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私はこれまで後悔という感情とは無縁の人生を送ってきた。しかし今、私はありとあらゆる後悔の念に苛まれている。
我がモラトリアス侯爵家の始まりは、嘗て大陸を支配していたオースレシアから我が国カンタレツィア王国が独立する際に最も貢献した騎士の一人、ラスウィーク・モラトリアスである。モラトリアス侯爵家は我が国建国の折から王家に忠誠を誓い、その系譜は代々優秀な騎士を輩し王家の剣や盾としての役割を担ってきた。私自身、長らく近衛騎士の長として陛下の傍をお守りする役目を担うという名誉に強い自負を持っていたし、当然我が子にもそれを課していた。妻に早くから先立たれたが、死んだ妻を愛していた私は後添えを迎える気にもならなかった。一族の中にはうるさく言う者もあったが、跡取りである息子は申し分ない程度に優秀であったため、さしてその必要もなかったというのも幸いした。私の手一つでモラトリアスの名に恥じぬ立派な騎士に育てなければならないという信念の下、我が子には殊更に厳しくあたったように思う。私は騎士としての誇り以外、何もない人間であった。
まだ幼い娘の姿に亡き妻の面影を感じ、無意識のうちに遠ざけていたと気づいたのは、娘が5つの誕生日に剣を強請った時だった。将来は父上のように王様を護る立派な騎士になりたいのだと、兄のように自分にも剣を教えてほしいと。私の近衛騎士としての姿など見たこともないはずの娘が強い羨望の眼差しで私を見ていた。女の身で剣を習うなどあってはならないと一蹴すればよかったのかもしれない。しかし娘の視線に幾許かの罪悪感を刺激された私は、自身の護衛術の一環として剣を取ることを許可した。ところが皮肉なことに、娘は天賦の剣の才能を持っていたのである。
水を得た魚のように生き生きと剣を振り回し、剣士としての技術を飲み干すが如く吸収し成長していく娘の指導に、私は徐々にのめり込んでいった。これまで娘と会話らしい会話などしたことがなかった私も剣を持つときだけは饒舌になった。私は毎度、娘が立てなくなるまで剣の指導をした。
そしてある時。妻に似た美しい髪を振り乱し、その柔らかそうな頬や腕に痛ましい傷をつけ、手が痺れて上手く剣を握れず、それでも闘志を瞳に燃やし懸命に立ち上がろうとする娘の姿を見下ろしふと気づいたのだ。これは女であったのだと。いや、私は長らく目を逸らしていた。跡継ぎにするはずの息子にすら、ここまで執拗な指導は行わなかったことを。私は心のどこかで思っていたのだ。これが女でなかったら、男でさえあれば、兄を遥かに凌ぐ……いや、私をも凌ぐ剣士となっていただろうと。
その日を境に娘に剣を握ることを一切禁止した。代わりに教師を呼び、淑女教育を徹底させた。初めこそ剣を振るうことを懇願していた娘も次第に諦め、淑女教育に取り組むようになった。幸い娘は何をさせてもそこそこ優秀であった。娘の優秀さを謳う教師からの報告に私は大変満足し、これで正しい道に戻れたのだと信じて疑わなかった。剣を持った時にだけ交わされていた会話は無くなり、また元のように娘とは会話らしい会話もしなくなっていった。そうして教師に淑女としての太鼓判を押されるまでになった頃、陛下からの打診により娘と王太子との婚約が成された。娘は粛々と自分の将来を受け入れているかのように思えた。
思えば私にとって娘とは、最初から理解し難い得体のしれない生き物であった。妻が生きていればまた違ったのかもしれないが、理解し難いものを理解しようとする努力こそ、私に一番に足りないものであったのだろう。気づいた時には娘が何を欲し何を考えているのか、私には全く想像すらできなくなっていた。そしてそのことに懸念を抱くこともなくなっていたのである。
陛下からの王太子と娘の婚約破棄の打診を受け入れ、それを娘に告げた時でさえ娘は淡々と受け止めていた。そもそも私は王族からの命で婚約を受け入れただけで、娘が王妃になることに執着していたわけではない。モラトリアスはあくまで王に忠実な臣下であるべきで、王家と縁続きになることにこだわりなど抱いていないのだ。女とはいえ、モラトリアスの一員である娘も私と同じ考えであるのだと信じ込んでいた。娘の言動がおかしくなったのはその後だった。
使用人からも人が変わったようだと訴えられ、学院を卒業してからはあらゆる場所でトラブルを起こした。突然の婚約破棄に同情的だった周囲の目も次第に厳しくなり、王族の忠臣であるモラトリアスの品位を落としかねない事態に陥った。
言動を改め暫く領地で心身の療養に努めるか、モラトリアスから除籍し修道院で幽閉生活を送るかどちらかを選べという私の選択に娘は淑女の見本のような仕草で礼を取り、告げた。
「どうか私をお切捨てください」と。
娘が何故人が変わったかのような言動を繰り返すのかも、何を考えているのかも、その時の私には全く理解できなかった。結局私はモラトリアス家の名誉を守るため、娘を除籍する決断を下した。そして屋敷から幽閉地に向かう道中、娘は忽然と姿を消した。これが我が娘のまともな姿を見た最後である。
「全く、情けないものだ」
ふと呟きが口を衝いていた。
私はこれまで後悔という感情とは無縁の人生を送ってきたはずだった。しかし過去を振り返れば振り返るほど後悔の念が胸に去来する。
あの日、我が元を去っていく娘の背中を何としても引き止めていたら。あるいはあの時、娘の胸の内を聞く耳を持っていたら。そもそも王太子と婚約などさせなかったら。娘の意思を汲み、剣術を続けさせていたら。意地を張らず後添えを迎えていたら。
私はモラトリアス家を継ぐ者という自負と、王族を護る剣と盾である騎士という仕事に誇りを持っていた。だがそれが何だ。今の私はその全てを失い、空っぽの生を生きている。
私が娘にしてやれる最後の情けが、娘の頭と胴を分かつこととは。私の人生とはなんと無様で、無味乾燥なものであったのだろう。