身体を構築するもの
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──身体を構築するもの
フィーネは憲兵大尉から受け取った憲兵隊の募集要項を見た。憲兵大尉は心霊捜査官が受けることになる士官候補生コースに万年筆で丸を書いておいてくれていた。
「18歳以上30歳未満の健康なる男女。高等学校または高等学校相当の教育を受けたもの。高等学校相当の基準はウルタール都市条項に基づく……」
フィーネはそこで頭を上げる。
「エリックさん、エリックさん。エリックさんのところに弟子入りしているのも、ウルタール都市条項で高等学校相当の教育を受けたと判断されるんでしょうか?」
「されるよ。アカデミーでマスター以上の階級にある人物に弟子入りして、教育を施したとの証明書が発行されれば、高等学校を卒業したことになる。また学士や修士については大学との相談になるが、大学の研究室に籍を置いて学士論文、修士論文を作成し、認められれば、学士と修士の称号も手に入る」
「ふうむ。なら、条件はクリアですね」
もっとも、募集要項には書かれていなかったが、高等学校──王立リリス女学院などの学校──を卒業した生徒の方が合格率は高い。
何せ、士官になるのだ。死霊術だけが使えても駄目である。
法律などの専門知識は憲兵学校で教えてくれるが、基本的な数学と一般社会に対する常識、そしていくつかの大陸共通言語を除く外国語は必須である。まあ、憲兵も公務員なので、公務員試験を簡素にしたようなものを受けることになるのだ。
高等学校相当の教育ではそこら辺がカバーされていない可能性がある。王立リリス女学院でもカリキュラムに一般教養として数学や外国語、社会学についての講座が必須としてあった。だが、フィーネはそれを受ける前に蹴り出されている。
「君が本気で心霊捜査官になるにせよ、研究者になるにせよ、一般教養は必要だな。これからの授業では一般教養も扱うとしよう。数学と外国語は任せたまえ、社会学についてメアリーを頼るといい。彼女はこの私との800年間で社会学の博士号を取っている。彼女の研究テーマは『宗教と労働』についてだった。興味深い研究だったよ。彼女ならば基礎的な社会学について一通り教えてくれるだろう」
「家事のお邪魔にはなりませんかね?」
「ふうむ。それはあるかもしれない。我が家の家事はメアリーに任せっぱなしだからね。だが、君が必要とするならば時間を作ってくれるはずだよ。彼女は心優しい女性だし、これまで弟子たちや子供たちの面倒を見てくれた」
「じゃあ、私が家事を手伝う代わりに勉強を教えてもらいますね」
「それがいいだろう」
メアリーは未だに少女のようだが800歳を超えている。そして、彼女はミスカトニック大学で社会学を学び、東方のオーディン崇拝、西方の八百万の神の信仰、南方の善悪二神の考え方、そして中央世界のサンクトゥス教会のそれぞれの宗教のあり方と労働との関係を調べた。そのことで博士号を受けている。
素晴らしい研究だったのでメアリーは講師にならないかと誘われたのだが、彼女は『自分がこれを研究したのは少しでもマスターの傍に近い場所にいるためだ』という理由で断っていた。彼女は無学な村娘と思われたままではエリックに愛されないと思ったらしい。
もっともエリックはメアリーが博士号を取ったことには喜んだが、彼女を女性として見ることはよりなくなった。彼女は自分がいなくとも研究者として成功するだろうと考えてしまったわけである。
