稀代の悪女 、ベアトリーチェについて
ゲルナ歴1278年
カンタレツィア王国歴523年
裁きの女神アガイシスが真上に昇る初冬の折、この国始まって以来の大事件が一人の女の鮮血と共に幕を下ろした。
その日、稀代の悪女、猛悪の魔女。そう呼ばれた女が処刑されたのだ。
それは、どんよりと分厚い雲に全知の神であるサーニアスが隠され、雪がちらつき始めた正午のことだという。凍てつく寒さの中、継ぎ接ぎだらけの外套を掻き合わせ、それでも人々は寒さをものともせず今まさに処刑が行われんとする壇上を一心に見つめていた。壇上のただ一点、手を後ろに縛られたまま跪き、汚く薄汚れた髪を前に垂らして、己の首が切り落とされるのをただただ待つばかりの薄汚い哀れな女である。嘲り、侮蔑、そして隠し切れんばかりの好奇の視線を惜しげもなく浴びせながら、稀代の悪女が事切れる瞬間を見逃すまいと皆一様に固唾を呑んでいたのである。それは、当時のサンジェルマン広場を埋め尽くさんばかりの人だかりであったという。
稀代の悪女。後に現代にまで語り継がれることとなる、悪の代名詞とも言える女の名は、ベアトリーチェ・デルリア・ラス・モラトリアス。
当時、王国筆頭の忠臣の一人であったエイブラム・ヴァルター・ラス・モラトリアス侯爵の息女その人である。
彼女の罪状は実に多岐にわたる。
不敬罪、王族侮辱罪、殺人教唆罪、謀反扇動罪、国家転覆姦計罪など。齢18の貴族令嬢の犯した罪としてはにわかに信じがたい所業である。
その驚愕の事実は瞬く間に国内は疎か諸外国にまで広がり、国家始まって以来の一大スキャンダルとして悪女ベアトリーチェの名を世界に轟かせたのである。
ここでベアトリーチェという人物について言及しておきたい。
ベアトリーチェの容姿について、既存する最も古い文献の一つにはこう書かれている。
『ベアトリーチェという女は私が知る限り最も醜い女である。背丈は女人の平均値の倍ほどもあり、幼い頃よりの贅を尽くした食事によりその体型は丸々と太っている。顔の造形はどこが目か鼻か口か分からないほどにとっ散らかっており、なんと言っても一番に醜きは顔中にできた汚らしい痘痕である。その人柄の賤しきを集結したような醜き容貌である』
しかしこれについては、当時処刑されて間もないベアトリーチェの悪辣さを誇張するための創作であると数多くの歴史学者達によって否定されている。
生前のベアトリーチェ本人を知る者による、ベアトリーチェについて記した著作物はほとんど存在していない。それもそのはずで、国家転覆など謀る悪女と親しいなどと声高に宣言するものなど皆無に等しいだろう。下手をすれば自身も同罪とみなされかねないからだ。ベアトリーチェを知る者、または親しかった者はかの悪女について一様に固く口を閉ざした。しかし例外もあった。ベアトリーチェの没後10年、かつて彼女と友人であったアンネ・ローゼ・ベルヒテス子爵夫人の手記が刊行されたのである。手記に書かれていたベアトリーチェの容姿はこうである。
『緩やかにウェーブを描いた暗いブラウンの髪、意思の強そうな眉、つんと上を向いた鼻梁に引き締まった口元。そしてなにより鮮烈な印象をもたらすのはその目元です。濃い睫毛に縁どられ、少し上がった目尻。しかし冷たい印象を残さないのはその瞳がどこかぬくもりのあるハシバミ色だからでしょうか。初めて彼女の顔を近くで見た時には、同じ女性であるにも拘わらず私の胸は早鐘を打ったのです。彼女は女性にしては少し高身長でしたが、体つきは女性らしい緩やかな曲線を描き、その立ち姿は凛として自信に溢れておりました。彼女は間違いなく、どなたがご覧になっても魅力的に映るでしょう』
ベアトリーチェが誰もが振り返るような美女だったのは本当のようで、アンネ・ローゼの手記に追随するように幾人かのインタビューにてベアトリーチェの容姿が如何に美しかったのかが語られている。中には隣国ハックスベルク一の美女であったエリーゼベス王女に引けを取らないほどだったなどというものもあったが、それについては定かではない。
