形もなく消えてしまう
車が少ない田舎道では
あちこちにこの陽炎が現れた
いくら目を凝らしても
実像には至らない
それは不思議で幻想的な光景だった
炎天下で燃え上がる陽炎をじっと見つめていると
今がこの世ではないような気がしてくる
冬の間は
がさがさに渇いていた田んぼも
今ではたっぷりと水をたたえ
一面真っ青に光り輝いていた
夏の水田の美しさは
言葉では到底言い表せない
それに匂いだ
田んぼは生きていた
生きている匂いがする
田んぼ自体も虫や鳥や他の生物を生かし
やがて僕たち人間を生かす稲穂を実らせるのだった
そのサイクルに感謝し
収穫の無事を祈って人々はお祭りを執り行う
災いや病気が起こらぬよう供養もする
国道2号線と鉄道以外
何もない辺ぴな町で暮らした6年間が
走馬灯のように過ぎた
時の流れは
ゆっくりとしているように見えても
僕たちの存在なんか
陽炎のようにかき消していくのだ
京都への第1便はすでに出発し
家の中はガランとしていた
家財道具が運び出された後の家の中は
巨大な空き箱みたいだった
あとは小物が少しと
息子を1人残すのみとなった
H町の夏祭り
町の中心から駅前にかけて何100もの提灯や豆電球が電線からぶら下がり
町の名士の名前が寄付金の額と共にずらりと張り出された
午後からは蝉の声に混じって
笛や太鼓の音色がちらほら聞こえるようになり
陽が暮れる頃には
屋台から漂う香ばしい醤油の香りで
町は包まれた
僕は綿パンに
チェックのシャツという軽い服装で
縁側を開け放ち
何もない和室でぼんやりしていた
電灯も全て取り払ったので締め切ると真っ暗になった
電気が点いてないからといって
蚊は容赦してくれない
蚊取り線香を幾つも焚いてモスキートたちの
攻撃に備える
買ってきたコーラを飲みながら
ミルクをやる
なんだかややこしい‥
月明かりに照らされた蚊取り線香の煙りが
部屋の中でふんわりとたゆたう
ふうーと紫煙を吹きかける
たなびく紫煙が形を崩す
ガサリ!
親父ッ!?
「おーす」
「なんだ金田か、びっくりしたぞ」
「ええか?」
「ええよ、あがったら」
ゴム草履を投げ捨て僕の隣へ座った
「引っ越すらしいの」
「よう知っとるな」
「狭い町じゃけんな」
金田とは中学の時よく一緒に遊んだ
人が恥ずかしくてできないような顔をして
みんなをよく笑わせた
「岡安こんかったか?」
岡安は高校へは進学せず
親の工務店で働いているこの町1番のワルだ
「いや、なんでここに来るんじゃ?」
「園部を探しとる」
「なんで?」
「あいつ金返さんのじゃ」
「会ったら言っとく」
「頼むわ」
まったく
相手を選ばん奴だ‥
金田は良い奴なんだが
付き合ってる連中が最悪だ
「岡安は怒らすとマズイけんな」
「なあ金田」
「あん?」
「学校ちゃんと行っとるんか」
「行っとるわい」
「辞めんようにせえよ」
「どうかのう、留年しそうじゃし」
「資格とって商売するゆうとったじゃなあか」
「そんなことゆうたかの〜」
「辞めてもええことないぞ」
「お前が羨ましいわ」
「え?」
「頭のええ奴が羨ましい」
「金田だって馬鹿じゃなかろ」
ムフ、ムフフと笑う
「なんだよ」
「高杉はええ奴じゃ」
「そうか?」
「そうじゃ」
金田はパシリと
腕に止まった蚊をはたいた
「高杉ようH校入れたのう」
「まぐれだよ」
「わしも入りたかったのお」
「受けてみりゃ良かったのに?」
「大学なんか行かんでええ言われたけん」
「親にか」
「整備士になろう思たんじゃ」
「目標があるだけ偉いよ」
「やっぱり無理じゃわ、わしみたいな馬鹿には」
「あきらめんなよ」
「高杉」
「うん?」
「今度はどこ行くんじゃ?」
「京都じゃ」
「ええのう」
「そうかな」
「ほうじゃ、こげなとこおってもどーしょうもないわい」
「ええとこじゃが」
「コーラくれ」
「うん、はい」
「ぬるいの?」
「時間経っちゃったな」
「ほいじゃ行くわ」
「おう」
「高杉」
「なんな?」
「煙草くれ」
「ああいいよ、何本?」
「こんくらい、ええか」
「いいよ」
「サンキュ」
「帰るんか?」
「バイトじゃ」