そんなわけでメアリーは社会学の博士号を持っている。異なる4つの宗教の中でもっとも労働という行為に対して適性があると判断されたサンクトゥス教徒の彼女ならば、フィーネが家事を手伝うならば、社会学について基礎的なことは教えてくれるだろう。
「心霊捜査官に興味がでてきたかね?」
「はい。この間、エリザベートさんが襲われたときに猫の霊との交信と襲撃者の降霊を行ったんですけど、どちらもとても感謝されて。特に襲撃の時に対応してくれたウルタール都市軍の兵隊さんたちからは命の恩人だって言われて。ああ、人のために働くのってとってもいいことなんだって思えたんです」
「そうか。確かに君の能力は重宝されるだろう。多くの犯罪を暴き、阻止し、人々に平和をもたらすはずだ。有意義で、誇りを持てる仕事だ。どのような仕事にも誇りがあるが、これは君にとって相応しい仕事になるだろう」
「そうですよね!」
実際のところ、エリックが前々から思っていたようにフィーネは実験室で研究をするよりも外で実務として死霊術を使う方が似合っていたわけである。彼女の高い共感性と霊との親和率の高さは実務向きなのだ。
ウルタール都市軍憲兵隊で心霊捜査官の仕事をするのは、まさにフィーネにとって天職なのだろう。いや、ウルタールに限る必要はない。アーカムは無理でもダイラス=リーンならまだ死霊術師を受け入れてくれるはずだ。
彼女の未来は開けている。そのことにエリックは安堵した。
「けど、迷いますね。心霊捜査官も自分に合った職業だと思うんですけど、せっかくエリックさんに弟子入りしているのに研究者の道を諦めるのもなあ、と。私のようなちょっと感度が高い人の特徴とかを調査すれば、役立つんじゃないかって思うんです」
「君も研究したいものが見えてきたか。確かに交信の際の成功率の個人差というものは認識されているが、何がファクターになっているかは分からない。そのファクターを解き明かそうとする研究はこれまで数十年続けられているが、結論はまだだ」
「やりがいがありそうな研究ですね」
「だが、同時によほどの閃きがなければ進展しない研究でもある。もう既に多くの研究者があらゆるアプローチでこの問題に挑んだ。そして、誰も有効な仮説すら立てられていないのだ。この数十年の間、研究は止まったまま。挙句には規則性などないのではないかという説まで唱えられる始末だ」
「あー……。それはきついですね……」
フィーネの研究は解き明かせればアカデミー入り間違いなしの問題だったが、もう既に多くに人間がチャレンジして失敗を続けている泥沼のような題材だった。
「魂の色、というのがそうではないかという仮説にも満たない話が出ているが、それももう誰かが検証した後だろう。大図書館の論文保管庫に行けば、確かめられたのだが、あいにく黒魔術に関する論文は純潔の聖女派が処分した後だ。論文のオリジナルを求めるには、世界魔術アカデミーに行って探すしかないな」
「世界魔術アカデミー本部は魔術都市ムナールでしたよね。興味はありますけれど、純潔の聖女派が暴れまわっている間は廃棄地域からは出たくないですね……」
フィーネにはエリックとエリザベートのふたりがサンクトゥス教会の司祭に雇われた人間に襲われた記憶があった。廃棄地域の中ですら襲撃を受けるのだ。ここから外に出たら、純潔の聖女派が待ってましたとばかりに襲い掛かってくるのではないかと思っている。サンクトゥス教会は今はよく分からないカルトだ。
そう、よく分からないカルトと化している。
教会の主導権を握っているのは預言者の使徒派なのか、それとも純潔の聖女派なのか。預言者の使徒派だとすれば、どうして純潔の聖女派のいいようにやらせているのか。エリックとエリザベートを襲った人間を雇ったのは本当はどちらだ?
