不穏な煙
本日8回目の更新です。
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──不穏な煙
フィーネは昨日は速攻で寝たので起きたのは早かった。
まだ6時30分。大図書館に連れていってくれと頼むのにはちとばかり早い。
余っている時間で身なりを整えておこうと、朝からシャワーを浴びることにした。
「うーん。温かいお湯が使い放題なのはありがたいよね。昨日はお肉をたっぷり食べたので体臭が気になりますから」
口臭も気になるので、後でよく歯を磨いておこうと思うフィーネだった。あの肉包み揚げには間違いなくニンニクが入っていた。ステーキのソースにも。ニンニクは好きなのだが、臭いがやっぱり気になる。女の子ですから。
ゆっくりとシャワーを浴びて、髪を乾かし、歯磨きを終えるころには7時30分になっていた。そろそろ朝食の時間だ。朝食はドレスコードはないので、宿のレストランで食べることになっている。
昨日と同じシャツ、スカート、タイツ、ジャケットを装備すると、フィーネは筆記具を鞄に入れて、部屋を出た。今日は大図書館で勉強をするのだ。風呂の中でリストアップした分からないことリストを参照に、学院での授業のおさらいをして、それから大図書館の蔵書がどれだけ凄いかを堪能しよう。
フィーネはそう考えて1階へと降りていった。
「ああ。来たかね、フィーネ」
「はいっ! 今日は大図書館ですよね? 楽しみにしてました!」
フィーネは満面笑みでそう告げた。
「……そうだな。大図書館に行く。ついでに私の友人とも会う予定だ」
「楽しみですね!」
エリックはフィーネほど明るい表情をしていなかった。
彼は大図書館に起きた可能性のあることを考えており、そのために前向きになれなかったのだ。教会、大図書館、修道騎士団、市議会。全ての不穏な要素が揃っている。
「では、朝食にしよう。1日の始まりである朝食はしっかりと食べておくべきだ」
「そうですね。頭を使う時には糖分も必要だと聞きますし、甘いパンケーキとフルーツケーキで朝食というのがいいです」
「それならば問題ないだろう。ここの朝食はバリエーションに富んでいる」
フィーネが朝から食欲満点なのにエリックは感心した。よくあの小さな体に次々に料理が入るものだと。“紅の剣”では最年少でもっとも小柄だったリタも冒険者としてよく食べていたが、フィーネのそれはそれを上回る勢いだ。
まあ、エリックのように霞を食べて生きているようなリッチーになるのではなければ、魔力は経口摂取で取り入れるのが一番健康的だ。体を動かし、魔術を使っていれば、摂取した食事のエネルギーは瞬く間に使われて行ってしまう。
「学院時代は朝はいつもオートミールだったんですよ。朝からパンケーキを食べるのは夢でした。はちみつとバターとクリームをつけて美味しくいただきたいですね」
「ああ。君の望むように食べたまえ。では、行こうか」
エリックはフィーネを連れて、1階にある宿のレストランに入る。
「ようこそ、エリック・ウェスト様、フィーネ・ファウスト様。こちらのテーブルへどうぞ。禁煙席ですがよろしいですか?」
「構わない」
エリックは煙草は嗜まない。臭いが苦手なのだ。
「それではメニューの方をどうぞ」
「ふむ」
ウェイターからメニューを渡されて、エリックは少し考えた。ここはフィーネと同じくパンケーキにしておくべきだろうか。それともエリック好みのカリカリに焼き上げたトーストとベーコンエッグのオーソドックスな組み合わせにしておくべきだろうか。
エリックは甘いものは嫌いではない。酒を嗜まず、煙草を嗜まない男が行きつく先は甘党という道だ。フィーネも言っていたように頭脳の働きには糖分を使う。エリックは当然そのことを知っており、こんな状況でなければ甘いものを常備していた。
なので、朝食は悩むところだった。いつもなら迷わずオーソドックスな食事の方を選ぶエリックだが、フィーネからパンケーキを朝から食べるという選択肢を与えられたことで少しばかり心が揺らいでいた。
