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彼女が再び学園に戻ってからの出来事は、私にとって思い出すのも辛く苦しい記憶にあたります。
それからの彼女はまるで人が変わったかのようでした。理性的で公明正大であった彼女の姿は見る影もなく、傲慢不遜で時折癇癪を起しては周囲を戸惑わせました。彼女を取り巻いていたご令嬢方も彼女の変わりように困惑し、次第に彼女から距離を取るようになりました。その頃にはどこから漏れたのか、殿下と彼女の婚約関係がうまくいっていないのではないかという噂が流れておりましたし、身分の高いご令嬢などはもし婚約が解消されれば次は自分が殿下と婚約できるかもしれないと色めき立ってもおりました。
徐々に彼女は孤立していきました。誰もが彼女に哀れみや蔑みの目を向けました。学生のみならず教師までもが腫れ物に触るように彼女に接しました。このままでは彼女を擁護し味方になってくれる者がいなくなります。彼女の望むものとは全く逆の結果を招いてしまうことになるのを、私は危惧しておりました。殿下からの婚約解消の打診が一方的でかつ理不尽であるものだと世論に訴えかけるには、婚約解消の噂が流れている今こそ彼女は完璧な令嬢でなければならないのです。
私はなんとか彼女にわかってもらおうと、連日私たちの秘密の会合の場に赴きましたが、彼女は一向に現れませんでした。
それならばと授業の合間や移動中の彼女の姿を探して直接訴え出たりもしました。しかし彼女は冷たい一瞥をくれたきり私の存在を無い物としたり、「下賤な身分の者が私に話しかけるなんて」と罵声を浴びせ私の頬を張ることもありました。私は、これまでの私たちの友情がガラガラと音を立てて崩れていくような恐怖を感じました。しかし、私は未だあの暖かな陽だまりの下育んだ確かな友情にしがみついていたかったのです。
そんな私の感傷をよそに、私たちの間には決定的な分かれ道が迫っていました。
私たちの卒業公演が近づいていたある日のことです。私は彼女の寮の私室に招待を受けました。ようやく彼女と個人的な話し合いの場が設けられることに私は浮足立っておりました。
久しぶりに顔を合わせた彼女は、以前のように穏やかに見えました。最近の彼女の姿が夢か幻だったのかと思ったほどです。彼女は侍女が入れたお茶を私に勧めた後、侍女を部屋から下がらせました。それから、陛下に呼び出されてからのことをぽつりぽつりと話し始めました。
「酷い態度を取ってごめんなさいね。最近の私は少々気が動転してしまって」
「構わないわ。またこうしてあなたとお話しできて、私がどんなに嬉しかったか! ねえ、ベア。陛下とのお話し合いはどうなったの? 突然あなたと殿下の婚約解消の噂が流れてしまうし、私気が気じゃなかったわ」
「…では、あの噂はあなたが流したものではなかったのね」
「何を言うの! 当り前じゃない! 私たちの友情に誓ったあの約束を私が違えるはずがないでしょう!」
はしたなくも私は声を荒げてしまいました。例え彼女からであっても私たちの美しい思い出を汚されたくなかったのです。
「本当にごめんなさい。そうね、あなたが私を裏切るはずがないのだわ。近頃私、誰も信じられないような心持ちだったものだから」
「いいえ、私こそ取り乱してごめんなさい。あなたがそう思ってしまうのも無理ないわ。愛し、信頼していた方に酷い裏切りを受けたんですもの。けれど信じて頂戴、私は誰よりもあなたを大切に思っているわ」
「ええ、……知っているわ」
そこで彼女は辛そうに目を伏せました。
「あなたも気になっていたのでしょう?陛下から呼び出しを受けた時のことを。陛下は婚約の解消をお認めになったわ。私が学院を卒業してしばらくすれば正式に発表されるはずよ」
「そんな…」
「相手の女性のことも教えていただけたわ。彼女はとある伯爵家のご令嬢で、事情があって長い間領地で隠されるように暮らしていたそうよ。ほとんど王都に訪れたこともないそうなのだけど、とても慈善活動に熱心な方で、とある孤児院へ慈善活動に赴いた際にたまたま視察に訪れていた殿下とお会いしたらしいわ」
「…そう、伯爵家の……」
モラトリアス侯爵家と比べると数段劣る縁談ではありますが、過去伯爵家の令嬢が王族に嫁いだ例もないわけではありません。子爵以下ならともかくお相手が伯爵令嬢であるならば、彼女の立場が益々厳しいものになると言わざるを得ないでしょう。ましてや陛下すらお認めになったことです。この婚約解消を阻止するのは絶望的な状況に思えました。
そんなことをぐるぐると思案しておりますと、彼女はクスクスと笑い出しました。
「ねえ、笑っちゃうわよね。あなた、その女が本当に伯爵家のご令嬢だと思って?」
「え、でも…陛下がそうおっしゃったのよね?」
「馬鹿ね。そういうことにしたと決まっているでしょう? そもそもあり得ると思う? 殿下の孤児院訪問は公務よ。何か月も前から日程が決まっているし、当日も殿下の身に何事も起こらないよう厳戒態勢が敷かれていたでしょうね。その日に貴族のご令嬢がたまたま慈善活動に訪れるなんてことが本当に起こり得ると思うの?」
「では、殿下とそのご令嬢は別の場所で出会われたということ?」
「いいえ、おそらく出会ったのだわ。その日、その孤児院で」
