5.
「いらっしゃい」
ジャンパラリに入ると、うらぶれた店主が新聞から顔をあげ、抑揚のない挨拶をした。そして、四角い黒淵の眼鏡を少し持ち上げて俺の後ろへ視線を向ける。
「おや? 新顔さん?」
店内で先に席についていた圭二が背もたれに片肘をつく。
「やっと来たか、遅かった……なぁっ!?」
そして、振り向いた瞬間そのままの姿勢で固まる。隣にいた空也が目をひん剥き、ワナワナと手を震わせこちらを指差した。
「そ、そちらさんは、誰かの?」
どいつもこいつも幽霊でも見たかのようなリアクションである。
「初めまして。私は榊原薫です。今日はよろしくお願いします」
俺の後ろに立っていた榊原さんが頭を少し下げた。こんなオゲレツ共に頭を下げることはない。榊原さんの価値に見合わん。そうは思うが口には出さない。いかにも器の小さい男の台詞のように思えたからだ。
…………
結果から言えば、榊原さんは約束の時間、約束の場所に約束通り現れた。嘘でも罠でも何でもなかったのだ。
辺りが薄暗くなる中、彼女が現れた時には確かにその周りだけ輝いて見えた。美しき黒髪の君が散りゆく桜をバックに悠然と歩いてくる。まるで映画のワンシーンの中に飛び込んだような錯覚を受け、その光景に息を飲んだ。
彼女は切れ長の瞳をゆらりと揺らす。
「早いね。待った?」
自分の背が彼女より高くて良かった、と心底思った。こちらを見るときに少し視線を上げる彼女の愛しさといったらもう、もう!
「全然だ! 全然!」
首を千切れんばかりに横に振った。本当は三十分前から待っていたが。というかこのやりとり、恋人同士のデェトのそれではないか! 何という甘酸っぱい空間! 初めての経験に一瞬で完全に舞い上がってしまった。
小さく頷く榊原さん。当然ながら彼女は冷静そのものである。
「そう。じゃ行きましょう」
「う、うむ」
しどろもどろに歩き出す。後ろからついてくる彼女のパンプスが鳴らす音を聞くだけで天にも昇る気分になった。しかし、これから向かう場所のことを考えると、底の無い奈落へと落ちていく気分になる。今から向かうのは悪鬼渦巻く魔界『ジャンパラリ』。いるのは蛇男に青坊主。天女の如き彼女が瘴気に中てられ、穢されなければよいのだが。
…………
彼女との夢のような一時はあっと言う間に過ぎ、残念なことにこうして『ジャンパラリ』に着いてしまった。歩いている途中に何度も「悪霊退散! 悪霊退散! 南無!」と念じたが、どういう訳か彼奴等は退治されることなくピンピンしている。全くもって空気を読まない妖怪共だ。死ねとまでは言わないが、せめて謎の腹痛によりあと二時間くらい遅れてくるくらいのことにはなって欲しい。やはり妖怪ポストに依頼をせねば駄目だったか。
しぶとい妖怪の一匹、蛇男の圭二がガタリと席を立つ。
「こ、こ、これは一体何だ? 何が始まるってんだ!! 総一郎君が女を、それもこんな……ありえん! これはこの世の終わりか!? そうか夢だ!」
そして、意味不明な上に失礼千万なことを喚き散らす。かなり混乱しているようだ。圭二は力無く再度着席した後、「ありえん、夢だ、これは夢」と床を見つめブツブツ呟く壊れた人形のようになった。
しぶとい妖怪のもう一匹、青坊主の空也が自分のアゴ髭をしきりにしごき倒す。
「お、落ち着くんじゃ。冷静に……そうじゃ! 髭を」
そして、アゴ髭を掴むと思いっきり引っ張る。ブチという音が聞こえてきそうであった。
「ぎゃがが!! 痛い! 現実じゃ! 信じられん!」
空也が宇宙人でも見るかのような視線をこちらに向ける。
俺の後ろにいた榊原さんはそんな妖怪共の騒動を見て、
「変な人達ね」
と呟いた。全面的に同意である。
圭二がようやく現実を認識したのか、ニョロリと顔を上げる。しかし、目線は未だに定まっていない。
「どういうことだ、総一郎君。説明しろ」
そ、その顔は人間がしていい領域を少しばかりはみだしてはいまいか? こんな圭二は見たことがなく、俺はたじろいだ。
「た、たまたま同じ講義を受けていただけだ!」
もっと他の関係があっても一向に構わないが、残念なことに現状はそれ以上でもそれ以下でもない。そう説明する以外手段がない。
