魂の劣化
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──魂の劣化
「フィーネ。そろそろダイラス=リーンに行ってみるかい?」
肉体を理解する授業がある程度進んだある日、エリックがそう告げた。
「ダイラス=リーン! 科学都市ですよね!」
「ああ。もっとも今のご時世、科学に頼っていない都市など存在しはしないだろうが」
フィーネもベータに紹介される以前、そう在学中にダイラス=リーンについて聞いたことがある。魔法に頼らず、科学だけで都市のインフラを作り、それでいて魔術師との仲も良好で、青魔術師たちは新しい発明をするのにダイラス=リーンの科学者たちの力を借りることもあるという話だった。
そして、今はウルタールから移籍した心霊捜査官たちがいる。
彼らから話が聞きたい。実際にどんな仕事をしているのか見せてもらいたい。実に興味がある。自分の将来像がまたひとつ固まりそうな気がしてワクワクしてくる。
それにダイラス=リーンにウルタールから向かうには船に乗ることにいなる。最近の船は快適だとベータは語っていた。フィーネは海は見たことがあっても、船には乗ったことがないのでそれが楽しみであった。
「船に乗るんですよね?」
「ああ。定期便がある。それとも快速船の方がいいかね?」
「うーん。どっちがいいんでしょう?」
「快適さなら定期便だ。まあ、快速船の乗り心地が悪いわけではないが、この旅は焦るものでもないし、定期便ならば食堂も中に入っている。ダイラス=リーンまでは快速船で1日、定期便で2日かかる。途中で他の都市の港にもよっていくが、基本的に船の中での生活になる。定期便には客室があり、そこで寝泊まりしながらダイラス=リーンを目指すことになる」
「船の上で食事したり、お風呂に入ったりするんですか?」
「ああ。船も鋼鉄製になったおかげで熱に強くなった。それでも火の気は嫌われる傾向にあるが、以前ほどではない。以前は木造船で食べ物は痛むし、飲み水も確保が難しいし、船内で病気になる人間は大勢いた。今は便利な世の中になったよ」
「いいですね、いいですね。楽しみです!」
かつての船旅は地獄だった。
腐敗する食べ物。痛む飲み水。蔓延する疫病。
人類の叡智である火が使えないということで、まともな冷凍保存設備がなかったということで、そういう環境下にあったのだ。
だが、今の船は基本的に鋼鉄製。軍艦より頑丈な鋼鉄は使用していないものの、火に耐え、冷凍保存設備を備えた船は快適だ。
「では、来週にダイラス=リーンに向かおう。準備をしておきたまえ。向こうにいる心霊捜査官への質問などがあれば纏めておくとよいだろう。向こうも暇ではないだろうから、質疑応答の時間が限られるはずだ」
「了解!」
「それからベータにお土産を買っておかないといけないな……。お菓子の詰め合わせを準備しておくとするか」
エリックはそう告げてメモにやるべきことを書きなぐった。
「滞在は1週間ほどだ。フォーマルな場には出席しない。もし万が一フォーマルな場に引きずり出されるとしたら私がドレスを準備しよう。だから、荷物は最小限で構わないよ。足りないものがあるなら来週までにメアリーとウルタールで買い足しておきたまえ」
「了解です」
洋服はこの間ピックマンブランドの品を買ったし、着る服には苦労しない。
いや、苦労すると言えば苦労している。
フィーネが服を着替えて、それとなく自分の肉体──フィーネは運動していたし、発育もいいと自信があった──をアピールしても、エリックの反応がまるで変らないことだ。いつでも、どこでも、完璧なまでに教えるべき弟子として扱う。
それはある意味ではご機嫌を取らなくても、学ぶことを学べるということを意味するのだが、女心としては寂しいものがある。着飾っても評価されないというのは悲しい。
だからといってメアリーのようにストレートに好意を表明できるほどフィーネは大胆じゃない。彼女はこう見えて意外とシャイなのだ。恋愛という未知の分野においては。
恋愛はフィーネにとって細胞の秘密と同じくらい未知の分野だった。若い人間は出稼ぎに出てしまって老人だけが残った田舎の農村と女学校育ちのフィーネにとって、恋愛は無縁のことであった。
もちろん、そういう話を全く聞いたことがないわけではない。
田舎の村でも結婚する人はいたし、女学校でも女子同士の恋愛を行っていた。それにフィーネは恋愛小説をそれなりに読んでいる。少なくとも彼女が読んだ学術書より、彼女が読んだ恋愛小説の方が多いだろう。
