19.
遂に初デェト、もとい、榊原さんとの食事の日となった。
俺が駅前で待っていると、約束した時間通りに彼女は現れ、いつものように凛と背筋を伸ばした姿勢でツカツカと歩み寄ってきた。
「相変わらず早いね。もしかして待たせた?」
千切れんばかりにブンブンと首を振る。
「いや、今来た所だ!」
嘘である。こちとら、かれこれ一時間はここにいたのだ。
あのジャンパラリの夜から色々と思い悩んだ末、結局彰の助言通りに近場にある大衆居酒屋に行くことにした。君の瞳に乾杯的なシチュエーションには密かに憧れるものの、シャレオツな店を全く知らない俺に選択股など元から無かったのだ。そして、悩みのガン細胞たる邪悪なる二人であるが、彼奴等とは一切の連絡を絶つという手段をもって対策とした。更には、ほとぼりを覚ます意味(と心と体の準備期間)として、二週間の時を空けた。これだけ用心すれば、いくら妖怪然とした彼奴等とはいえ邪魔をできまい。現に一時間前から待ち合わせ場所である大学前駅のロータリーに乗り込み、辺りの様子を徹底的に探ったが、悪鬼羅刹共の気配は微塵も感じられなかった。
だが油断はするな、と自分に言い聞かせる。どこで地獄のような罠が待ち受けているとも限らんのだ。注意を払って悪いことなど何もない。
そんな俺の様子が気になってしまったのか、榊原さんが微かに眉を潜める。
「……何をキョロキョロしているの?」
そして、辺りを見渡した。
「別に変わりは無いみたいだけど」
「な、な、何でもない!」
いかん、悪いことしかないではないか。居もしない敵に怯え、榊原さんを不安にさせるなど本末転倒。えぇい、ここまできたら腹を括れ田中総一郎!
額に滲む汗を拭い、渾身の力を込めて爽やかに笑ってみせた。
「今日は少し暑いなと思っただけだ」
「そうね。田中君の格好だと少し暑いかも」
そう、今夜は何故か暑かった。垂れ流しにしていたテレビで気圧配置がどうのこうの言っていた気がする。そんなことなど気にせず、一週間前に買ったやたらとシュッとしている長袖の勝負服(彰に頼みこんで選んでもらった。しめて3万である。大別すればただの布である服ごときにこんなに金をかけたのは人生において一度もない)を着こんできてしまったため、妙なフィット感も相まって非常に暑苦しいのだ。
榊原さんはといえば流石であり、今夜の暑さを考慮して薄手の格好になっていた。露出している二の腕が眩しすぎて目が潰れそうである。服装のことを褒める言葉を俺は持ち合わせていないが、今日も榊原さんは美しいと断ずるに些かの迷いもないため、彼女に着られて服も喜んでいることだろう。
ぼんやりと見惚れていると、榊原さんは口角をほんのり上げる。
「でも、頭は涼しくなってる」
「ん、あ、あぁ」
彼女に指摘されて思わず頭に手をやった。服を買った帰りに、久々にいきつけの床屋へと足を運んだのだ。これも彰からのアドバイスで「大事なのは清潔感」とのことなので、凝った髪型などにはせず、短めにするくらいに留めた。ただ、長い間伸び放題だったため、やはり違和感はある。朝、寝ぼけた状態で鏡の前に立つと、ツルツルに剃った顔も相まって、別人が映ったのかと思いギョッとする程だ。
「う、鬱陶しくなってな! もしかして……へ、変か?」
「ううん。似合ってる」
彼女のその一言で、自分の体温が急激に上がっていくのを感じる。これは断じて服装のせいではない。そして、今二人きりなのだということをやっとのことで自覚する。
こ、これは言わば、デェト! いやいや、元から俺はデェトのつもりだ。いや、デェトだったか? ん? 何をしようとしていたのだっけ? 心臓がドンドコと『がいな祭り』をおっぱじめる。頭の中が真っ白になっていく。あれ? 何で、俺はここにいるのだ?