後ろで榊原さんも頷いた。
「そうね。それで何故か麻雀に誘われたの」
「そう、じゃったか」
空也がほっと息をつき、アゴ髭を摩りあげる。
「よく了承したもんじゃの。こんな怪しい男の誘いに」
お前にだけは怪しいとか言われたくない。少なく見積もってもお前の方が3倍は怪しいからな。
しかし、榊原さんは特に否定してくれずに一言だけ。
「麻雀、好きですから」
そして、空いている席にツカツカと行って佇まいよく座った。流石だ。彼女の美しさは悪鬼羅刹共の中にあって些かも揺らいでいない。
「さ、始めましょう」
卓上に置かれた麻雀牌の入った鞄が彼女によって開けられる。俺も慌てて席に着くと、鞄の中に入った麻雀牌をマットの上にぶちまけた。
視線を邪知暴虐の無礼者共へと巡らせる。
「おい、自己紹介くらいしたらどうだ」
その言葉に反応したのは空也であった。
「あまりに度肝抜かれたもんで忘れてたわい。わしは水月空也じゃ。総一郎と同じT大学の二年生」
「そうなの? それじゃ、私とも同じなのね」
彼女が整った眉を少し上げた。鉄壁のポーカーフェイスたる榊原さんとはいえ、流石に驚きを隠せなかったようだ。無理もない。空也を見て初見で大学生だと看破できるものはこの世に数える程もいないだろう。いわんや同じ学年などとは夢にも思わぬはずだ。
空也がアゴ髭を指先でいじる。
「おぉ、そうかい。まぁこっちは総一郎共々三留しておる馬鹿者じゃがのぉ」
「そう……お二人とも年上なんですね」
榊原さんの急な丁寧語に動揺する。
しまった! 自分の歳のことを話してなかった!
「あ、け、敬語なんて必要ないぞ、榊原さん!」
「そうじゃな。堅っ苦しいのはえぇて。よろしく頼むぞ」
「……その方が助かるわ。よろしく」
彼女が小首を傾げると美しい黒髪がフワリと揺れた。
そして、残りの一人である。彼奴は緩慢な動きで牌を前後にかき混ぜるだけだ。どうやら圭二はショックから立ち直りきっていないらしい。
榊原さんはそんな圭二を無視して、白魚のような指を牌の海へと滑り込ませる。
「ルールは?」
彼女は誰にともなく聞いた。麻雀はやる人によってルールが微妙に違う。初めての相手ならば最初はルールの統合から始めるのが普通だ。彼女は自己申告で「強い」とのことだが、それがどの程度のものかはわからない。先ずは彼女の知っているルールでやり、ベストは彼女が気分良く帰ってくれることだろう。俺がそう提案しようした矢先、指がニュッと眼前に突き出された。圭二だ。何やら不穏な顔つきをしている。牌を触っている内に冷静さを取り戻したのか。
「差しウマオカ有りのアリアリ。ウマはゴットー、三万点がえし。ローカル役は無いが、三連刻と四連刻は認めているぜ、子猫ちゃん」
「あ! お前!」
「ちなみにオレは斎藤圭二だ。そこの総一郎君より一年先輩になるな」
「歳は一緒だろうが!」
おのれ、圭二。性根の腐った奴め。専門用語攻撃で彼女に嫌がらせをするとは! というより、これは俺に対する嫌がらせだろう。友人の知人をもてなす、そんな心をコイツは一片たりとも持ち合わせておらんのだ。むしろ彼奴ならば徹底的に相手を叩きつぶし、関係が悪くなるのを影でせせら笑うだろう。そのためには自分がどう思われようが露ほども気にしない。腐ってはいるが、鋼のような心の持ち主、それが斎藤圭二という男だ。
しかし、予想外にも榊原さんは表情一つ変えず「ふーん」と鼻を鳴らしただけであった。
「子猫じゃなくて、榊原薫。先輩なんですね」
「別に気にしなくていい、タメ口結構。なんたってオレの心は宇宙のように広いからな」
俺は極めて狭量な性根の腐った男を睨みつける。
「どの口がそんなことをほざく!」
「この口」
圭二が「あー」と獲物を飲み込む前の蛇のごとく、大口を開けてみせた。榊原さんは蛇野郎のそんな舐めた態度など気にしていないように肩を軽く竦める。
「それなら遠慮なく。ルールの方だけど、ツモピンは?」
「あ、ありだ」
瞬間、圭二からニヤニヤした笑みが消える。俺も驚いた。彼女、知っている……!
