22.
二日後。俺は自室のベッドで寝転がっていた。
現在16時。今から一時間後に運命の勝負が『ジャンパラリ』にて行われる。
榊原さんが提示した勝負方法は麻雀で半荘一回勝負。
こちらが勝てば付き合ってくれる。負ければ彼女のことは忘れる。
正しくオールオアナッシング。実に単純明快である。
ただ、幾度か彼女とは卓を囲んだことがあるが、いつも財布の『キャンディ』を根こそぎされる(三度再掲するが、この小説は爽やか恋愛青春物語である。我々が麻雀でやりとりするのはあくまでキャンディなのだ)だけで、俺は一度も勝ったことがない。それを思えば、やんわりと断られただけのことかもしれない。だが、本来ならばこんな勝負などせず、俺のことを拒絶する権利が彼女にはあったのだ。
榊原さんの気まぐれなのか、慈悲なのか、哀れみなのか。理由は分からぬが、これは千載一遇のチャンスである。彼女の提案を受け入れる以外の選択肢がこちらには無かった。何より、告白してしまった以上はもう元の関係には戻れない。砕けぬことを祈りながら当たり続けるしか無い、それが恋だと思い知った。
「……よし、行くか」
覚悟を決める。そして、ベッドから体を起こした。
…………
アパートを出ると、駐車場の出入口にある電柱の影からユラリと人影が現れた。行く手を阻むように立つ男の顔は、よく知ったものではあったものの、意外であった。
「……彰」
「どもっす」
いつもの調子で軽い挨拶をする彰。だが、どうしたのだろうか。そのイケメン面にはいつものようなおちゃらけた笑みがない。ズボンのポケットに手を突っ込み、仏頂面で直立している。
そのいつもとは全く違う様子に、俺は少しばかり身構えた。
「どうしたんだ?」
「オサ、聞きましたよ。遂に告白したらしいっすね」
「う、うむ」
「今日の勝負に勝てば付き合えるとか」
「なんで……」
誰にも今日の勝負のことは言っていない。
だが、何故知っている? なんて彰に聞くだけ無駄であろう。コイツの情報収集能力は並みではない。それは俺が一番よく知っている。
言葉に詰まっていると、彰は首を少し竦めた。
「あーあ。アレだけ助けてきた僕に、そんな大事なことを一言も無しとは。ちょっとショックっす」
「……すまん。これは俺だけでやるべきだと思ってな」
「そっすか」
「それで、何をしにきた?」
こちらからの質問に、ようやくニコリと彰が笑う。しかし、その目は、敵意に溢れていた。
「邪魔しに来たんす」
「邪魔、だと?」
「えぇ、邪魔っす。サッキーの所へは行かせません」
「何故だ」
いつでも彰は俺のために動いてくれた。そんな男が、何故。
ポケットに手を入れたまま、彼奴がこちらに近づいてくる。
「僕はっすね」
俯き加減になった彰の表情は窺い知れない。
「僕はオサの駄目な所が好きなんす。貧乏くじ引いて、上手くいかない世の中を嘆いて、何をしても空回りして、気持ちを素直に表せない、そんなオサが好きだったんす」
「……は?」
おいおいおい、何を言いだすのだ。無礼にもほどがある。こんな場合はどんな顔をすればいいのだ。
俺は訳も分からず愕然としていると、決意の籠った瞳を彰は向けてくる。
「いいっすか!」
「よくないわ!」
憤慨する俺を無視して、彰はポケットから出した手をビシッとこちらに突き付ける。その手には銀色の棒状の何かを持っていた。こちらの話を聞くつもりは毛頭無いらしい。
「僕はオサの幸せな所なんて見たくない! 幸せなオサなんて、オサじゃない! そんなの、ただのおっさんだ! 僕は僕のために、オサがオサであるために、命懸けでアンタの恋路を邪魔してやる!」
なんて馬鹿なことに命をかけるのだ、この腐れイケメンめ!