秘密が蠢き、権力闘争の影が見え隠れし、そもそも教義である『主による人々の心の平穏とよりよい世界への導き』が行えてない。
これではよく分からないカルトと言われても仕方がない。
「まあ、時間はある。それに研究者と心霊捜査官という二足の草鞋も可能だ。心霊捜査官でも科学的、魔術的な調査を行って、論文を発表することがある。鑑識の人間が新しい鑑識方法を生み出したときに、それを世に広めるために専門の研究者と共同研究という形で世に発表するように。医者も患者を診ながら、珍しい症例があれば論文を書いている」
「研究者って別に専門にやらなくてもできるものなんですか? てっきり研究者は研究者という仕事をしていないとアカデミーに認めてもらえないとばかりおもっていたのですが、違うんですか?」
「違うよ。心霊捜査官でもアカデミーに籍を有する人間がいる。もちろん、彼らは本職である捜査活動の傍らに研究を行うのがメインだが、所属する組織が認めれば心霊捜査官としての知識と技能の向上のために大学に派遣されることもある」
「結構、柔軟性があるんですね」
「ああ。だから、君もそういう生き方を選ぶことができる。決して道はどちらか一方だけを選ばなければならないわけではないのだ」
研究というものは何も大学やアカデミーでのみ行われるものではない。
町工場の人間が新しい発明をして世界科学アカデミーから表彰されることもあるし、冒険者をしている赤魔術師が新しい発見をして大学の研究者とともに研究を進展させることもある。大学とアカデミーは教育・研究インフラであるが、そのインフラは誰でも活用することができるのである。そこに未知のものを、世界の謎を解き明かす心がある限り。
「さて、では授業を始めよう。今日からは身体の構造についてだ」
「細胞から組織ができて、組織から器官ができるんですよね」
「そう、生物の最小単位は細胞だ。我々の大昔の祖先はひとつの細胞を持つのみの生き物で、今もそういう生物が存在している。これを単細胞生物といい、我々のような複数の細胞で構成された生物を多細胞生物という」
「単細胞生物が生まれる以前は何があったんです?」
「科学的な謎だね。生物発祥の由来はまだ分かっていない。神自らが作ったのか、神の作った環境で偶然生まれたのか。サンクトゥス教会は生物は神の生み出したものだと主張しているが、世界科学アカデミーは異なる意見を持っている」
生物発祥の要因は未だ謎だった。
「さて、その我々を構成する細胞は細胞内にいくつもの微小な細胞小器官が存在することで活動している。これを覗いて見たまえ」
「それって何ですか?」
「顕微鏡だ。見るのは初めてかね?」
「はい。そういう実験はしてませんでしたから」
「では、ちょうどいい。使い方を教えよう。まずは低倍率にレンズを設定し──」
エリックはフィーネに光学顕微鏡──ほとんどの人間が顕微鏡と聞いて最初に思い浮かべるもの──の使い方をフィーネをレクチャーした。
「さあ、これで準備は万端だ。プレパラートは私が準備したものを使いたまえ」
「了解です」
フィーネはそう告げて顕微鏡を覗き込む。
「おお? なんですか、これ? よく分からないものがいっぱい……」
「そこに見えているものが細胞であり、細胞を構成する細胞小器官だ。細胞は集まって組織となり、組織は器官を構築するが、細胞そのものもその存在を維持するために様々な機能を持っている。我々が心臓が脈打って血液が循環することで生きているように、細胞という小さな存在でも同じように細胞小器官が細胞を生かしているのだ」
「なるほど……」
「そして、我々死霊術師はこの細胞を操る。細胞をあるべき形に戻すことで治療を行い、細胞を操ることによって死者の死体を操る。これが死霊術師が細胞という生物の根底を成している存在を認知しておかなければならない理由だ」
それからエリックはこれまで判明している細胞小器官の機能について説明し始めた。
「だが、我々は完全に細胞について把握しておかなければいけないというわけではない。我々が主に行うのはその個人が有する細胞の増殖を促し、組織を形成することだ。つまりはお手本をコピーするということになる」
「そうなんですか?」
「ああ。まだまだ細胞の機能の全てが判明したわけでも、構造の全てが判明したわけでもない。細胞はあまりにも小さいためもっと高性能の顕微鏡が必要だし、機能について理解するには詳しい研究が必要だ。最近の研究では細胞は分子レベルのシステムで動いているという話もある。そこまで行くとなるとこのような光学顕微鏡では把握できないし、そもそも顕微鏡で見ることができるのかも謎だ。その謎を明かすには生化学的なアプローチが必要になるだろう」
エリックは細胞の中には機械のように動くものもあると説明する。分子の動きを利用してモーターのように回転し、細胞内で運動エネルギーを生み出すのだと。
そのように細胞内にはまだ分かっていないことが多くある。全ての細胞の機能を把握し、無から有を作るのは大変な困難を極める。