「赤と季節牌は?」
「入れない」
「焼き鳥と役満ご祝儀は?」
「焼き鳥は有りだ。サイコロ一つで掛け千」
「倍率は? テンピン?」
「……テンゴ」
「「おぉ」」
思わず感嘆の声を上げたのは俺と空也だ。この遣り取りだけでも、彼女が麻雀を相当遣り込んできただろうことが想像できる。やったことがある人ならわかるだろうが、麻雀というものは基本的に身体で覚えるものだ。ルール集を眺めているだけでは中々覚えることはできない。これだけのことをスラスラと確認できるなら、素人レベルは確実に脱していると見て間違いないだろう。
先程の遣り取りがほとんどわからなかった人のために後程解説をつけるとしよう。ただ、なるべく麻雀を知らぬ者にも理解できるよう努力したため、大変長くなっている。麻雀のことはよく知っている人もしくは麻雀について知る気がない人は次の解説を読み飛ばすことを推奨する。
「ふ、ふん。どうやら少しは出来るらしいな」
圭二は自分の手前に牌を並べ、積み上げる。彼女の予想外の反撃に動揺したのか、積み上げられた牌の列は浦富海岸(鳥取にあるリアス式海岸。日本海の荒波が作り出した絶景である)の如くガタガタに歪んでいた。対して榊原さんは目の前にある牌を中指でスッと揃え、音もなく積み上げる。その山は南国の島で見る水平線を思わせるような美しさすらあった。
空也が警戒するように目を細める。
「とんでもない相手かもしれんのぉ……」
同感だ。これは気を引き締めてかからなければならない。彼女に気分よく帰ってもらおうなどと考えていた自分を恥じる。これだけの相手ならば、手を抜く方が失礼というものだろう。
「親決めからだ」
俺は小さな二つのサイコロを逃げ場のない四角い戦場の上に放り投げた。
…………
「ツモ。タンピンドラドラ」
榊原さんが自分の手牌をスルリと倒す。
圭二が俯き、産まれたばかりの子馬のようにプルプルと震える。
「……ハコだ」
ハコとは自身の持っている点数がゼロ未満となり、支払い能力を失った状態を指す。『トビ』とも言う。麻雀はこのトんだ人間が出た時点でゲームセット(マイナス点を計上するルールもあるが)。終了だ。普段ならざまぁみろと笑い飛ばしてやるところだが、正直、今は彼奴のことを笑えるような立場にいる者はこの場には榊原さんを除いて誰もいなかった。
「かぁ! 勘弁してくれ! もうオケラじゃ!」
空也がお手上げと言わんばかりに万歳をしながら天井を仰ぐ。
彼女は自己申告の通り強かった。しかも、べらぼうに。手も足も出ないとはこのことだ。気付けば我々三人はとんでもない量の負け分を抱えてしまっていた。麻雀漬けの日々を送って培った四年の自信は、わずか四時間足らずで彼女の剛腕によりけちょんけちょんの粉々に打ち砕かれてしまったのだ。
だが、その剛腕を振るい尽くした本人はと言えば。
「そう? じゃあ清算しましょうか」
大勝したにも関わらず、その顔には喜びや寂しさという感情は一切ない。彼女は最初から最後まで徹頭徹尾クールであった。我々三人なんぞは、最初こそ元気満々勇気凛凛であったのだが、局を重ねるにつれて塩をかけたナメクジのようにしおしおとしょぼくれてしまったというのに。我々は黙って財布の中の『キャンディ』を全て卓上に置く(この小説は爽やか恋愛青春物語である。我々が麻雀を通してやり取りしているのはキャンディ、そう、キャンディである。とてもファンシーであろう)。捨て台詞を言う元気すら湧かなかった。彼女はそれを自分の財布にしまうと、席から立ち上がる。
