肉体を知る
……………………
──肉体を知る
アルファとベータはその日はウルタールのホテルに泊まることになった。
エリックは申し訳なさそうだったがふたりは気にしていない様子だ。
「おや。アルファとベータではないか」
「エリザベート様。お久しぶりです」
ふたりがダイニングを出てホテルに向かおうと家を出ようとしていたとき、2階からエリザベートが降りてきた。どうやら今まで読書に熱中していたらしく、今になってようやくアルファとベータが来ていたことに気づいたようだ。
「アルファ。研究は上手くいっているか? ベータもそろそろ世界科学アカデミーの会員になることはできたか?」
親戚のお姉さんと言う具合にエリザベートはふたりに話しかける。
「赤魔術は大きな進歩を見せますよ。ひとりの術者が4つの精霊に同時に働きかけることができるようになるんです。これからもっと赤魔術の幅は広がるでしょう」
「ほう。面白いな。論文はもう公開されているのか?」
「ええ。まだアカデミー内でのみの公開となっていますが、いずれはこの研究について本を書くつもりです。もし本が出ることがあれば、エリザベート様に読んでもらいたいですね。自慢の研究ですから」
「私としてもアルファの研究は是非とも読んでみたいな」
アルファの言葉にエリザベートが頷いて返す。
「ベータはどうだ? 進捗はあったか?」
「まだです。設備のための予算が足りなくて。けど、私の研究が実用化されれば、多くの農家が救われますよ。飢餓とは無縁の世界になるかもしれません」
「それは大きく出たな。予算を得られる見込みはあるのか?」
「パパがスポンサードしてくれそうな人々を何人か紹介してくれるそうです。それからは私のプレゼンテーション能力次第ですね。自信はありますよ。この研究に全力で力を注いできましたから」
「それは何よりだ。今は純潔の聖女派が暴れているが、お前たちは心配する必要はないな。死霊術師ではない。しかし、エリックの息子と娘の誰もが死霊術師への道を選ばなかったのは何というか……。どうしてだろうな?」
エリザベートはそう告げて首を傾げた。
「お父さんが優秀すぎて、自分たちの発見するものがなくなるんじゃないかって思ったからじゃないですか?」
「そうね。パパが偉大過ぎて、私たちじゃとてもかなわないもの」
アルファとベータが苦笑してそう告げる。
「そんなことはあるまい。死霊術の世界では私にも分からないことが山積している。君たちは私がこういう生活をしているから、反面教師にしたのではないかな?」
「お父さんは今でも尊敬すべき研究者ですよ。僕たちのあこがれの姿です。反面教師にするなんてとんでもない」
「そうよ。パパは自己評価が低すぎるわ。そういう点は反面教師にした方がいいかもしれないわね」
エリックの説にアルファとベータが反論した。
「言われているぞ、エリック」
「言われても仕方がないのかもしれない」
エリザベートがにやりと意地悪気に笑って告げるのにエリックが肩をすくめた。
「では、フィーネさん。ダイラス=リーンでお待ちしていますね。パパもダイラス=リーンに来てくださいね。研究室のみんなにパパのことを自慢したいんだから」
「分かったよ。近いうちに伺おう」
エリックが頷く。
「では、お父さん。元気で。研究が成功することを祈っています」
「パパ。今は死霊術師にとっては大変な時期かもしれないけれど頑張って」
アルファとベータはそう告げるとエリック宅を出ていった。
「流石はエリックさんのお子さんなだけはありますね。聡明です」
「彼らも昔からずっと聡明だったわけじゃない。アルファはメアリーに散々悪戯をしていたし、ベータは泣き虫でお気に入りの人形がないと何時間も泣いていた」
思い返すようにエリックがそう告げる。
「私は人の平均的な精神の成長について、あまり知識がない。もっともそういう知識と言うのは存在しないのかもしれない。こればかりは個人差が大きなものだ。早く育つ子供もいれば、遅くとも立派に成長する子供もいる。具体的にどうこうとは言えないだろう」
エリックは続ける。
「成長とともに魂の色がどう変化するかならば私は答えられる。アルファたちからデータを得た。成長するごとに普通は魂の色は明るくなっていく。思春期程度まではそれが続く。それからは個人差がある。再び暗くなるものや、明るくなり続けるもの。それもまた個人差だ。精神心理学というのは個人差というイレギュラーな要素があって、しっかりとした法則が作れないのが何だな」