「パンケーキのセットをお願いします! クリーム、バター、はちみつをセットで」
「畏まりました」
フィーネはさっそく目当てのものを見つけて注文した。
「私も同じものを頼む。それからコーヒーを砂糖抜きでミルクを少々」
「畏まりました。しばらくお待ちください」
エリックたちが注文を終えるとウェイターは下がった。
「エリックさんも甘党なんですね。なんだか親近感が湧きました」
「ああ。甘いものは好きだ。私は酒も、煙草も嗜まないからね。最終的に娯楽となるのは甘いものというわけだ。おかしいだろうか?」
「おかしくなんてないですよ。むしろ、この世で甘いものが嫌いな人の方がどうかしてます。人は皆、甘いものが好きなのです」
フィーネがえへんと学者のようにそう告げた。
「私のような男が甘党だと笑われることがあったからね。そうでないと確信が持ててよかったよ。パーティメンバーたちは飲兵衛だったから、私とは嗜好が異なっていたこともあったのでね」
「お酒って美味しいんですかね?」
「君も飲酒可能な年齢になれば分かるだろう」
エリックが酒を飲まないのは、酒に弱いからというわけではなく、酒が脳に及ぼす影響を考えているからである。彼はどんなときでも冷静に物事が見れるようにしておきたいのだ。付き合いの1杯程度は飲むが、酒は酒の味がするとしか言えない。
「お待たせしました。パンケーキのセットとなります」
「わあい!」
砂糖の甘い香りを漂わせて、パンケーキが運ばれてきた。ふっくらと焼かれた美味しそうなパンケーキが3枚。丁寧に盛り付けられている。もちろん、フィーネがご所望だったクリーム、バター、はちみつも忘れずに別の容器に収められて運ばれてきた。
「いただきまあす!」
フィーネは喜びの声を上げると、さっそくパンケーキの攻略にかかった。
パンケーキにまずははちみつを垂らし、バターを塗り、クリームを塗る。それからパンケーキを切り分けてフォークで口に運ぶ。
「ふわああ。幸せです……。こんなにおいしいパンケーキ、食べたことないかも」
フィーネの顔が幸せでふにゃっとしたものへと変わった。
「そこまで喜んでもらえるとは思っていなかった。君が美味しそうに食べると、こちらも食欲が湧いてくるよ」
本来なら食事の必要のないエリックも昨日と今日とよく食べている。
「それはよかったです。美味しいものは美味しくいただかないと失礼ですからね。私は全力でこのパンケーキを美味しくいただきます!」
そう告げてフィーネはクリームとバターを思う存分使ってパンケーキをもぐもぐと食べ、途中で注文した牛乳を飲みながら、15分後にはパンケーキを完食していた。
「ふう。美味しかったです。満足しました」
「それはよかった。では、午前中の予定だが、大図書館に向かうかね?」
「はい! 大図書館に今、物凄く興味があります!」
フィーネはやはり大図書館に夢を見ているとエリックは思った。
大図書館とて人の作ったものだ。人の手で破壊することができる。
正確には大図書館を今の形にしたのは人ではないが、それは些細な問題だ。
大図書館がエリックが想像している最悪の状況に陥っていないことをエリックは祈った。サンクトゥス教会の神に。教会の行動を止めるのに教会の神に祈るのも少し滑稽かもしれないが、少なくともエリックは信仰心を捨ててはいない。
「では、行くとしよう。準備は?」
「ばっちりです。いつでもいけます」
「そうか。ならば、腹ごなしに歩きながら向かうとしよう」
エリックはそう告げて宿を出た。
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エリックたちの泊まっている宿から大図書館までは徒歩で1時間ほどの道のりだ。
フィーネはおなかいっぱいで満足しており、ゆっくりとエリックの後を付いてくる。鼻歌など歌ったりしてご機嫌な様子だった。
「そういえばあの煙って何なんでしょう?」
フィーネは大図書館の方向から立ち上る煙を見て首を傾げた。
「なんだろうな。私にも分からない」
嘘だ。エリックはあの煙が何なのか想像できている。
