プロローグ 病院にて/雨の匂い
この物語はフィクションであり登場人物はすべて架空のものです。当時の文化や世相を語るシーンは浅はかな主人公の主観に過ぎず思想的な背景の根拠は何1つありません。また文中、時代考証を無視した表現や記述もチラホラ見られますが、これらは今作品をコメディーと位置づけた作者のユーモアという風にご理解頂ければ幸いです。
2008年 秋
雨が降っている
長い、 長い雨だ
もう一週間も
降り止まない
S総合病院の前には
銀杏並木がある
降りしきる雨と
冷たい風に耐え切れず
散ってしまった落ち葉が幾重にも折り重なり
黄金の絨毯のようだった
それが
雨の歩道のあちこちに
敷き詰められ
全体を覆っているので
歩く時には
深い水溜まりに
気をつけなければならなかった
道路脇のL字溝は
小さな扇型の枯れ葉であふれ
溜まった雨水が
車道の真ん中まで流れ出していた
車が走り去るたびに
溜まった水を跳ね上げていく
見上げると
どの銀杏の木も
周りの電柱よりずっと高く立派で
黄色く色づいた葉は
まだかなり残っていた
雨が小降りならば
この銀杏の木の下で
雨宿りをすることもできるくらいだった
停留所で
バスを待つあいだ
僕と小学6年になる娘は
何度かそうやって
雨宿りごっこをして過ごした
僕が大きな幹を足で蹴ったり
頭の先まで垂れた枝葉を揺すると
雨粒がザッと落ちてくる
それが楽しくて仕様がないのだ
「バッパ、まだうまく喋れないな」
「でもこの前より、だいぶいいよ」
「そうだねえ」
1ヶ月ほど前になろうか
妻の母親が倒れた
脳出血だった
幸いにも一命を取り留め
来週からリハビリが開始される運びとなった
見た目にもまだ若く
元気そうに見えたので
僕たち家族は大きなショックを受けた
首から下の麻痺は残るだろうと医者は言った
これから先、考えなければならないことは山のようにあった
秋は深まり
日に日に寒さが増していた
病院の1階にある喫煙室で煙草を吹かしながら
ぼんやりと外を眺めていると
窓の向こうを
ジャージ姿の学生たちが通り過ぎて行った
色とりどりの傘と
笑顔と元気を振り撒きながら
やがて
喫煙室のドアが開いて
1組の男女学生が入って来た
高校生のようだ
ジャージの少年は茶髪で
左の肩から下は
包帯で吊り下げられていた
少年が
ジャージのポケットからもぞもぞと
セーラムを取り出した
「やめるって言ったじゃない!」
セーラー服姿の少女が
不服そうに抗議の声をあげた
てゆーか違法だと思うが‥
少年はお構いなしに
カチリとライターで火を点け
煙草を吸い始めた
「しょうがねえだろ、イライラしてんだから」
口調は大人顔まけだ
少女は
そんな少年の横顔を呆れたように見つめた
わがままな子に注ぐ
母親の眼差しのように
少女の顔立ちは
よく見ると端整で
黒々とした大きな目がきれいだった
投げやりな態度と
幼さのコラボレーション
少女は子供でありつつ
母親でもある
1億年も太古の昔から
そうなのだ
喫煙室に
ふいにデジャヴュが
舞い降りた
どこかで
見たような
少女の表情に
記憶のページが
スクロールされていく
あった‥
画面メモ
そして保存‥
「何見てんだよ ジジイ」
少女が呟いた
えっ?何だって?
気のせい、いや
明らかに少女が僕に向かってそう言い放ったのだった
悪魔だ‥
悪魔の仕業だ
少女に“悪魔”が取りついたに違いない
凍りついた空気をごまかすように
僕は咳ばらいをひとつ‥
「えー ゴホン」
悪魔につかれた少女は
上目遣いに僕を見つめ
なかなか視線をはずしてくれなかった
そのうち少年が
「行くぞ」
と言って席を立つまで
少年が出て行くと
セーラーの小悪魔も
急にあどけないエンゼルに戻り
そのあとを追いかけて行った
僕は安堵した
揉め事は苦手なのだ
喫煙室の中には
フルーティーな
甘いコロンの香りと
切なさと
理不尽さが
置き去りになった
切なさの主は
この僕
理不尽さは
全然正常じゃない
すべての空気清浄機に対してだ!
僕は
やっと少し腹が立ってきた
日曜日の病院は
閑散としている
喫煙室を出ると
平日は診察や会計を待つ人たちでごった返しているロビーも
今はひっそりと
静まり返っていた
病院特有の匂いが充満している
アルコールや薬品
それに食べ物がごちゃ混ぜになった匂い
それはどこか重苦しい
悲観に満ちた匂いだ
外の空気が恋しくなり
僕は外へ出た
雨は小降りになっていた
そして
匂い‥
匂いがする
雨の匂いだ
向かいのコンビニから
先ほどの高校生の2人連れが出て来た
寄り添い
ふざけ合いながら
歩き去って行く
僕は
つい今しがた彼女が
残していった香りと屈辱とを
思い出そうとしたが
うまくいかなかった
香りや匂いを
記憶にとどめるのは
特にむずかしい
それらは
とてもはかなく
感覚的なものだからだ
メモリーカードだって
香りや匂いまで
取り込むことはできない
だけど一度
頭の中にインプットされた香りや匂いは
いつまでも
忘れることはない
厭な香りや匂いというのはきっと厭な思い出が
セットになっているんだとと思う
そしていい香りや
いい匂いには
いい想い出が
ぎっしり詰まっているものなのだ
雨の匂いもそうだけど
女の子の匂いというのは微妙に違う
イマドキの女性は
化粧品や香水の香りが強くて
よくわからないけど
僕が高校生だった頃の女の子達は
ほのかにいい匂いがしたものだ
こんな風に言うと
勘違いされるかも知れないけど
断じて変な意味じゃない
プラトニックな意味においてのみだ
時は遡る
なぜかって?
そうしないと
物語が進まないから
これは僕が
詰め襟を着た
学生だった時分の話しだ
まあ聞いて下さい
僕は
高校3年のとき
初めて恋に落ちた
彼女の匂いは
陽の光りの香りがした
もっと具体的にいうと
土の香りであり
草の匂いであり
どこか
古風な匂いでもあった
僕は最初
その匂いが
あまり好きではなかった
僕は
まったく勝手に
石鹸やシャンプーの香りこそ
女の子にはふさわしいものだと信じていたのだ
僕が
それまでに聴いた
フォークソングの歌詞の中にも
土や草の匂いの女の子なんて
登場しなかった
干し草の香りの
カノジョなんて
まるで
カントリーソングみたいじゃないか
でも
まさに
僕のカノジョは
カントリーガールだったんだ
田舎くさいという
意味じゃないぞ