「医学もそうだろう。我々は肉体の全てを知り尽くしてるわけではない。なるほど、確かにエリック、君はホムンクルスを形成するだけの37兆の細胞について知識があるだろう。だが、それらの相互作用や非線形の影響についてまで把握しているわけではない。人間も吸血鬼も自分たちの体の中で何が起きているのか知らずに過ごしている」
「その通りだ。我々は己の体についての知識が不足している。さて、フィーネ。次のステップだ。明日からは体について学ぶ。生物学と医学の授業になる。君は魂について学んだ。では、次は肉体について学ぼう」
「了解です!」
フィーネはまた新しいことが知れるのにワクワクとした気持ちで応じた。
……………………
……………………
肉体についての授業が始まるに当たって、エリザベートとフィーネは再びセラエノ書店を訪れていた。エリザベートは魔導書が競り落とせたかの確認のために、フィーネは教科書をエリザベートに選んでもらうために。
「クラーク。本は競り落とせたか?」
「はい。ハイパーボリア大陸では珍しいアザトース信仰に関する魔導書です。5500万ドゥカートで競り落としました。競売にかけられていた中ではもっとも希少価値のある品でしたよ。早速ご購入なさいますか」
「ああ。現金払いだ。確認してくれ」
フィーネはここに来る前にエリザベートが銀行に寄っていたのを不思議に思っていたが、どうやら本のための軍資金だったようだ。アタッシュケース一杯に札束が詰まっている。フィーネがその光景を前に目を丸くした。
「では、5500万ドゥカートと手数料の10万ドゥカートを差し引いてこれだけいただきます。また希少な本が入荷しましたらお知らせいたしますので、ご期待ください」
「ああ。楽しみにしているぞ」
エリザベートはホクホクの笑顔で丁重にカギのついたアタッシュケースに収められた魔導書を受け取った。しかし、一冊5500万ドゥカートとは! いったいどんな内容の本なのだろうかとフィーネは疑問に思った。
「さて。お前の教科書を選ぼう。生物学の基礎は教わったか?」
「単細胞生物と多細胞生物の違いくらいは教わりましたよ」
「分かった。全然基礎ができていないな。入門書から始めるか」
エリザベートはそう告げて書店の中を歩いて回る。
「『図解で分かるシリーズ』。少々子供向けだが、基礎を学ぶにはちょうどいい。生物学についてはまずはこれを学べばいいだろう」
「分かりやすそうですね」
「それで分からなかったら、死霊術師の道は諦めた方がいいくらいに分かりやすいものだ。それ以上簡単な教科書はない。それでいて要所要所、重要な点はしっかりと押さえている。素人がこの道に入るにはいい教科書だ」
エリザベートはそう告げて次の棚に向かう。
「医学書は解剖学の教科書だな。『ヘロフィロス・アナトミー』が適切か。初心者向けとは言い難いが、その気になれば基礎をしっかりと学べる本だ。エリックの手助けがあり、先ほどの教科書をしっかりと読んでおけばちゃんと使える教科書だ」
「分厚いですね」
「人間の体の構造を語るにはまだ分厚さが足りないくらいだ」
エリザベートはそう告げる。
「解剖学にもいくつかの種類があってな。肉眼で認識可能な器官を調べる解剖学と肉眼では見ることのできない組織の解剖学がある。人間は数多の細胞からなり、細胞が組織を作り、組織が器官を作る。これを細胞のレベルから全て理解してこそ死霊術師だ。この解剖学の本はかなり詳しく突っ込んでいる。ためになるだろう」
「ありがとうございます、エリザベートさん」
今日も教科書代はエリザベートの支払いである。
「うーん。私も何かアルバイトか何かするべきなんでしょうか」
「気にするな。学生の仕事は勉強することだ。まあ、アルバイトもいい経験にはなるかもしれないが、勉学に支障が生じては意味がない」
「それもそうですね。まずは立派な死霊術師にならないとです」
いつも教科書代を出してもらって申し訳なく思ったが、今アルバイトをして勉学に支障が生じては困る。フィーネはまだ死霊術師の見習いであり、エリックから学ぶべきことはたくさんあるのだ。
「けど、生活費も出してもらって、教科書代も出してもらって、なんだか悪いですよ」