榊原さんが美しいセミロングの黒髪を揺らし、首を傾げる。
「どうしたの?」
「は、はぇ!?」
「顔色悪いわ」
「そんなことは、無い! さ、榊原さんこそ何故ここに?」
「本当に大丈夫?」
彼女が怪訝そうに眉を潜めた。
「あなたに呼ばれて来たのよ」
「なんだ……と?」
ドンドコドンドコ、がいな祭りだ、ワッショイワッショイ。
よさこい、万灯、花火もあるぞ。
鳥取よりも米子の方が栄えてる、アヨイヨイ。
「とっとり……」
「えぇ。今日は『とっとり屋』に飲みに行くのよね?」
「飲み……?」
あ。
「あ、あや、あやや! 違う違う! 体調もばっちり元気だ!」
「……それならいいけど」
本当に? と彼女がもう一度念を押してくる。俺は赤べこの如く頭を上下に激しく揺らした。
思いだした。俺の名は田中総一郎。今日は彼女と飲みに行く。そのためにこの大学前駅で待ち合わせていたのだ。えーと、これだけだったか。他に何か大事なことは忘れていないか。あぁ、そうだ。『がいな祭り』とは米子市で行われる鳥取最大級の祭りであり、がいなとは鳥取の方言で『大きい』という意味なのだ。更に、米子市は県庁所在地である鳥取市を差し置いて、駅に県内初の自動改札機を導入しているなど、何かと優遇されている。ちなみに鳥取駅には未だに自動改札機が無い(そのためICOCAなどのICカードは使えない)。よし、全部思い出したな。
「すまない、えー、あ、そう! 少しばかり宇宙に思いを馳せていたのだ!」
「宇宙?」
「そ、そう宇宙! 星が好きで、夜外に出るとどうしても」
「へぇ、意外」
彼女はそう言うと、空を見上げる。だが生憎、星は雲に遮られて見ることができない。鳥取は日本一日照時間が少ない県とも言われていたことがあり(実際は最下位辺りをウロウロしている程度)、大体曇天なのだ。20時には凡その店舗が閉まり、街灯も少なく、圧倒的光量の無さから満天の星空を望むことのできる鳥取ではあるが、実際にそれを目にすることができるのは五日に一回あるかないかといった所だ。
榊原さんはため息をついて、上品に首を振る。
「残念ね」
そして、少し笑った。
どういうことだ、今日の彼女はよく笑う! その顔を見ていると、こちらの顔は蒸気し、天に昇っているようなフワフワした心地となってしまうのだ。
耳の奥底がムズムズする。もう彼女を見ていられなくなり、視線を逸らして短髪となった頭を掻いた。
「そ、そ、そろそろ行くとしよう!」
「えぇ」
俺がさっさと歩き出すと、彼女が後ろからついてくる。本当は、本当は並んで一緒に歩きたい。しかし、そんなことをした時には、あまりの緊張で心臓麻痺を起してしまうに相違あるまい。
…………
我々がやってきたのは『とっとり屋』という鳥取に広く展開しているチェーン居酒屋だ。大学近くの山陰道沿いに大きく店を構えている。ほぼ家飲みである俺とは縁遠いが、大学からほどよく近いことからT大学生にはおなじみの店である。派手な赤色の看板が目印だ。
店の中に入ると、ほとんどの席が埋まってしまっていることがわかる。何かを言って大声で笑う者達、イヤらしい目つきで男女交流会を楽しむ者達、筋骨隆々の肉肉しい男共、種種様々な集団が見て取れるが、共通することはただ一つ。全て罪深き大学生の集団であるということだ。つまり、とてつもなくうるさい。
店内入口で、そのうるささに圧倒されている俺を、小柄な女店員が出迎えてくれる。
「……ませぇ……名……しょうかぁ?」
何かを言っているが、その声は店内の喧騒によってほとんどかき消されてしまっていた。そこから察するに、例え世間話をするような距離感であっても、相当声を張らねば相手に伝わらないようだ。
「予約していた田中だ!」
「……ーい。こち……どーぞ」
彼女はにこやかに笑うと奥にあるテーブル席へと案内してくれた。一番端にあるためか少しだけ静かだ。しかし、これは失敗だったかもしれん。まさかこんなにうるさい場所だとは。榊原さんの様子をチラリと窺う。その顔は相変わらずの無表情であった。
席に座ると、ピアスをつけた軽薄そうな男店員がやってきて、水の入ったコップとおしぼりを置いた。
「飲みモンはお決まりっすか?」
気だるげに聞いてきたその店員に、俺が「後で呼ぶ」と答えると、男は首を捻りながら、喧騒の中へと消えていく。目の前のコップをひん掴み、一気に中身を呷る。うまい。緊張で喉がカラカラになっていたのだ。コップをテーブルに置き、一息つく。
よし、まずは飲み物を聞いて、それから……六畳間で構築してきた緻密なシミュレーションを脳内で復習する。戦いとは戦う前に勝敗は決しているもの。大事なのは勝てるイメージ。そう、『勝てる!』城を築き上げることなのだ! いける、いけるぞ!
「さ」
「田中君」
「う、え!」
「飲み物どうするの?」
ぐおぉ! 機先を制された! 彼女は既にメニューの飲み物と食べ物のページをテーブルの上に広げている。ば、馬鹿な。完璧すぎる布陣……! 最早こちらの立ち入る隙など皆無ではないか。一パターンしか考えていなかった会話の門に豪快な砲撃を食らい、『勝てる!』城から兵士たちが一人たりとも出られなくなってしまう。緻密すぎるシミュレーションが仇となった。兵は拙速を尊ぶと言うが、それに最高の策が付いていたら、全くもってどうしようもない。手が俄かに震えだす。さっき飲みほしたばかりだというに、もう水のおかわりが欲しくなってきた。
「さ、榊原さんから」
「もう決めたわ」
「そ、そうか……」
メニューに目を落とす。落ち着け、諦めるには早い。深呼吸を一つする。手を思い切り握りしめ、震えを抑え込む。まだだ、まだ策はある。城門を壊されようが、籠城戦闘はできる。ここは男らしく店員を呼んで頼りになる男をアッピールするのだ。手をすっとあげる。開戦の狼煙だ。店員を呼ぶ所作はここ二日みっちり練習してきた。鼻から息を吸う。鏡の前で探しだした奇跡の角度。その封印を今こそ解き放つのだ!