「今から?」
「ヒヨコ売っとんじゃ、後で持って来るわ」
「いや、いらんいらん」
「なんがええ?」
「なんもいらんよ」
「ほうか、なんか悪いの」
「ええよ」
「ほじゃバイよ、元気でな」
「金田」
「あ?」
「園部にはちゃんと言っとくから」
「おう」
金田がいなくなると
また静寂が訪れた
コーラがなくなった
中学の時仲の良かった連中とは
ほとんど別れ別れになった
たまに駅前なんかで会う
不良っぽい奴が多かった
変身したというか
目つきが変わった
あんなに無邪気だったのにと思う
髪型や立ち振る舞い
怖くて近付けない奴もいる
微笑んでいるのか
馬鹿にしているのか
見分けがつかない
だから怖い
闇の中から
園部がのっそりと出て来た
「遅いのう」
「もうおらんか思た」
「何してた?」
「ああ、ちょっとのう、広美は?」
「電話ないの、今日は来んじゃろ」
のそのそと庭から座敷にはい上がって来る
「コーラか」
「もうのうなった」
「ビールでも買うてくるか」
「親父が来るのに酒なんか飲めるか」
「マズイか」
「当たり前だ」
「祭り行かんか」
「留守番せんと」
「ほうか」
「ミルクするか?」
「あるけんええわ」
シュボ
「静かじゃの」
「いや、祭りの音が聞こえるじゃろ」
「ああ聞こえるのう」
「金田らが探しとるぞ」
「ああ」
「おうたか?」
「見かけた」
「また来るぞ」
「あいつら馬鹿よ」
「借りる時は馬鹿呼ばわりせんだろ?」
「いちいちうるさい奴らじゃわ」
「それはないだろに」
「返さんとはゆうとらん」
「じゃあ早く返せよ」
「返すわい」
「いい加減じゃのう、僕は知らんぞ」
「ええ加減かのう?」
「相手がどう思うかは、考えんのか」
「どうでもようないか?」
「借りたもんは返す、それが世の中の鉄則だよ」
「誰が決めた?」
「本気で言ってんのか」
「だから返さんとはゆうとらん」
何を言っても
園部には通用しない
「高杉」
「ああ?」
「言うておいた方がええかな」
「言えよ」
「広美な」
「うん」
「惚れてしもうた」
「そうか」
「こんな時に言うのも何じゃがのう」
「それで?」
「悩んだんじゃが、自分に嘘はつけんわい、寝ても覚めても広美のことが頭から離れん」
「恋したわけだ」
「悪いのう」
「悪くはないよ」
「取るかも知れん」
「モノじゃないからな」
「まあの」
「僕にゃどうすることもできん」
「一応ゆうたからの」
「いいだろ、あの子?」
「ええな、可愛いわい」
目の前を蚊が1匹落ちて
畳の上でじたばたしていた
憐れだ‥
憐れなのは
僕でも金田でも
園部でもなかった
生きとし生けるもの
すべてが哀れに思えた
「祭り行くか」
「おう、行こや」
家の鍵もかけず
僕たちは商店街へ繰り出した
園部はサングラスをして
ミルクに火をつけた
僕もミラーのサングラスをして
ミルクをくわえた
ポケットに手を入れて
2人で祭りをぶらついた
知った顔とすれ違ったが
誰も僕たちだと気がつかなかった
「待ってろ」
園部は出店のひとつに近づいてビールを買った
「やり過ぎじゃないか?」
「大丈夫や大丈夫や」
カンを開けて喉に流し込むと
苦みがはじけた
ミルクをやる
飲む
ミルクをやる
さっきまでの蒸し暑さが
どこかへ吹き飛んだ
「面白いのう」
「なあ?みんな馬鹿じゃろう?わいらに気づかん」
笛や太鼓のリズムが
ぐにゃぐにゃと歪んで
祭りの明かりが
フラッシュのように瞬いた
グランド・ファンクの
ロコ・モーションが聞こえてきそうだった
ロコ・モーションというのが
どんなダンスなのか
想像もつかなかったけれど
それは
とてつもなく素晴らしいダンスに違いなかった
僕は心の中で
素敵なステップを踏んだ
踊れ
踊れ‥
踊…
「おい」
道を塞がれて
僕たちは立ち止まった
「なんじゃお前ら?」
岡安たちだ
「なんか用か?」
「何調子に乗っとんなら?」
何人いる?
6…7…
金田‥
「ちょっと来いや」
「あほか?なんで行かないけんのじゃ?」
園部は酔ってる
まあ僕もだが
これはいただけない状況だ‥
誰かが僕のサングラスを取った
あれ?
