ミスカトニックを発つ
本日1回目の更新です。
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──ミスカトニックを発つ
ルアーナたちがヨルンの森に向かっているころ、エリックたちは出発の準備を整えていた。糊の効いたローブが部屋に届けられ、エリックたちはいつでも着替えられるように準備した。ちなみに宿は時間延長して、もうしばらく滞在することになった。
「エリックさん。エリザベートさんとは仲がいいんですか?」
「それと言ったことはないが、確かに仲はいい。彼女はかなり古くからの友人であり、議論相手だ。彼女の豊富な知識は新しい発想を得るうえでとても役に立つ」
フィーネがだぼだぼのジャケットのポケットに手を突っ込んで尋ねるのにエリックがロビーでコーヒーを飲みながらそう告げて返した。
「女性としては見てないんですか?」
「聞くことは皆同じか。前のパーティに彼女を紹介したときもそう尋ねられたよ」
エリックがそう告げてため息をつく。
「そもそも吸血鬼に生殖上の性別はない。男性型、女性型の吸血鬼があるだけで、彼らは言うならば中性だ。男性でも、女性でもない。ただ、外見の形がそうなっているだけ。ことに真祖吸血鬼は自分の容貌を自在に変えられる。彼女が今の姿であるのは、それなりの威信を示し、また名前以上の威圧感を与えないためだ」
「男性にも、女性にもなれるってことですか?」
「外見的にはね。だが、生殖器はないし、もちろん生殖も不可能だ。黒魔術の基礎講座で吸血鬼の生態については学ばなかったかね? 吸血鬼は男性と女性という組み合わせでは子孫を持たない。吸血を通じて力を分け与えた人間を眷属とし、その眷属となったものもまた中性の生き物となるということを」
「あはは……。吸血鬼学は面白そうな分野だったんですけど、別の講義と被っちゃって、取れずじまいだったんですよ。しかし、生殖ができないからと言って、女性として見ないというのは失礼ですよ、エリックさん」
「そうなのかね?」
「この世の中には病気などで子供が作れない人たちがいます。吸血鬼ではないですよ。でも、そういう人たちも愛は求めているんですよ。子供に対する愛がほしくて養子をもらう人もいますし、子供ができなくても愛し合う夫婦だっているんです。生殖の有無だけで性別を語っては可哀そうですよ」
「確かにそうかもしれない。些か非倫理的な解釈をしてしまっていたようだ。反省しよう。だが、だからと言って私がエリザベートを女性として見ることはないよ。彼女自身もそれを求めていないだろうしね」
「そうなんですか?」
「ああ。前にはっきりと言われた。『私は女として生きるつもりはない』と」
「あんなに美人なのに?」
「美人かどうかは女性として生きるかどうかを決めないだろう。彼女はただ威圧感を与えないためにああいう格好をしているだけだ。彼女は人を使うのは好きだが、人に恐怖されるのは好きではないらしいのだ。恐怖でびくびくしている相手を相手にするのは、彼女曰く、『まるで罪悪感を感じてくださいと言われているようなもの』らしい」
「なるほど。真祖吸血鬼ってなったら普通怖がられますよね」
フィーネは納得したというように頷く。
「君は全く彼女を怖がらなかったようだが」
「うーん。確かに外見のせいかもしれません。あれだけ綺麗な人だと怖いより先に魅了されてしまいますもん。それにエリックさんの友人だと聞いていたので怖くはなかったです。エリックさんの友人ならきっといい人ですし」
「君は……。私と出会ったのは5日前だよ? 君はまだグランドマスターとしてのエリック・ウェストしか知らないはずだ。世界魔術アカデミーで唯一死霊術でグランドマスターの称号をもらったという物好きなエリック・ウェストしか知らないはずだ。他人をあまり信用してはいけいないよ。君は君の学友が言っていたように危なっかしいな」
「あはは……。エリックさんもそう思っちゃいます?」
「思うな。私のことをここまで信用している時点で危険だ。師匠としては信頼してもらうのはありがたいが、君は少しは警戒心を持つべきだ」
「エリックさんはここまでよくしてくれる人だから信用しないなんて失礼です!」
「それが私の策なのかもしれないよ。君を信用させて、どこかに売り払うか、実験体にするために今は親切にしているだけのかもしれない」
「そんなことは絶対にないです。私、昔から人の悪意には敏感なんですから。誘拐されそうになった友達を助けたこともあるんですよ。まあ、ちょっと間違えば私も一緒に誘拐される羽目になっていたわけですが……」
「やはり君はもう少し用心するべきだな」
宿屋の扉が開いたのはそんなときだった。
「グランドマスター・エリック・ウェストさん」
「ふむ? どなたかな?」
エリックと同じくスリーピースのスーツ姿の男性が宿に姿を見せた。
「ミスカトニック市議会議長のヘンリー・アーミテイジです。以後どうぞよろしく」
「こちらこそ。しかし、こんなところにいていいのですか? 市議会は教会との間で解決しなければならない問題を抱えていると聞いていますが」
ヘンリーがエリックの向かいの席に座るのをフィーネはぽかんと眺めていた。
「それはもはや議会の手を離れました。今は市長が交渉を。交渉と言っても、修道騎士団を突き付けられた状態の交渉など交渉とは呼べませんが」
「なるほど。議会は市長に全権を委任されましたか。確かに提案された物事をいちいち議会にかけていては時間稼ぎとみられるでしょうからな。しかし、このままですと無条件降伏になりそうではないですか?」
「その通り。大図書館の本は焼かれ、今度は大学での講義から黒魔術を排除せよとの圧力が掛けられています。大学は徹底抗戦の構えですが、もはや大図書館が陥落した今、大学がどの程度抵抗できるかは……」