だが、彼女自身は恋愛と無縁だった。田舎のお年寄りばかりの環境では恋愛するようなこともなく、女学校時代には何度かプロポーズを受けたり、ラブレターをもらったりした──フィーネは女の子にモテていた──が、どれも断っている。フィーネは女子生徒同士の恋愛を否定はしないが、それに加わろうとは思わなかったからだ。
そんなわけでフィーネにとって恋愛とは細胞の秘密のように謎に満ちた分野である。
しかしながら、それはフィーネだけではない。
エリックもそうなのだ。
エリックはこれまで異性から好意を寄せられたことは何度かあるが、彼の低い自己評価と恋愛をすることのメリットとデメリットを天秤にかけた結果から、そのような好意に応じることはなかった。
その上、エリックは恋愛小説すら読まない。1000年間の間、友の結婚や出産を祝福し続けてきたが、自分がそうしようとは思わなかった。彼は彼自身が気づいていないだけで、フィーネと同じように恋愛についての知識がないのだ。
メアリーは何度もストレートに好意をぶつけ続けているが、エリックはそれに耐性がついてしまったし、未だにメアリーの好意はデュラハン化の影響だと疑っていた。
ある意味ではエリックとフィーネは似たもの師弟である。
「それじゃあ、今日は何を勉強しましょうか?」
「今日は魂の現世での劣化について学ぶとしよう」
「地縛霊などの死んだことを認識していない霊は現世に留まり続けると、認識がずれてきて、いずれは破綻するんでしたっけ」
「よく勉強しているね。死んだことを認識していない霊は自分が生きているときと同じ行動をする。しかし、周囲は霊を認識できず、次第に自分がどうなっているのか霊は分からなくなっていく。そうなると危険だ。霊は自分を認識させるために強引な手法に打って出る。最悪、人を殺すことすらあるし、ポルターガイストのように悪戯レベルで済む場合もある。その時、霊は実体化している。その仕組みはまだ分かっていない。死者が自分の魂に残った魔力や周辺の魔力を使って、自らを実体化させているという説が有力だが、普通の人間だった霊がどうやって霊を実体化させるという魔術を身に着けたのか」
「やっぱり人の思いではないですかね。私が死んだと分からずに死んで、生前と同じように行動しているのにみんなに無視されたら悲しくなりますもん。それが何十年も続けば、どうあっても認識してもらおうと思って、何かしら獲得するかもしれません」
「ふむ。人間には本能としてそういう機能を獲得しているかもしれない。それが強い欲求によって発現する。しかし、思いで魔術が発現するというのもかつての奇跡論を思い出させる内容だな」
「奇跡論?」
「魔術が今のように科学化されていなかった時代に唱えられていた学説の総称だ。人の思いに応え魔術は発現する。それは神に祈りをささげることで、奇跡が起きるのと同じであるという理論だ。今は魔術は科学化し、奇跡ではないことは分かっている。だが、かつて人間が魔術を奇跡として扱い、それが起きれば神の御業だと讃えられていた」
「死霊術もですか?」
「ああ。かつては人体の構造などまるで分かっていなかった。人間を再生させる術は、死者を動かす術は、確立されていなかった。魂についてもまるで研究がされておらず、浮遊霊と地縛霊の区別もつかなかった。そんななかで、死者の言葉を語る死霊術師は奇跡を起こす人間として貴重に思われていた」
そこでエリックが少し考え込む。
「今でこそ死霊術師というが、かつては死人占い師と呼ばれていた。死者の魂で奇跡を起こし、その人を占うことからついた名前だ。だが、今では死霊術もかなり科学化した。今では占いなどではなく、確実に死者の言葉が伝えられる」
エリックが続ける。
「だが、まだ奇跡論に縋る部分はあるのかもしれない。人の思いが魔術を発現させる。これはまさに奇跡論だ。思いとは何だ? 人は常に何かを考えている。死者になっても考え続けている。思いはあちこちにある。だが、それは質量を持たなければ、他社に影響を与えるには行動としなければならない」
「うーん。でも、怨霊は恨みでその人を害するわけですし、感情が関係ないとは思えないんですよね。感情にも質量はないのでしょうか?」
「体重計に乗って怒りを燃やしてみたり、悲しみに浸ってみると分かるが、感情にも質量はない。だが、それは確かに人体に影響を与える。感情は脳内物質を分泌し、人体に生化学的影響を与え、その人物の行動を左右する。そして、感情の根底的なものは魂の色として現れている」
「だとすれば、思いもまた科学的な影響を及ぼして、蓄積されることで何かしらの機能を発揮するんじゃないでしょうか?」