ただ、そうであってほしくはないという願いがあるだけだ。
そして、エリックたちは大図書館に近づいていき──。
「あれ? あれ何しているんです?」
フィーネが首を傾げた。
フィーネが目撃したのは大図書館からサンクトゥス教会の祭服を着た聖職者たちが、大図書館から箱に詰めた本を持ち出し、燃え上がる炎の中に投げ捨てている光景だった。
「焚書だ」
「焚書?」
「ああ。純潔の聖女派の影響力が大図書館にまで達したということだ」
エリックは本を次々と火の中に投げ込む聖職者たちを見た。
「本は教師だ。古き言葉を現代まで繋ぎ、教える教師だ。彼らがいる限り、生徒たちは育っていく。立派な学者になる。だが。純潔の聖女派は黒魔術を禁止しようとしている。これ以上黒魔術師が生まれないようにするためには根本を断たなければならないということに彼らが思い至るまで、そう長い時間が必要だったとは思わない。彼らはすぐにもっとも優秀な教師──本の排除に動いただろう」
「つ、つまり、黒魔術の本が燃やされているんですか……? その、要らない本を捨てているとかいうわけじゃなくて、大切な本も?」
「おそらくは。詳細については我が友に尋ねなければならないが、彼らが黒魔術をこの世の歴史から完全に消し去ろうとしていることはほぼ間違いないだろう。本を焼くとはそういう行為なのだ」
エリックはそう告げて力なく首を振った。
「そんな……。あんまりです……。何もそこまでしなくたって……。黒魔術だってこれまでみんなの役に立って来たじゃないですか……」
「時代の流れだ。純潔の聖女派が力を握っている限りは同じことがあちこちで続くだろう。そして、純潔の聖女派の暴虐が終わった時、何が残っているかだ。再び黒魔術を栄えさせるだめの知識は残っているのか」
本は焼かれていく。ごうごうと燃え滾る炎の中に黒魔術の本が投げ込まれる。一部の人間の判断でそれが汚れているとされたために。一部の人間の判断でそれは根絶されなければならないとされたことで。
教会は倫理を示す。人のあるべき形を生き方を示す。エリックはこれまでその教えに従順だった。教会の神の智慧派は、科学的探究を禁じず、むしろ推奨していたので、エリックにとって教会の示す生き方に反発する要素はなかった。
だが、今の教会には賛同できない。
教会の有する社会的正義の名の下に、貴重な知識の詰まった本を焼くことをよしとする生き方などまっぴらごめんだった。
大図書館に勤める自分の友も同じことを思うだろうとエリックは思った。むしろ、どうして彼女が降参してしまったのかが理解できない。彼女ならもっと粘ることもできたはずだろうに。彼女は他の誰よりも本を愛していたのだから。
「エリックさん。あの本を燃やしている人に怨霊が憑りついています」
「そのようだね」
エリックは黒い影のようなものが、聖職者の周りにまとわりついているのを目にした。怨霊だ。まだ形を維持している辺り、最近憑いたものだろう。
「あれを使えば本を燃やしている人たちを止められるんじゃ……」
「やめた方がいい。ここで聖職者が死霊術によって殺されれば、彼らの言う死霊術師の脅威とやらを証明してやるようなものだ。放っておきたまえ」
「けど……!」
「ひとり、ふたり殺して解決する問題じゃない。行こう、フィーネ。このような光景は見るも無残だ。私の友に会って話を聞きたい」
エリックはそう告げると、フィーネを伴って大図書館の正面玄関に向かった。
聖職者たちは自分のなしていることが誇らしいことであるかのように、黒魔術の本が収められた箱を大図書館から運び出していき、炎の中に投げ込む。
フィーネの言うように彼らには黒い影が纏わりついている。どうしてそうなったのかの予想は概ね付く。問題は自分の友がここまでやられっぱなしになっているということだ。彼女はアーカム市議会でも発言力を有するというのに。
一度会って話を聞かなければ。
エリックの友であるエリザベート・フォン・アイレンベルクに。
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