「て」
「ガルベスー!!」
隣の座敷にいたマッチョな男の叫びにこちらの声はかき消される。
「て」
「それクロマティだろ!!」
「て」
「断然バース!!」
「「ぎゃぁはっはっは!!」」
ええい、このムキムキ野郎共はさっきから何を叫んでいるのだ! 上げた手は所在なく宙を彷徨う。マッチョな男共と野球のユニフォーム姿の外国人共が「HAHAHA!」と笑いながら、我が『勝てる!』城を蹂躙してゆく。残ったのはへにゃへにゃと掲げられた白旗一本。まさかこのような横槍、いや肉弾球が飛んでこようとは。マッチョが憎い。助っ人外国人が憎い。
「すみません」
マッチョ共の奇声をスマートに掻い潜り、榊原さんの凛とした声が響いた。その声に先程の小柄な女性の店員が気付き、こちらに小走りで寄ってくる。
「お呼びでしょうか?」
「注文を」
「はい、どうぞ」
「たんたかたん、ロックで。田中君は?」
私は貝になりたいとは、まさにこのような状況を指すのだろう。残った白旗も榊原さんにえいと蹴り折られた。後には荒れ地が広がるのみ。俺はしょんぼりと俯いて「生中とあご竹輪」と、か細い声で呻いた。
…………
二人の間に沈黙が流れる。挟まれた酒達がこの重い沈黙に冷や汗を流した。もうかれこれどれくらいこうして固まっているだろうか。永遠にも感じる。いや、実際の時間にしたらカップ麺すら出来あがっていないだろう。ごくりと息を飲む。何でもいい、何かきっかけを……
考えがまとまらぬままだが、意を決して口を開く。
「と、とりあえず乾杯でもしようではないか」
「乾杯? 何に?」
榊原さんの質問に思わずたじろぐ。そうか、乾杯とは何か対象が必要なのか。全くもって考えていなかった。ど、どうしよう。
「う、えーと、お、お母さん?」
思わず口をついた言葉に、彼女がぷっと吹き出す。空気が和らぐのを感じた。
榊原さんはロックグラスを持ち上げて微笑む。
「えぇ、えぇ。いいわ。お母さんに乾杯」
まさかの好感触に動揺しながらも、俺はビールジョッキを持ち上げる。
「か、乾杯」
二人のアンバランスな大きさのグラスがチンと甲高い音を立てて重なる。そして彼女は焼酎を、こく、と喉を鳴らし一口飲む。なんとも色っぽい仕草だ。ぼうっとその様子を眺めていると、ふいに彼女と目が合いそうになったので、手元のビールを慌てて一気に呷った。シュワシュワとした喉越しが乾いた喉に心地よい。
「ぷはっ」
だん、と空になったグラスをテーブルに叩きつける。店員を呼び、『久保田』を頼んだ。飲んでいないとどうにかなってしまいそうだ。
榊原さんは頬杖をつくと、空いている手で枝豆を手に取った。
「お酒強いのね」
「そ、そうか? 榊原さんこそ、いきなり焼酎とは中々の酒豪ぶりだ」
「私はゆっくり飲むのが好きなだけ」
彼女は枝豆をゆらゆら揺らした。
「田中君ってマザコン?」
その言葉に、手に持ったカットあご竹輪を落としそうになる。
「な、何をいきなり!」
「だってお母さんに乾杯って」
「違う! 断じて違う!」
手をぶんぶんと振る。ちぎれんばかりに振る。
「あれは、えーと、そう! 産んでくれてありがとうとかそういう感じのアレだ!」
「そんなに否定しなくてもいいのに」
彼女は枝豆を剥き、口の中に放る。そして、また一口酒を飲んだ。
「……でも、そうね。そういうのって大事だと思う」
「そうだ、感謝は大事だ」
思いつきの発言ではあるが、実際に今は二人の母親に感謝しているのだ。俺を産んでくれた母親、そして榊原さんを産んでくれた母親に。
テーブルに先程頼んだ久保田が置かれる。
すると、榊原さんがロックグラスを揺らし、切れ長の目をこちらに向けた。
「もう一度……」
「?」
「もう一度、乾杯しない?」
彼女がグラスをからりと鳴らす。
俺は空気を読むような男ではないが、空気の読めない男ではない。恐らく彼女が待っているだろう質問をする。
「今度は何にするのだ?」
「お父さん」
そう言って彼女は微笑んだ。くそ親父か……あんまり乾杯したくない相手だ。「この馬鹿息子め」と高らかに笑う姿が目に浮かぶ。だが、うむ。
腕を組んで考え込んでいると、榊原さんが首を傾げる。
「駄目?」
「いや、いいが」
「が?」
「榊原さんはファザコンか?」
「ふふ、かもね」
こちらのささやかんな逆襲を、彼女は笑顔でさらりと流す。この天使のような笑顔に免じて、親父の事は特別に許してやろう。目前にある久保田のグラスを手に取る。
「では、親父に」
「お父さんに」
「「乾杯」」




