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悪女の消えた世界  作者: 三食うどん
エリオス・サー・アレサンドロ
11/22


 目の前で小さな指がグラスのふちをくるくると撫ぜて遊んでいる。私は酩酊(めいてい)していて、傍で座っている子どもの顔すらぼんやりとしか認識できない。しかしその子どもは酷く心配そうな表情を作ると机の隅にある水差しを指し示した。


「ああ、水を飲めということか。大丈夫だ、自分でやれるよ。ありがとう」


 震える手で水差しを持ち、しとどに零しながらもなんとかグラスに注ぎ終えた。全く、一杯飲んだだけでこの様とは何とも情けない。自分自身の酒の弱さにはとうに見切りをつけ、彼女の言う通り利き酒会でも酒は口に含むだけにしている。なので私がまともに飲酒をするのは一年でこの日だけである。毎晩少しずつでも飲んでみれば多少は酒にも慣れるのではないかとも思うが、何度飲んでもこの酩酊感(めいていかん)は好きにはなれなかった。

 喉に水を流して少しさっぱりした後、脳裏に苦い記憶が舞い戻った。


 護衛騎士たちの目を()(くぐ)った我々の大冒険は、夕日を浴びた誓いの美しい思い出とは対照的に苦い思いで締めくくられることになった。

 あの後直ぐに我々を捜索していた騎士に見つかり、冒険はそこで終わりとなった。見つかってしまったのは残念ではあったが、大人を翻弄(ほんろう)してここまで逃げおおせた達成感に私は大変満足していた。しかし、そんな愉快な気分は直ぐに胡散(うさん)することとなった。報告を受けて駆けつけてきたモラトリアス侯爵が、開口する間もなく彼女の頬を打ったのだ。

 彼女の小さな体が1,2メートルほど吹き飛んだ。一瞬体が凍り付いたが、尚も彼女に向かおうとする侯爵を見ると咄嗟に足が動いた。


「待て! 何をする」


 私は彼女を背に庇いながら、侯爵に向き合った。侯爵は今まで見たことがないような冷たい表情をしていて、自然と足がすくむ。いつも父王の護衛としてそばに控えている侯爵は、私も小さい頃からよく知っていた。勤務中だというのに無理にせがんで遊び相手にしたこともある。生真面目な性格だが、物腰はいつも穏やかで怖いと思ったことは一度もなかった。その侯爵がまるで別人になったかのように見えたのだ。


「殿下、申し訳ございませんがそこをお退きください。私は騎士として、親として、娘に罰を与えなければなりません」

「この者に罪はない! 私が無理を言って連れまわしたのだ。罰なら私が受ける!」

「私は殿下を罰する立場にありません。どうかそこをお退きください」

「ならん! 絶対に駄目だ! 許さない」


 今の私なら、私の行動の何が問題だったのかがよくわかる。だが、当時の私はただただ理不尽に涙するだけだった。たかが子どもの遊びだ、ちょっとした悪戯(いたずら)だ。今までだって、私がどんなに周りの者を困らせても一度も罰せられたことなどなかった。なぜ私が罰せられず、彼女だけが打たれるのか。


「殿下、お心使いありがとうございます。ですが、私は罰を受け入れます」


 背中から声が掛かった。振り向くと彼女が立っていた。顔を真っ赤に腫らしたまま、泣きもせず、真っすぐに侯爵を見つめている。


「お前は自分が何をしたのか理解しているのか」


 侯爵が静かに尋ねると、彼女も静かに答えた。


「はい。私は殿下を護衛から引き離し、殿下を危険にさらしました」

「それをわかっていながらやったのか?」


 侯爵が尚も聞くと、彼女は一瞬言葉を詰まらせ、消え入りそうな声で「はい」と答えた。


「後で罰を受けることになると覚悟しておりました」


 その言葉に、私はガンッと頭を殴られたようだった。あの時も、あの時も、彼女はこうなることがわかっていながら自分に従っていたのかと。ワクワクしたあの冒険も、物語の中の出来事のような騎士の誓いも途端に薄っぺらいもののように思えた。愕然(がくぜん)としていた私を他所(よそ)にして、二人の会話はまだ続く。


「もし護衛の者と引き離された状態で殿下の命を狙う刺客が現れたらどうするつもりだった」

「身を(てい)して殿下をお護りするつもりでした」

「浅はかな。お前の命ひとつ捨てたところで何になる。殿下を護りきれないならば、お前が死んだとてその命には何の価値もないのだ。主君にただ付き従い、主君の危機にはその身を捧げる。それだけならば犬にもできる。真の忠誠とはいかなるものか、真に己の命を捧げるべきはどういう時であるか。それがわからないようならばお前にはモラトリアスを名乗る資格はない。モラトリアスの信条を(まこと)に理解するまで謹慎せよ。ひと月は自室から出ることを許さん」


 私は、自分が罰を受けると知りながら、それを私に悟らせないように付き従っていた彼女に(いきどお)った。だが、それ以上に自分が恥ずかしかった。私の人生で初めて消え入りたいと思った出来事だった。彼女に比べて私は圧倒的に幼く、無分別だ。

 そして物語の中ではなく、現実としての騎士を目の当たりにした。王家筆頭の忠臣であるモラトリアス家を、ラスウィーク・モラトリアスの子孫というものの真髄(しんずい)を垣間見たのだ。それは畏怖(いふ)すら覚えるほどの気高さだった。彼女のような、まるで騎士になるべくして生まれたような人間が、女であるというだけでこの国で正式な騎士になれないなんて。それはこの国が、この世界のほうが間違っている。そう思ったのである。


 後日、父王に呼び出され、事の顛末(てんまつ)を知ることになる。罰は彼女だけではなく、私の護衛騎士たちにも及んだ。軽いもので減俸や配置換え、そして地位を降格したものもあった。モラトリアス侯爵自身も事態の責任を取り、騎士としての給与を一年間無給とした。そしてそのほとんどが、今後出世することが非常に難しくなるだろうことを聞かされた。

 私は私の行動によって、下の者の人生まで影響されることを真実理解することとなった。王族としての義務を現実的な実感をもって知らしめられたのだ。そして同時に身分制度の理不尽さにも直面した。

 王族の代わりに騎士や貴族たちが、貴族の代わりに平民が罪を被る。この国は、この世界はそういう図式で成り立っている。上に立つ者の言動や資質で下にいる者の人生は大きく左右されるが、下から上へはあまり影響がない。そのことの恐ろしさを父王は滔々(とうとう)と語ってくれた。そして、それについて多くの貴族は何の疑問も抱いていないことを。父王はもう少し下から上への風通しをよくしたいと思っていることも。

 この経験が、今も私の中の指針として根付いている。

 事件から半年後、私は再び婚約者として彼女と会うことになった。彼女は変わらず美しく、気高く、そして益々騎士然としていて、まるで物語の中のラスウィーク・モラトリアスのようだった。


 目の前で、彼女が微笑んでいる。私をさも愛しそうに見つめて。しかし私は知っている。彼女は一度だって私にそのような表情をしたことがない。それでも聞かずにはいられない。


「ベアトリーチェ、教えてくれ。……君は、私を愛していたのか?」


 彼女が死んでから幾度となく口にしてきた質問を繰り返す。

 彼女は私の初恋だった。憧れでもあった。彼女は臣下としての姿勢を貫き、私は彼女の友人として、彼女の騎士になりたいという夢を応援したかった。

 それでも特に今日という日は考えずにはいられないのだ。どこかで我々が愛し愛される道があったのだろうかと。

 彼女はやはり私の問いには答えず、艶然(つやぜん)と笑みを浮かべるだけだった。

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