「帰る前に少しだけアドバイス」
アドバイス……? 完膚なきまでに叩きつぶした相手に何を言うつもりだろうか。皆力無く顔をあげる。
彼女はまず空也へと目を向けた。
「あなたはひっかけリーチをするのはいいけど、それ以外の時にほとんど黙ってしまうのはよくないわ。リーチをかけた時にバレバレ」
「むぅ……」
空也が眉間に皺をよせて唸る。
次に見たのは圭二。
「あなたは大物手を狙いすぎ。捨て牌から手がわかるから、狙い撃ちしやすい。誰かが張るとすぐに降りてしまうのもよくない」
「くっ!」
圭二が顔をくしゃくしゃにして俯く。
最後が俺だ。
「あなたはゼンツッパばかりね。守りも覚えなさい」
「うぅ……」
ぐうの音も出ず、榊原さんを見つめる。
その時、彼女は本当に、本当に微かに唇の端を持ち上げた。
「今日は楽しかったわ。またね」
そして、颯爽と黒髪をなびかせてジャンパラリから出て行ってしまった。彼女の残り香だけが場にとどまる。何という鋭き慧眼。容姿だけでなく、知性も抜群だ。パーフェクト、パーフェクトビューティ……まだ出会って一日も経っていないにも関わらず、俺は彼女を惚れ直した。
「あんだけ勝ちゃそりゃ楽しいだろうよ!! 子猫どころか、とんでもねぇ猛獣だぜ、あの女!」
「今月はモヤシだけで過ごすしかないのぉ……」
妖怪共二人が何か騒いでいるが我が耳には入ってこない。頭の中は榊原さんの笑顔で埋め尽くされていたからだ。彼女が、笑った。出会ってから一度も笑わなかった彼女が。
「聞いてんのか! テメェのせいでもあるんだぞ!」
「そうじゃそうじゃ! なんちゅう化け物連れてきたんじゃ!」
「あぁ、またね、だと」
彼女は言った。またね、と。つまりもう一度会う気があるということだ。これはもう運命と言っていい。ついに我が世の春が来たのだ。
「心ここにあらず、じゃな」
「もう駄目だコイツ」
立ちあがり卓に両手を叩きつけた。圭二と空也はビクリと震え、こちらを見る。うらぶれた店主がうらぶれた睨みを利かせてくる。少し強く叩きつけ過ぎたようで手がジンジンした。
空也が恐る恐るといった様子で口を開く。
「ど、どうしたんじゃ、いきなり?」
「決めたぞ……」
「決めた?」
「俺は、彼女と、幸せな家庭を築く!」
空也と圭二が顔を見合わせる。そして、圭二は自分の頭を指差すと首を振って溜息をついた。ふん、何とでも思うがいい。お前らには分かるまい。この胸のトキメキが。俺は二人に背中を向けて無意味にがむしゃらに走りだし、ジャンパラリを飛び出す。
「うおぉぉぉぉ!!」
もう快速とっとりライナーなどと言ってられるか! 我こそは鳥取が誇る伝説のスーパー特急、夜を斬り裂くスーパーはくと(鳥取の最速列車。鳥取には新幹線が通っていないのである)なりぃ!
「好きだぁぁ!! 榊原薫ぅぅ!!!」
胸の内から溢れる思いが俺を衝動のままに突き動かすのだ!
20時には凡その店舗が閉まる鳥取において、夜の暗さと夜空に映る星の数はちょっとしたものだ。その満点の星空がこの真摯な思いを優しく受け止める。そして、衝動の俺はといえば、足元の石に気付けずに躓いてスッ転んだ。