「さぁ来い!」
彰が銀色の棒を咥える。あれは、笛? 何かを呼ぶ合図を送る気か! ファイティングポーズを取り、事態に備える。しかし、彰は息を吹き込んでいるようだが、不思議なことに笛から音が出ていない。
「おい、故障か?」
「さぁて、どうっすかね」
ただ、彰は勝ち誇ったように笑っていた。
すると、戸惑う俺の耳に段々と近づいてくる大量の鳴き声が届く。もっと具体的に言えばワンワンである。その鳴き声の主達が彰の足元へと次々集結してくるではないか!
「な、な、」
大はゴールデンレトリバーから小はチワワまで。そう、犬である。10匹はいようかというワンちゃん達である! 彰は優しく賢そうな顔つきのゴールデンレトリバーの頭をよしよしとなでた。
ワナワナと震える指を犬塊となった彰に向ける。
「な、なんだ、どういうことだ!?」
「この時のために知り合いとかから借りて回ったんす」
「この時の?」
「僕はね、ブリーダーの資格を持ってるんすよ。それで、ペットの躾とかも請け負っていまして。僕の手にかかればどんな犬でもこの笛一つで、ご覧の通りっす」
「お前は一体何なんだよ!」
「それは答えられません」
彰は再び笑みを浮かべる。残酷な笑みだ。そこで、ようやく相手の狙いに気付き、俺は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「やめろ……やめてくれ」
「GO! あの男にじゃれつけ!!」
彰が笛を咥える。ワンちゃん達がこちらに向かってくる。その瞳はキラキラして一片の濁りもない。俺が遊んでくれると、信じ切っているのだ。
「ワンワン!」
レトリバーが飛びかかってくる。ぷに。肉球が足に触れる。
「あふん」
そのあまりの気持ちよさに力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。いや、駄目だ! 気をしっかり保っ、ぷに。おふぅ。次々と種々様々な肉球が襲いかかってくる。いや、やめて、理性が。
「犬好きのあなたに、その肉球地獄から抜け出すことが出来ますか!?」
両手を広げた彰が高らかに叫ぶ。なんてことを、なんて残酷なことを考えるのだ! 彼女の元に行くには、この子達を振り払っていけと、このキラキラの瞳を裏切っていけと、そう言うのか!?
「くぅぅん」
可愛い! 今何時だ? まだ時間はあるか? 少しくらいなら遊んであげても……駄目だ駄目だ! そんな時間があるものか! 第一、そのような心構えで彼女に勝てるはずもない!
「あきらぁぁぁ!! 許さんぞぉぉ!! ぐぅぅ!!」
唇を噛みしめ、目を血走らせ、一歩を踏み出す。ワンちゃん達がその足にじゃれついてくる。すまない、すまない。今の俺には遊んでいる暇はないのだ。まるで自分の周囲だけ重力が10倍になってしまったような鈍重さで、また一歩、また一歩と足を踏み出す。
そんなこちらの決死の形相を見てか、彰の表情から笑みが消えた。
「……やりますね。ではこちらも本気で行きます」
その言葉に、にわかに『絶』と『望』の字が脳裏に浮かんだ。
彰が笛を咥える。走れ、走るのだ。アイツが何かする前にあの笛を奪ってしまえ。だが、足元で飛び跳ねるワンちゃんがその行く手を阻む。走れぬ。万が一でもこの子達に危害を加えるようなことなど出来ぬのだ。
彰が無音の笛を吹くと、ワンちゃん達が一斉に反応する。腹ばいで皆がお利口に止まった。これは、『伏せ』である。何をする気だ? いや、動きが止まったならば好都合!
一気に彰との距離を詰めようと、大股で一歩踏み出す。
その時であった。
ゴロン。
全てのワンちゃんが一糸乱れぬ動きで仰向けに寝転んだのだ。
キュン、と心の軋む音がした。
「う、うおおおぉぉぉぉッッ!!」
純粋な瞳が俺を見つめている! へそ丸出しのあられもない体勢で! 濡れた瞳で俺に訴えのだ! ナデナデシテーナデナデシテーと!