「それに完全に新しく生み出した細胞が必ずしも対象に適応するとは限らない。人体には免疫がある。免疫は自己に由来するもの以外の物質を体内から排除しようとする動きを示す。全く新しく作られた細胞は自己由来ではないとして排除対象となるかもしれない。そうなるとせっかく塞がった傷も炎症などの拒絶反応を起こし、排除されてしまう」
「むうう。病気から身を守ってくれる大切なシステムだと思っていたのですが、意外と余計なこともしてしまうんですね、免疫っていうのは」
「仕方あるまい。自己、非自己を区別できなければ、病気から体を守れなくなる」
フィーネが唸りながらノートに記す。
「死霊術師が治癒を行う場合は本人の細胞をコピーするというのはそういうことだ。今でも全く新しく細胞が作れないわけではない。機能が分かっていなくとも、細胞そのものを生み出す力はある。これまで治癒してきた細胞から得た知識で、機能は分からずとも、形をそっくり真似ることはできるようになった。だから、ホムンクルスが作れる」
「ホムンクルスは魔力だけで細胞を全て作って生物を構成するんですからね」
「そうだ。私はこれまで人体のあらゆる部位の細胞をコピーしてきた知識がある。それによってアルファたちは生み出された。しかし、完璧ではなかったようだが」
アルファたちの成長は止まっている。その原因は謎だった。
「それから重要なのは遺伝子だ。細胞が生物の最小単位だと言ったが、その細胞の設計図が遺伝子だ。DNA──二重螺旋を描く性化学物質。これによって人間の体はどう構築されるかが決まってくる」
「デオキシリボ核酸ですね。アデニン、シトシン、グアニン、チミン。教科書で読みましたよ。これの組み合わせによってタンパク質が構築され、そのタンパク質の組み合わせが細胞を作るんですよね?」
「その通りだ。よく学習しているね。遺伝子は細胞の核に存在する。染色体として細胞核の中に存在し、細胞内小器官によって翻訳され、タンパク質を構築する。このことを発現というが発現は様々な要素でコントロールされていると考えられている。この細胞の発現による違いが生まれることを分化と呼ぶ。そう、人体の細胞はどれも同じではない。肝臓の細胞と皮膚の細胞は異なる」
エリックは一呼吸置いた。
「そういう意味でも可能な限りは本人の細胞のコピーが最良の手だ。下手に遺伝子やそれを取り巻く環境を弄ってしまうと、発現がコントロールできなくなり、間違った細胞が生まれてしまう。我々死霊術師は治療対象の細胞の分裂を促し、それが自然に分化していき、組織から器官が構築されるのを見守るのだ」
エリックはそう告げる。
「人間は卵子と精子から生まれる。その時の細胞の数はひとつだ。たったひとつ卵細胞が受精卵となり、ひとつの細胞が分化していき、37兆の細胞を有する人間の体を作る。我々は人為的にそのプロセスを再現する。手を失ったものには手に分化する細胞の分裂を促す。内臓に傷を受けたものは傷を負った内臓の細胞に分化する細胞の分裂を促す」
死霊術は医学的でもある。医者を兼ねる死霊術師が多いのは、彼らの扱っているものが医学的だからだ。細胞単位で人体を知り、それで構成される組織を知り、組織によって作られる器官の役割を知る。そして、そこにダメージを受けたものの細胞を元通りにする。彼らの技術ならば、緊急の外科手術が必要になる内臓の傷も、一生障害が残る手足の欠損も治療できるのだ。これが医者にならなくして、何になるというのだ。
それでも冒険者になる死霊術師はエリックのような研究者や、現場での実務経験が積みたい新人救急隊員、軍から研修に派遣された軍医、あるいは学術的に死霊術を理解できずただの便利な力としてしか使えないレベルの低い死霊術師だ。そのレベルの低い死霊術師でも外傷治療ならば一流の外科医より完璧にこなせる。
「さて、この本を読んでおきなさい。死霊術における細胞操作のあり方について記されている。どのような状況ならレジストされずに死霊術による治療ができるのかなどの疑問に答えてくれる本だ。君が心霊捜査官になるとしても、この手の知識は必要になるだろう。犯罪現場は危険な場所だ。仲間が傷を負うかもしれない。そういうときに対処できれば、死霊術師として一層認められ、仲間の命を救うことができる」
「了解です!」
心霊捜査官であろうと、研究者であろうと、死霊術師であるならば人体の構造について把握しておくべきだとエリックは思っている。少なくとも周囲は死霊術師のことをいかがわしいまじないを使うのではなく、科学的な根拠を基に治療を行ってくれる人間だと思ってくれているのだから。
だが、どうやら世間はまた死霊術師のことをよく分からないまじないを使う人種だと思い込みたがっているようだ。
エリックは自分の弟子から届いた一通の手紙を見ながらそう思った。
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