「なら、働くか? 働くと言っても拘束時間の短い仕事で、時期も週末限定とかでないとダメだぞ。お前はまだまだ勉強しなければならないし、エリックの家からウルタールに通うには時間がかかるからな。正直、エリックの家からアルバイトに行くのは効率が悪い。普通の大学がある学生街ならば、アルバイト先はたくさんあるだろうが、この廃棄地域ではアルバイトができるのは、ウルタールだけだし、エリックの家からは遠い」
「ですよねー」
ウルタールまではエリック宅から数時間かかる。賑やかな場所なので、働く場所には困らないだろうが、何分距離がある。通勤に時間がかかりすぎて、働きに行くだけで時間に無駄ができてしまう。
「今は余計なことは考えずひたすらに学べ。学ぶことは多いぞ」
「はい!」
エリザベートはそう告げながら本棚を見渡す。
「心霊捜査官を目指しているらしいな」
「あ。いや。そういう選択肢もありだなというレベルです」
「お前は活動的だし、共感性も高いから向いていると思うがな。研究者は確かに魅力的な仕事のように思えるが、成功する人間はごくわずかだ。研究者も昔と違って競争の連続だ。研究テーマが被ることなど多々あるし、ひとつの仮説に群がっても、そこから新しい発見をするのは数名だ。それでも研究者たちは夢を追い続けるのだがな」
研究の世界は厳しい。だが、挑む価値はある世界だ。
世界から新しいものを探し出す研究者が消えてしまえば、人類は洞窟にこもって、闇に怯えながら生活することになる。失敗を恐れず、この世界の解明に挑み続ける研究者たちがいるからこそ、人々は自由に生活できるのだ。
だが、そんな研究者の道は決してやさしいものではない。他の研究者との競争。予算不足。仮説の誤り。発見されたときの価値の変化。そういう障害を乗り越えなければならない。それらを乗り越えて初めて、研究者は研究者として成功するのだ。
「科学者は世界のためになる仕事をしている。しかし、人の役に立つという点では心霊捜査官も負けていない。犯罪を解明し、法を犯したものに裁きを与える。そういう人間がいるからこそ、人々は安心して暮らしていけるのだ」
研究者の仕事は崇高だが、法執行機関の捜査官の仕事もまた崇高である。
法は紙に書かれているだけでは意味をなさない。それを執行する人間たちがいなければならないのである。捜査官たちはその執行に携わる。
捜査官たちが犯罪を捜査し、犯人を見つけ出し、検察が起訴し、弁護士が法の名の下に容疑者の弁護を行い、裁判官が刑罰を決定する。誰が欠けても近代的な法のプロセスは行えない。
そして、犯罪が起きれば捜査官たちが必ず犯人を見つけ出すという思いが人々の中にあるからこそ、人は簡単には犯罪に走らないし、そうであるからこそ人々は安心して暮らしていけるのである。
捜査官もまた研究者と同じように世界のためになっている。
「ほれ。これを読んでみろ。心霊捜査官を20年務めた人物が書いた自伝だ。20年務めた後は小説家になっただけはあって、読みやすいし、ノンフィクションながらわくわくさせられるぞ。進路を選ぶ参考にしてみるといい」
「わあ。ありがとうございます!」
エリザベートが渡した本は『連邦心霊捜査官』と書かれた本だった。連邦というからにはアーカムを自由都市として擁するあの大国と名高い連邦なのだろう。アーカムは世界都市であり、自由都市だが、連邦の領土内に存在する。連邦は世界都市と領土内に擁することで、周辺への多大な経済的利益を得ている。
その大国たる連邦の心霊捜査官の話だ。間違いなく面白い。
「まずはそれを読んで心霊捜査官がどういうものなのか知ってみろ。それで興味が持てたら、その道も考えてみるといい。我としてはお前は心霊捜査官が向いていると思うぞ。あの霊との共感性の高さは目を見張るものがある」
エリザベートはそう告げながらレジに向かう。
「他のほしい本はないか?」
「大丈夫です」
「ほしい本があったら遠慮なくいえ。娯楽小説でも構わんぞ。勉強にも息抜きが必要だ。適度な休憩は勉学の効率を上げる」
エリザベートはそう告げて会計を済ませた。
「せっかくウルタールまで来たのだ。何か食べていくか?」
「いいですね!」
エリザベートの誘いにフィーネは乗った。
……………………
面白いと思っていただけたらブクマ・評価・励ましの感想などお願いします! 執筆の励みになります!