次に、ベアトリーチェの人となりについてである。
数多くある文献において異口同音に語られるのは、苛烈にして傲慢不遜、狡猾で人を貶めることを良しとする悪女そのものの性質である。しかしそれもアンネ・ローゼの手記においては否定されている。少なくともある時期まではベアトリーチェは多くの令嬢達の憧れの的であり、貴族令嬢の鑑のような人であったと。
これを裏付けるのがベアトリーチェの没後50年、ベアトリーチェの幼少時から彼女付きの女中として働いていたマリーの娘、ステラのインタビュー記事である。ステラの母であるマリーは幼い頃のベアトリーチェについて、まだ小さい子どものうちから非常に聡明で、尊大なところは一つもない優しい性格だったと話していたという。これまで主流であったベアトリーチェが幼少時から手の付けられない我儘な性質で使用人に辛く当たっていたという主張を真っ向から否定するものであるのは明らかであった。
ここで、アンネ・ローゼの手記の著者であるアンネ・ローゼ・ベルヒテス子爵夫人について追記する。
アンネ・ローゼとベアトリーチェの出会いはデルボネア王立女学院への入学時、12歳の頃まで遡る。
片や王家の覚えも目出度い由緒ある家柄の侯爵令嬢、そして片やこれといった特徴のない中小領地の子爵令嬢である。当時の身分社会においてはあまりに接点の持ちようのない二人であったが後に友人となり、お互いに親友と呼び合うほどにまで親密になっていくのである。しかし、ある時を境に二人は決別し、別々の未来を歩いていくことになる。
女学院を卒業したアンネ・ローゼは、父方の従兄でもあったサマエル・ベルヒテス子爵と結婚した。その後に子爵との間に長男を設けたが生後間もない頃に病で亡くしている。そしてベアトリーチェの死後、あの激動の時代においてベルヒテス子爵家と対立する貴族家の策略により夫をも亡くし、若くして寡婦となった。
その後ベルヒテス子爵の縁戚に家督を譲り、自身は実家の領地内の修道院に身を寄せていた。この時点で元子爵夫人であるのだが、家督を譲った縁戚は婚姻をしていない若者で、その後領地経営に失敗し数年後に王家に爵位返上を申し出ているため実質彼女が最後のベルヒテス子爵夫人である。
修道院に身を寄せたアンネ・ローゼであるが、元友人であり悪女として処刑されたベアトリーチェについては頑なに口を閉ざしていた。友人であったことから悪女の罪との関連を揶揄されることはあったが、アンネ・ローゼ自身女学院の卒業と同時期にベアトリーチェとの決別を表明していたため、悪女に利用されていた被害者の一人としてアンネ・ローゼに同情的な意見も多かった。
アンネ・ローゼが沈黙を破ったのは悪女の没後10年の節目である。激動の時代が落ち着き、エリオス二世とその妃ハンナとの間に待望の世継ぎが生まれ世間が希望に湧いた時期のことであった。
当時新興の弱小出版社のひとつであったカスタム社から、アンネ・ローゼの手記を刊行したのである。これまでの悪女像を真っ向から覆すベアトリーチェの姿と、ともすれば王族批判ともとれる内容は非常に刺激的なものではあったが、当時はそこまでの話題には上らなかった。
アンネ・ローゼの手記が出版されると、すぐにその内容を否定するような書物や記事が世間に溢れた。また、アンネ・ローゼの手記に関して王族が特に出版物の回収や弾圧などの対策を取らなかったことも少なからず影響している。アンネ・ローゼの手記は単に話題性をさらって金銭を得るための虚誕妄説の類だと断じられ、やがて人々から忘れ去られていった。当時好んで上映されていた勧善懲悪の創作舞台。悪逆の限りを尽くしていた悪女ベアトリーチェを処刑し、ベアトリーチェによって引き裂かれそうになっていた愛を取り戻した王子の物語である『悪女征伐』からもわかるように、世間はただの人間ベアトリーチェではなく、稀代の悪女、猛悪の魔女であるベアトリーチェを求めていたのである。
一度は世間に忘れ去られたアンネ・ローゼの手記が再び注目されることになったのは、ベアトリーチェの没後150年程経った近年のことである。