第29話 チュー
一瞬の出来事に、凪は何が起きたか理解出来ていない。月音は両手で口元を覆い、サクラはずっとニコニコしている。
向かい合うイコナは目を逸らしたまま、『神御衣』の裾をキュッと握りしめており、その顔は先ほどよりもずっと朱く――夕焼けと同化するように染まっていた。
凪はそっと自分の右頬に触れる。
そこに、柔らかな感触が残っていた。温かく、優しい感触。
「イコナ……様? えっと……今……」
凪が質問を投げようとしたとき。
凪の前に朱い円――イコナの光る神紋が宙に現れて、その印は静かに凪の中へと入り込んでいく。すると凪の身体の周囲にも淡い光が漏れ、それが自分の中から湧き出ているものだということが凪には感覚的にわかった。
「ハ、ハイあげた! もうあげたから! これでいいでしょお疲れ様バイバイさよならッ!」
「え? や、ちょっと待ってくださいよっ! 俺には何がなんだか!」
早口に言い終えて歩き去ろうとするイコナの手を掴み、思わず引き止める凪。
困惑する凪がサクラの方に視線を向けると、サクラは笑顔のまま答えてくれた。
「よかったねナギ! あのね、神社でお参りするときみたいに、一度パンって手を打ってみて! 意識を集中しながらだよっ」
「え? う、うん」
言われたとおり、凪はその場で参拝するときのように一度拍手を打ってみた。
すると、離された両手からパラパラと蛇腹状の御朱印帳らしきものが出現。
「おわっ!? え? ど、どこから出てきたんだこれ!」
その二ページ目には、先ほどのイコナの神紋が刻まれた『神朱印』が記されていた。朱印そのものが神々しくも優しい光を放っている。
「それはナギの神通力がカタチになった、ナギだけの『神朱印帳』だよ。『神朱印』は普通の朱印とはちがうから、そこにポンッて印されるの!」
「神朱印帳? これが、俺の神通力から……」
「うん! イコナの『神朱印』をもらって、少し神通力を操れるようになった証だよ! 身体に流れてるぽわ~んっていう光、見えるかなっ?」
「あ、これがそうなのか?」
「うんうんっ、イコナがチューしてくれたから、イコナの神通力がナギにも宿ったの! そのおかげでナギの力がぱぁ~って大きくなって! きっといろんなものがみえるようになってくるはずだよ!」
「いろんなもの……ていうかやっぱりキスだったよね!?」
衝撃の事実に慌てふためく凪。間違いなく、頬にキスをされたのだ。
イコナの方を見ると、彼女は真っ赤な顔で目を泳がせている。
「し、し、しし仕方ないでしょ! そういうものなの! 『神朱印』を授けるにはあたしの『神紋』を――口づけで『結び』の縁を作らなきゃいけないのよ! 別にしたくてしたんじゃないから! これであなたの霊的キャパシティが広がって神通力が感じられるようになったんだから感謝しなさい! あ、あげるの初めてだったんだからぁっ!」
早口に説明してから、その場にしゃがみ込んで両手で顔を覆い隠すイコナ。
「え、えと……ありがとうございます、イコナ様」
「うう……だからあげるのイヤだったのよぉ。今までなんやかんやで避けてこられたのに……ここまで誠実にされたらあげないわけにはいかないじゃない……」
今まで彼女が恥ずかしがっていた理由をようやく理解した凪だが、苦労の末に『神朱印』を貰えたことよりも、目の前で羞恥に悶える可愛らしい神様から受けたキスの方がよほど衝撃的であり、ちょっと顔がにやけてしまう。
すると月音が、生まれたての子鹿のようにぷるぷる震えながら近づいてきて――
「う、うう……うあぁぁ~ん! 凪ちゃんがキスされた! 神様にキスされた! 『お姉ちゃん特権』のほっぺチューがとられたぁ! お姉ちゃんでも凪ちゃんの中学の入学式の日にさせてもらって以来一度もないのに~~~!」
「ぐぇ!? つ、月姉痛い痛い! よくそんなこと覚えてるな!?」
月音に抱きつかれた衝撃で『神朱印帳』が閉じ、空気へ溶け込むように消えていく。
「えへへ。よかったね、ナギ! イコナはすっごくやさしい神様でしょ? だってサクラの自慢の友神だもん! きっとチューしてくれるって思ってたんだぁ!」
「いちいちチューとか言わないでよ恥ずかしいっ!」
「ずるい……イコナ様だけずるい……! ねぇねぇ凪ちゃん、いいよね? お姉ちゃんもチューしていいよねっ?」
「あ、ツキネいいなぁ! じゃあサクラもサクラも! チューしたいー!」
「なんでそうなるん!? サクラまで、ちょ、え? 本気っ!? ま、待って! 落ち着け二人とも! ああ! イコナ様助けて~~~~!」
月音とサクラに詰め寄られて一人慌てる凪。そのドタバタぶりを見ていたイコナは目を丸くし、それから「ぷっ」と吹き出すように笑い始めた。
こうして凪は『伊古奈比咩命』に認められ、初めての『神朱印』を拝受したのだった。