「仮説にするにはまだまだ根拠が足りないな。思いの蓄積というものをどう数字化するのか。その思いをどうやって計量するのか。仮にそれらができないとして、精神心理学的にどのような状況にあるのか。死後の影響と生前の影響はどれほどあるのか。少なくともこれぐらいは分かっておきたい」
「む、難しいですね」
「学説というのはたとえ仮説であれ根拠となるものがなければ成り立たない。根拠のない仮説はただの憶測に過ぎない」
フィーネにはちょっとした思い付きでも仮説ぐらいにはなるだろうという考えがあったが、世の中そうはいかないようである。学会で仮説として認められるのは、その仮説の根拠なる観測結果や数式が必要とされるものである。
仮説はいくつも競合して立てられ、研究者はこれと決めた仮説を立証しようとする。あるいは自ら立てた新しい仮説に従って、物事を検証する。
例えば、かつて魂の色には様々な仮説があった。
赤い魂はてんかん発作の症状を秘めた色である。青は計画的な殺人者の色である。そういう仮説が統計の僅かな差異を見つけては立てられた。そして、統計の情報量が多くなるごとに仮説は否定されて行き、最終的に精神心理学者たちとの共同研究で、赤は感情的な赤、青は非感情的な青という結論に行きついた。
仮説は仮説にすぎない。だが、仮説がなければ、仮説を立てていなければ研究は進歩しない。仮説なき研究というのはゴールのないマラソンと同じだ。仮説を立証するという目的があるからこそ、それを否定する根拠も、それを肯定する根拠も見つかる。全く仮説のない分野というのはほぼ存在せず、世界のほとんどの謎には『こうなのではないか?』という仮説が設けられている。そして、その仮説は今もこうしている間に増え続けているのだ。世界の謎を解き明かすための努力が行われているのだ。
研究をしていてたまたま事実が見つかったというのは稀だ。研究にも予算が必要であり、時間という人間にとってもっとも大事なものを消費する以上、むやみやたらに仮説を立てず研究していても大きな発見はほとんどない。セレンディピティは今も存在するが、過去ほどではない。時代が進むごとに多くの仮説が立てられ、検証され、肯定され、否定され、偶然という要素の入る余地なますます小さくなっている。
そう、今の時代はそうだ。
魔術は科学化していき、奇跡ではなくなった。
かつてのように奇跡の中から偶然法則性を発見するようなことはなくなった。世界の奇跡と神秘は徐々に解体されていき、偶然から得られる知識は全て収奪されたと言っていい。今の世の中で新しい物事を発見するのは偶然では不可能だ。それが必然となるようにプロセスを踏んで、挑んでいかなければならない。
エリックはそんなことを考えながら教科書を読むフィーネを見た。
彼女たちに見つけられたかもしれないものは早く生まれた自分たちが奪い取ってしまった。最初の発見者という地位をエリックたちは思う存分味わった。
ならば、自分たちは先駆者としての義務を果たすべきだろう。これまでの道は既に舗装された。これからの道は後進の研究者たちが舗装していくことになる。険しい山道もあれば、森を切りらかなければならないような大事業も待ち受けている。
先駆者としてそれを支えるのは義務だ。自分たちは美味しい思いをしたのだから、後を進むものたちにも栄光を与えなければ。
「フィーネ。心霊捜査官になっても研究者の仕事をしてみる気はあるかね?」
「もちろんです! せっかくエリックさんに弟子入りしたんですから、何か発見したいですね。心霊捜査官になるんだから、捜査に関する新しい手法の導入とか。そうだ。魂の指紋から犯人を特定するとかどうです?」
「それは犯人が死亡していることが前提になるよ」
「むう。そうでした……」
なんにせよ、彼女も何かを見つけるだろう。
そうなるように自分は彼女を支えなければならない。
そこでエリックが止まった。
待てよ。前も全く同じことを考えなかったか?
そうだ。マリアの時だ。マリアとともに研究をしていたとき、同じことを考えた。彼女の怨霊に関する研究が行き詰まり、突破口を探しているときに同じことを考えた。
ブラッドフォードのときはそんなことを考えたことはなかった。彼との研究は全てが順調に進んでいた。彼自身、研究スケジュールを徹底的に組み立て、もうすでにその時からマネジメント能力の片鱗を見せていた。
やはり、フィーネはマリアと似ているのだろうか?
似ているとして、自分はどう思っているのだろうか?
少なくともマリアのように早くして死ぬようなことには──エリックを置いて去ってしまうことにはならないでほしい。エリックは深くそう願った。
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