ムカついちゃうな(笑)
「どけや」
「はああ?」
どうする‥
誰も異変に気付かない
園部の腕を誰かがとる
園部がそれを振りほどいた
「さわんなや、気色悪い」
いよいよか
畜生‥
「ええから来い」
「誰が行くかボケ」
「なんじゃとお」
5…
「ぶちまわしたろか」
「やってみいや」
4…
「このガキ」
「お前もガキじゃろ」
さわるな!
3…
「ひっひひひ」
「はようせえ」
「チッ」
2…
「お前ら何しよんじゃ!」
「なんじゃワレ?」
補導員だ!
ナ〜イス!
園部?
完全にプッツンしてる!
袖を引っ張る
(逃げろ園部バカ)
「おい?なんとか言えや」
バカ‥
(金田‥てめえ‥)
僕は園部の腕を掴んで
走った
「待てや!」
猛ダッシュ!
「お、おい!」
「やかましい走れ!」
ドン!
「ゴルアー!」
「すいませーん!」
「バカタレ」
「向こうから来たんじゃろ!」
「アホ!勝てるわけなかろうがー」
「関係あるかい」
「あるわいバカ!」
(金田‥クソ)
「こっち!」
路地へ入る
「とっとっ…」
「なんで逃げなあかんのじゃ?」
「ミルクとビールはどうするんじゃ!」
「あいつらもやっとったじゃないか」
「だからなんだ!」
「やりゃあ良かったんじゃ」
「あそこでか!」
「おうよ」
「冗談じゃない、祭りの真ん中だぞ」
「じゃからよそに…」
「行ったらボロクソにやられるわい!」
そのまま人気のない所までゆっくり走った
「はあーだりい〜」
「疲れたの〜」
「オモロかったの?」
「オモローない!全然!」
「ほうか?わいは久しぶりにワロタ」
「笑えん!」
「どうなったかの?捕まったかの、あのバカら」
「捕まったじゃろ、危なかったわ」
「ざまあみろじゃ」
「金田がいた」
「あのバカも…」
「あ!」
「どうした」
「グラサン忘れた」
「酔っ払いどもが」
僕たちもだ‥
クソ!
家に着いたが
親父はまだだった
余計な騒ぎになるところだった
部屋にあがると
まだ蚊取り線香は点いていて
長い長い灰がとぐろを巻いていた
僕たちは並んで横になり
天井を見上げた
「西郷なんか言うとったか?」
「電話でか?」
「おう」
「園部と斎藤とは今後も付き合わんとよ」
「意地張ってつまらん奴じゃ」
「西郷には西郷のポリシーがある、だから自分が保てるんじゃ思うわ」
「いこじなだけじゃ」
「園部から見たらそうなだけだよ」
「高杉から見たら違うのか?」
「少なくとも流されてはない」
「無駄な抵抗よ」
「自分だけで完結するんじゃなくて、周りに何を考えさせるかも大事だろ」
「誰にじゃ?」
「誰かに、だよ」
「なんのために?」
「1人じゃ虚しいからだよ」
「結局あいつは1人じゃ」
「こうして西郷の話しが出るってことは、1人じゃないってことなんだよ、僕にはお前の方がよっぽど孤独に見える」
「人間はみんな孤独よ」
「お前のは屁理屈だ、西郷は道理の話しをしている」
「なるほど」
「だから噛み合わないんじゃないのか」
僕は問いただしてみた
「お前は理屈だけなんだよ」
「口先だけか?」
「そう見える」
園部は何も答えなかった
園部に道理を説くなんて時間の無駄だった
屁理屈ばかりで
やる気のないのが彼流なのだ
「さっき久坂から電話があった、僕がこっちに居残れんか考えてみるってさ」
「考える?」
「親に相談したらしいわ」
「何をじゃ?」
「ようわからんけど、僕が1人暮らしできれば転校することもないじゃろ?」
「金がかかるのう」
「問題はそれだよ」
「うまい手でもあるんかの」
「さあー」
久坂には悪いが
当てにはしていなかった
僕にしたって1人暮らしが生易しいものじゃないことくらい
想像はつく
1人で何もかもやるのは構わないけど
汚い部屋でみすぼらしく生活するのは辛い
うちが大金持ちならまだしも
そんな余裕があるわけないから
期待しても損な気がした
「どっちにしても今夜出発じゃろ」
「そうだよ」
「別れのミルクでもやるか」
「うん」
2人は縁側で
ミルクに火を点けた
ここなら親父の気配が
すぐにわかる
ぷはあー
ふう〜〜っ
「広美頼むな?」
ふう〜〜っ
「おう」
ぷはあー
チリ〜ン〜
置き去られた風鈴ひとつ
ふう〜〜っ
ぷはあー
静かな夜だった