表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/30

プロローグ 病院にて/雨の匂い

この物語はフィクションであり登場人物はすべて架空のものです。当時の文化や世相を語るシーンは浅はかな主人公の主観に過ぎず思想的な背景の根拠は何1つありません。また文中、時代考証を無視した表現や記述もチラホラ見られますが、これらは今作品をコメディーと位置づけた作者のユーモアという風にご理解頂ければ幸いです。

2008年 秋


雨が降っている

長い、 長い雨だ



もう一週間も

降り止まない




S総合病院の前には

銀杏並木がある



降りしきる雨と

冷たい風に耐え切れず

散ってしまった落ち葉が幾重にも折り重なり

黄金の絨毯のようだった


それが

雨の歩道のあちこちに

敷き詰められ

全体を覆っているので

歩く時には

深い水溜まりに

気をつけなければならなかった



道路脇のL字溝は

小さな扇型の枯れ葉であふれ

溜まった雨水が

車道の真ん中まで流れ出していた


車が走り去るたびに

溜まった水を跳ね上げていく



見上げると

どの銀杏の木も

周りの電柱よりずっと高く立派で

黄色く色づいた葉は

まだかなり残っていた


雨が小降りならば

この銀杏の木の下で

雨宿りをすることもできるくらいだった



停留所で

バスを待つあいだ

僕と小学6年になる娘は

何度かそうやって

雨宿りごっこをして過ごした


僕が大きな幹を足で蹴ったり

頭の先まで垂れた枝葉を揺すると

雨粒がザッと落ちてくる


それが楽しくて仕様がないのだ



「バッパ、まだうまく喋れないな」


「でもこの前より、だいぶいいよ」



「そうだねえ」

1ヶ月ほど前になろうか


妻の母親が倒れた

脳出血だった


幸いにも一命を取り留め

来週からリハビリが開始される運びとなった


見た目にもまだ若く

元気そうに見えたので

僕たち家族は大きなショックを受けた


首から下の麻痺は残るだろうと医者は言った


これから先、考えなければならないことは山のようにあった




秋は深まり

日に日に寒さが増していた



病院の1階にある喫煙室で煙草を吹かしながら

ぼんやりと外を眺めていると


窓の向こうを

ジャージ姿の学生たちが通り過ぎて行った


色とりどりの傘と

笑顔と元気を振り撒きながら



やがて

喫煙室のドアが開いて

1組の男女学生が入って来た


高校生のようだ

ジャージの少年は茶髪で

左の肩から下は

包帯で吊り下げられていた


少年が

ジャージのポケットからもぞもぞと

セーラムを取り出した


「やめるって言ったじゃない!」


セーラー服姿の少女が

不服そうに抗議の声をあげた


てゆーか違法だと思うが‥


少年はお構いなしに

カチリとライターで火を点け

煙草を吸い始めた


「しょうがねえだろ、イライラしてんだから」


口調は大人顔まけだ

少女は

そんな少年の横顔を呆れたように見つめた


わがままな子に注ぐ

母親の眼差しのように



少女の顔立ちは

よく見ると端整で

黒々とした大きな目がきれいだった



投げやりな態度と

幼さのコラボレーション


少女は子供でありつつ

母親でもある


1億年も太古の昔から

そうなのだ



喫煙室に

ふいにデジャヴュが

舞い降りた



どこかで

見たような

少女の表情に


記憶のページが

スクロールされていく



あった‥

画面メモ


そして保存‥



「何見てんだよ ジジイ」


少女が呟いた


えっ?何だって?


気のせい、いや

明らかに少女が僕に向かってそう言い放ったのだった



悪魔だ‥

悪魔の仕業だ

少女に“悪魔”が取りついたに違いない



凍りついた空気をごまかすように

僕は咳ばらいをひとつ‥


「えー ゴホン」



悪魔につかれた少女は

上目遣いに僕を見つめ

なかなか視線をはずしてくれなかった


そのうち少年が

「行くぞ」

と言って席を立つまで



少年が出て行くと

セーラーの小悪魔も

急にあどけないエンゼルに戻り

そのあとを追いかけて行った



僕は安堵した

揉め事は苦手なのだ


喫煙室の中には

フルーティーな

甘いコロンの香りと


切なさと

理不尽さが

置き去りになった



切なさの主は

この僕


理不尽さは

全然正常じゃない

すべての空気清浄機に対してだ!


僕は

やっと少し腹が立ってきた



日曜日の病院は

閑散としている


喫煙室を出ると

平日は診察や会計を待つ人たちでごった返しているロビーも

今はひっそりと

静まり返っていた



病院特有の匂いが充満している


アルコールや薬品

それに食べ物がごちゃ混ぜになった匂い


それはどこか重苦しい

悲観に満ちた匂いだ



外の空気が恋しくなり

僕は外へ出た


雨は小降りになっていた



そして

匂い‥



匂いがする



雨の匂いだ




向かいのコンビニから

先ほどの高校生の2人連れが出て来た



寄り添い

ふざけ合いながら

歩き去って行く



僕は

つい今しがた彼女が

残していった香りと屈辱とを

思い出そうとしたが

うまくいかなかった



香りや匂いを

記憶にとどめるのは

特にむずかしい


それらは

とてもはかなく

感覚的なものだからだ



メモリーカードだって

香りや匂いまで

取り込むことはできない 


だけど一度

頭の中にインプットされた香りや匂いは


いつまでも

忘れることはない



厭な香りや匂いというのはきっと厭な思い出が

セットになっているんだとと思う



そしていい香りや

いい匂いには


いい想い出が

ぎっしり詰まっているものなのだ



雨の匂いもそうだけど

女の子の匂いというのは微妙に違う



イマドキの女性は

化粧品や香水の香りが強くて

よくわからないけど


僕が高校生だった頃の女の子達は

ほのかにいい匂いがしたものだ



こんな風に言うと

勘違いされるかも知れないけど

断じて変な意味じゃない


プラトニックな意味においてのみだ




時は遡る


なぜかって?


そうしないと

物語が進まないから



これは僕が

詰め襟を着た

学生だった時分の話しだ


まあ聞いて下さい




僕は

高校3年のとき

初めて恋に落ちた



彼女の匂いは

陽の光りの香りがした



もっと具体的にいうと

土の香りであり

草の匂いであり


どこか

古風な匂いでもあった


僕は最初

その匂いが

あまり好きではなかった


僕は

まったく勝手に

石鹸やシャンプーの香りこそ

女の子にはふさわしいものだと信じていたのだ



僕が

それまでに聴いた

フォークソングの歌詞の中にも


土や草の匂いの女の子なんて

登場しなかった



干し草の香りの

カノジョなんて


まるで

カントリーソングみたいじゃないか



でも

まさに

僕のカノジョは


カントリーガールだったんだ



田舎くさいという

意味じゃないぞ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