第66話 忘れない
わからない。
スッポリと穴が空いたように、大事な記憶が抜け落ちている。
胸を強く掴む。とてつもない焦燥感に駆られた。
「……違う、おかしい! 忘れない……忘れるはずないんだ……っ!」
凪にとって御朱印巡りは大切なものだ。大事な目的のために行ってきたはずだ。
なのに、その〝大事な目的〟が何かわからない。
だからおかしい。それを自分が忘れるはずなどない。それだけ大切な記憶だったということだけを覚えている。胸が締め付けられるほどの切なさがそれを訴えている。
「大切なことなんだ……忘れちゃいけないことなんだ! なのに……なんで思い出せないんだ! そうだろ!? こんなことありえないんだ! 絶対……!」
いくら自分に問いかけても、答えは出てこない。
徐々に視界が狭くなり、凪はすべてを失ってしまったような暗闇の中で震えていた。
『――凪にいちゃん』
声がした。
今でも耳に残っている、懐かしい声。
うずくまる凪がまぶたを開くと、目の前でしゃがむ誰かの膝下だけが見えた。膝小僧に擦り傷があり、ピンク色の鼻緒が目立つ子ども用の下駄を履いている。
その子どもは、お守りを拾って凪の方へと差し出す。
『へーきだよ。〝縁〟は、とぎれないんだから!』
凪がお守りを受け取ると、子どもの足は凪の視界からふっと消えた。
「――っ!」
顔を上げる凪。
そこには誰の姿もなく、暗い山道だけが続いている。
「凪ちゃん……今、汐ちゃんの、声が……」
「……月姉。……うん、そう、だよな……」
「今の子……ひょっとして、ナギくんの……」
「ナギさんの……妹、さん……?」
どうやらイコナとククリにも何かが見えていたようだった。
幻では、ない。
すると――凪が握りしめるお守りが突然淡く光り始めた。
お守りの光は糸のように伸び、何もない目の前の暗闇に続いている。
凪の脳裏で記憶が刺激され、霞が晴れていくように呼び覚まされていった。
過去にも同じようなことがあった。
この場所で。
あの小さな崖から落ちて。
糸に引き寄せられたその先で、出逢った。
『彼女』に。
「……そうだ、思い出した……!」
凪は見た。
お守りの糸と同様に、自分の胸――そして月音たちの胸からも同じ光の糸が出現し、それは一つになってお守りが示す場所と同じところへ伸びている。
もう、凪の身体の不調は消えていた。
頭はこれ以上ないほど晴れ、心は前を向いている。そっと誰かに背中を押された。
「……ありがとう、汐!」
立ち上がり、凪は走った。
「今行くよ――『サクラ』!!」
凪が一番に思い出したもの。それは思い出の少女ではなく――サクラの笑顔だった。
そして凪が〝そこ〟に一歩踏み込んだ瞬間、世界が変貌した。
朽ちた神社と、境内。灰色の鳥居。枯れた桜の木々。
冷たい世界が、ぽつんと取り残されている。
社の前に、ひとりぼっちで膝を抱え、泣いている女の子がいた。
嗚咽を堪えずに泣き続け、物悲しい声だけが響いている。その少女の元へ、凪たちの糸は続いていた。
「――え?」
少女が顔を上げてこちらを見た。
涙に濡れた瞳が大きく開かれ、驚愕に揺れる。
すぐに彼女の元へ辿り着き、その小さな身体を抱きしめる凪。
「よかった……サクラっ!」
「な、ぎ……? え? ど、どうして……」
サクラは何が起こっているのかわからないようで、まばたきも忘れて呆然とする。
そこへ月音、イコナ、ククリも駆け寄った。
「サクラ、様……そう、そうだよ。サクラ様! 私も思い出した!」
「あたしも、やっと頭がスッキリしたわ。はぁ。よくもやってくれたわね、サクラ」
「サク、ちゃん……サクちゃん! よ、よかったよぅ……おもい、だせた……!」
「ツキネ……イコナ……ククリ……」
サクラは未だに目の前の現実に動揺し、頭がよく回っていないようだった。
凪はそっとサクラから身を離す。
次第にサクラの泳いでいた目が焦点を取り戻す。
「……ナギ。どう、して? どうして、ナギが……だ、だって……そう、そうだよ! サクラ、ナギたちと結んでた縁を切ったもん! だからもうナギはサクラのことわからないはずだよ! 見えないはずだよ! だって縁を切ったもん!」
「いや、切れてない。ここにある。見えるだろ?」
「違うもん! 縁を切れば記憶はなくなっちゃう! ナギは、もうサクラのことなんてわからないよ! ツキネも、イコナも、ククリも! サクラがそばにいちゃダメなの! ナギが思い出の子と会うためには、サクラはいらないの! だからもうサクラは――」
「忘れてなんかない」
凪の断言に、サクラの声が止まった。