くずおれそうになる体を抱きしめ、必死にその場に踏みとどまる。
だが、そんな努力を嘲笑うように、犬使いの悪魔が優しく囁く。
「さぁ、どうですオサ。今なら撫で放題の触り放題っすよ」
「よくも、ここまでの……!」
動機と息切れが酷い。こんな天国のような光景があるのだろうか。種種様々なワンちゃん達があますことなく全てをさらけ出しているなど! こんな時でなければ理性の鎖など軽く引きちぎって飛び込んでいるところだ。これは地獄。正に地獄だ。
「くぅん、くぅぅん」
ワンちゃん達の切ない鳴き声に、痛烈なカウンターを受けたボクサーのように腰が落ちる。立っているのがやっとだ。
「うぐぐっ」
「いくらでも遊んでいいんすよ。ご要望には何でもお答えしてあげます」
「にゃにぃ!?」
夢だったアレやコレ。あんなこともこんなことも!? これは紛れもない悪魔の囁き……だが、だが、わかっていても、飛び込んでしまいたい!
悪魔はそんな俺の動揺につけこみ畳み掛けてくる。
「例えばぁ、この子たちにぃ、もみくちゃにされてぇ、顔中をぉ」
「かっ顔中を?」
「ペロペロ」
「ペロペロッッ!?!?」
ブツン、と何かが切れた。
「あっあっかっかわっキャッキャワワ!!?」
「そうっす、時間を忘れて楽しんで下さい」
「うぎょー! ワンワンモフモフワンワンモフモフ!」
「……行ったところで勝てやしません。ならここで遊んだ方がいいと思いませんか」
…………
俺は湖山池のように深く淀んだ水の底から、本能のままに犬達の体を貪る自分の姿をおぼろげに見ていた。
そうだ、彰の言う通りだ。俺は榊原さんに勝ったことがない。ならば、そこで深い絶望を味わうより、ここで一時の快楽に身を任せた方がいいではないか。そうだ……元から勝ち目の薄い戦いだ。それより見ろ、この馬鹿丸出しの楽しそうな姿を。こんな馬鹿丸出しになれるのは人生でそうそう無いぞ。
(それでいいわけねぇだろ?)
誰かの声が聞こえる。
(オレっちが後押しすっからよ)
何者かが腕を引っ張り、水面へと引き上げていく。
(最後まで頑張れ、兄弟)
「なぁコタロウ。お前も無理だと思うか」
「無理じゃねぇって兄弟。イケルイケル」
…………
そうだ。俺には心と心で繋がった、真の友がいる。
こんな仮初の関係に。
「現を抜かすわけにはいかんのだ!!」
ガバッと立ち上がり、油断しきって近づいていた彰へと飛び掛かる!