「どういう…ことなの。まさか――」
「伯爵令嬢との出会いなら、嘘か真かに関わらずいくらでも機会はあるでしょう。けれど敢えてあり得ない状況を口に出すのはそこに真実が含まれているから。慈善活動で訪れたご令嬢とたまたま出会うことが不可能な話なら、辻褄が合わない部分を消してしまえばいい。彼女は、最初から…孤児院にいたのよ。その孤児院の関係者として」
ひゅっと息を飲みました。それが本当ならばあり得ないことです。
私と同年代かそれ以上の年齢の方であれば、ほんの十数年前の世情を想像するのは難しくないでしょう。当時この国は貴族内であっても厳格な身分制度がございました。社交界での発言権があるのはもっぱら力のある貴族家か準貴族の扱いを受けられる一部の有力な商人だけでした。私のようなこれといった影響力のない子爵家ですら、王族と直接お話しする機会など皆無に等しいのです。もし、その方が市井の…それも孤児院出身の者であれば、殿下と婚姻しましてや王妃となるなど全くもって不可能なことだったのです。
今日日、王国の国母となられたヘレナ王妃の出自をこの国で知らぬ者はおりません。ご自身の出自を臆すことなく公表されたヘレナ妃の勇気に感嘆するとともに、この数年間の我が国の歩みが正しく奇跡に等しいものであると断言いたします。それは国王陛下御夫妻の弛まぬ努力と献身の結果であると言えましょう。私のこの手記は、決して国や王室を批判するためのものではないと重ねて申し上げておきます。
私はただ、私が見ていた彼女の生きた記憶を皆さまにも知ってほしいだけなのです。
彼女はにこやかに微笑みをたたえ、私の手を取りました。
「アンネ、私の親友のあなたなら、この事実をどう思う?」
「……それがもし本当に事実だとしたら…。不可能よ、殿下とその方が結ばれるのは無理だわ。陛下も全てご承知のことなのかしら? もし強行し、それが世間に漏れたりしたら……国が、荒れるわ」
「そうね、一度は王妃となる覚悟をしていたのですもの。私だって国が荒れることは本意ではないわ。そのためには元凶を、この国の病理を取り除かなくてはね」
私はその日初めて、彼女に違和感を覚えました。目の前で美しく微笑むこの人は、一体誰なのだろうかと。呆然と彼女を見ることしかできない私に彼女は尚も続けます。
「ねえアンネ、あなたは前に私に言ったわね。あなたは私の味方だと。私のためならば何でもすると。だったらアンネ、あなたの覚悟が本物ならば…あなたのその命、私にくださる?」
「ま、待ってちょうだい。一体どういうこと? ベア、あなた何をしようとしてるの?」
「何って? 私は未来の王妃となるのですもの。この国に巣食う病魔から国を護ろうとするのは当然ではないかしら?」
「も、もちろん私もあなたが王妃になったらどんなにいいかと思っているわ。けれど私は何の力もないただの田舎の娘ですもの…。私にできることなんて」
「ねえ、アンネ。さっきから何をそんなに怯えているの?」
彼女に指摘され、私は自分の体が酷く震えているのを自覚しました。彼女は一層強く私の手を握ります。
「かわいそうなアンネ、怖がらないで。心配いらないわ、全て私に任せてくれればいいの。あなたが私の言うとおりにしてくれれば全てうまくいくのよ」
「ダメよ! ベア、聞いてちょうだい! あなたが何を考えているのかはわからないけれど、思いとどまって! 決して滅多なことをしてはダメよ。賢いあなたならわかっているはずよ。あなたの軽率な行動が家族や周りも危険にさらすことを」
「優しいアンネ、家族のことが心配なのね? 大丈夫よ。私が王妃となった暁には、アンネの家族を然るべき地位に取り立てるわ。事がうまく運べばアンネのお父様だってきっとお喜びになるはずよ」
「いいえ、私はここを卒業すればすぐにでも嫁ぐことが決まっているの。今よりももっと自由がきかなくなるわ。あなたの指示通りに動くことなんてできるはずがないのよ」
「婚約者のことなら心配いらないわ。ベルヒテス子爵には私がもっと相応しいお相手を紹介して差し上げるつもりよ。このままあなたのような何の取り柄もない人と結婚するよりは、モラトリアス家と関わりのあるご令嬢と縁続きになったほうが彼にとってもよっぽど有益なのではなくて?」
それ以上聞いていられなくて、私は彼女の手を振りほどきました。
私が何の取り柄もない取るに足らない人間だということは、誰よりも私が一番自覚しておりました。けれど彼女はそんな私を、自分の大切な友人であると肯定し続けてくれていたのです。私と話すことが、私といることが、何より得難い大切な時間なのだと。私も彼女との時間を同様に感じておりました。そうして少しずつ積みあがっていくようにして培われていた友情が、親愛が、全て、内側から瓦解していきました。私の魂の友人だった彼女はもうどこにも存在していないのだと理解したのです。
それから私が彼女に何を言い、どのようにして部屋を辞し自室へ戻ったのかは覚えておりません。そのまま彼女と話すことはないまま、私たちは卒業を迎えました。
学院を卒業しベルヒテス家へ嫁ぐ前日、私はモラトリアス侯爵家へ手紙を出しました。それは私の魂の友であったベアトリーチェへの最後のお別れの言葉でした。
これが、私たちの友情の完全なる決別でした。