「なっ!」
「終わりだ! あきらぁぁ!!」
驚き慄く彰の手から笛をはたき落とす。小さな金属音を立てて笛は地面に転がった。
彰は叩かれた手を押さえ、片膝をついた。
「くっ……ここまで、っすか」
「俺にはコタロウがいる。このような行きずりの者達などには惑わされぬ」
「コタロウ? オサのバイト先の……」
やはり知っていたか。もしもだが。もしこの場にコタロウがいたならば、俺が理性を取り戻すことは不可能だったかもしれない。この底知れぬイケメンの手がコタロウにまで伸びていなかったことは、本当に幸いであった。
紙一重の勝利。表面上は取り繕っていたが、冷や汗が止まらない。
力が抜けたように「フッ」と彰が笑う。
「色々手を回したんすが、全部裏目に出たわけだ」
「……どういうことだ?」
「僕はね、オサがサッキーと……いや、女性と付き合えるなんて、これっぽっちも信じてませんでした」
「お前……」
いきなり酷いのではなかろうか。
内心少しばかり傷ついた俺を無視して、彰は続ける。
「だから、適当に煽っていれば、面白いことしてその内自滅するって思ってたんす。ねっとりとストーカー行為を始めた時なんかは最高でした」
「ちょ、ちょっと待て。何を言いたいのか、まず説明しろ」
「……サッキーに言い寄る男がいるって栗原さんの騒動の前に言いましたよね。あれ、嘘っす。栗原さんをオサにけしかけたの、僕っす。『とっとり屋』のことだって、僕が情報をあの二人に流しました」
「それは、つまり」
「そう、僕はオサに協力するフリをして、裏で妨害されるように仕向けて、その様子を面白おかしく見させてもらってたんすよ」
なんということだ。全てコイツの掌の上で踊らされていたのか。言わば、俺は彰という白兎に騙されて踏みつけられたワニザメというわけだ。
拳を握りしめる。それを見た彰は諦めたように目を伏せた。
「殴りますか。そうっすね、それだけのことをしてきました。オサと会ったのだって、とんでもない駄目な奴等がいるって噂を聞いたからなんす。『新歓つぶし』の話は笑わせてもらいました。もう十分、皆さんの駄目っぷりは楽しませてもらいました。一発や二発なら、その代金として受け取るっす」
握った拳を振り上げる。
そして、拳を開き、俯く彰の肩へと優しく置いた。
目を丸くした彰が顔を上げる。
「えっ」
「言いたいことはいくらでもある。が、敢えてこう言おう」
一度、深呼吸をした後、彰を真っすぐに見た。
「ありがとう。お前のおかげでここまで来れた」
因幡の白兎。自分のためにワニザメを利用し、ワニザメの怒りを買って生皮を剥がされてしまった白兎の神話。この有名な話の舞台が、実は鳥取であることを知る人はほとんどいまい。
その自業自得っぷりに白兎だけがやたらと有名になってしまったが、実はこの神話はある男神と女神の恋物語が本筋なのである。
皮を剥がされた白兎を、トロ臭いが心優しい大国主命が助けると、兎が「お前超絶美女と結ばれるぜ」と予言し、実際に絶世の美女である八上姫から見染められる、そういうお話。つまりこの白兎は恋のキューピット役なのである(実際に鳥取市にある『白兎神社』は縁結びの神社として有名だ)。
そう。俺にとって彰は、ワニザメにとっての白兎であり、大国主命にとっての白兎であった。
彰は力無く笑うと、スッと洗練されたイケメンな所作で立ち上がる。
「アンタ、結構お人好しなんすね」
そして、やれやれといったように首を振った。
「はぁ……負けました。完敗っす。こうなったらオサが負けて帰ってくることを祈ってますよ。祈らなくてもそうなるでしょうけど」
「口の減らない奴め」
軽く頭を小突いてやる。すると、彰はふと表情を引き締める。
「あの、実は、サッキーのことで」
「なんだ」
「……いえ、なんでもないっす。さっさと行って下さい。時間ヤバいっすよ?」
スマホで時間を確認すると、約束までに早歩きでギリギリといったところまできていた。彰が何を言いたかったのか聞きだしたいところだが、そんな余裕はなさそうだ。
「むう。彰よ、このワンちゃん達はちゃんと飼い主のところに返せよ」
「わかってますって」
彰が頷いたのを確認して、急いで歩き出す。その時、
「ここまで来たら、オサの幸せな姿って奴も見たいかもしれません」
背中に投げかけられた言葉。俺は軽く手を上げ、それに応えた。
…………
ジャンパラリの出入口に立つ。時刻は16時55分。なんとか指定時間ギリギリに到着出来た。榊原さんはもう先に来ているだろうか。深呼吸をして息を整えると、引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
出入口付近に設置されたカウンターで、新聞に目を落としていたうらぶれた店主が顔をあげる。
「お友達、先に来てるよ」
そのうらぶれた視線の先には。
榊原さん。そして、圭二と空也が待っていた。