「そう長くはないでしょうな」
エリックはミスカトニック大学が軍事的にはそう簡単に陥落しない作りになっていることを知っている。前にもこういう騒ぎがあり、大学で教えるカリキュラムに国が口出ししてきたことがあるのだ。その時に大学は国に対して徹底抗戦するために、地下通路や隠し扉、大規模魔術攻撃用の音楽室を整備したのをエリックは知っている。
大学が血を流すことをいとわなければ、修道騎士団相手でもそれなり以上の籠城ができるだろう。修道騎士団のほとんどの騎士は魔術についての知識が欠如している。魔術攻撃を一方的に受け、魔道式小銃で反撃するのは苦戦することだろう。
「大学の学長は降伏文書に調印を?」
「いいえ。黒魔術も後世に伝えていくべき知識であると反発しています。黒魔術科のロバート・ブレイク学科長は学生に決起を促し始めています。このまま放置すれば、大学そのものが破壊されかねません」
「事情は分かりました。それで、私にどうしろとおっしゃりたいのです?」
いまいち、話の出口が見えてこないのにエリックがそう尋ねた。
「……市長は降伏文書に調印する予定です。それでグランドマスターであるあなたから大学に対して呼びかけてほしいのです。今は黒魔術を研究するのはやめようと。いずれ、時代が変わればまた学び、研究する機会は訪れるのだと」
ヘンリーは渋い表情で一言一言を吐き出すのが辛いというように告げた。
「ふむ。確かに私は適任でしょう。エリザベートでもいい。だが、エリザベートには断られ、私の方を当たってきた。そんなところですか?」
「全く以てその通りです。エリザベート女史には断られました。『私に大図書館の本を燃やさせたばかりか、大学にまで口出ししろというのか』と。彼女は我々に大図書館大司書長の辞表を叩きつけて去りました」
エリザベートは自分たちに会う前にストレス解消のために甘いものを馬鹿食いしているのだろうとエリックは当たりをつけた。
「私は確かに適任でしょう。ことを穏便に終わらせることができる可能性があります」
「では」
「ですが、お断りします。私は口が裂けても学問を追及することを止めろなどとは言えません。いかなる学問もいかなるときも、いかなる人間にも開かれておくべきだ。私はその理想を否定するような発言はしたくない」
「ですが、黒魔術科が蜂起すれば他の学部も蜂起し、大学と修道騎士団の戦争が勃発してしまいます。大学そのものが破壊されてしまうのです」
「都市軍を使うといいでしょう。都市軍に仲介役をさせなさない。都市軍相手なら教授や学生も攻撃は加えないはずです。後はそちらの話し合いで、降伏文書の調印なり、徹底抗戦なりを選ばれるとよろしい」
「都市軍……。確かに都市軍ならば……」
ヘンリーはエリックの助言に考え込む。
「私としては血の流れることは避けていただきたいと思います。だが、だからと言って自分の信念を大きく変えるようなことはできないのです」
エリックはそう告げてミルクの含まれたコーヒーを僅かに飲んだ。
「分かりました。こちらで善処しましょう。お時間を取らせて申し訳ない」
「お気になさらず。私たちも待ち人を待っているところですから」
ヘンリーは腰を上げて宿屋から出ていった。
それからすぐに宿屋の扉が開く。
「今、ミスカトニック市議会議長がいた。君の方に話が回ってきたのか?」
現れたのはエリザベートだった。
出会った時と変わりない白いブラウスに黒いベスト、ロングスカートという出で立ちで旅行鞄を下げている。エリックやフィーネの旅行鞄と比べたら明らかにデカい。
「ああ。私に大学の説得をしてもらいたいと言われた。断ったが」
「賢明だね。知への欲求は素晴らしいものだ。誰かにどうこう言われたからと言って、学問のひとつを廃止するなどあり得てはならない。だが、降伏文書に調印させられるのも時間の問題だろう。市議会は屈したからな」
「そのようだ。では、出発するかね?」
「ああ。いいものを手に入れたことだしね」
そこでエリザベートが悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべた。
「いいものというのはその旅行鞄に入っているものかね」
「これは我の本だ。道中の暇つぶしと今後のために読む本をかき集めてきた。幾分かは役立つだろう。私も本を集めることに夢中になって、それを読み解くということを度々おろそかにしてきたからね。反省を込めて読書の時間を増やす。大司書長としての仕事からも解放されるのだ。時間は余るほどある」
「君ならば黒魔術以外でも才覚を発露するだろう。その発露した才能で著書などを記せば、大司書長をやめても収入は維持できるな」
「収入など。随分と俗っぽい人間になったな、エリック。吸血鬼もリッチーも不老不死だ。金になどこだわる必要はない。我々は長命というだけで利点がいくつもある。銀行に預けておいた金の利息。投資した会社の配当金。そういうものが貯まりに貯まっているだろう。収入などいちいち考える必要もない」
「ふむ。だが、本を揃えるのは金がかかるだろう。特に魔導書の類は膨大な値が付く。これまで君はアレクサンドリア大図書館名義でいくつも魔導書を集めてきただろうが、これからは自分の財布で買わねばならぬよ」
「もとより我の金で買っていたようなものだ。市議会が閲覧者が発狂するような知識が記された魔導書の購入に金を出すか? 答えはノーだ。魔導書の購入は私が資金をやりくりして買い揃えてきた。その中には我の私財も含まれる」
「そうであるならば言うことはない。確かに君が金に困っているなど想像もできない。だが、君ほどの才覚ある人物が本を読むだけで書かないとはもったいないな。これを機会に書く方にも挑戦してみてはどうかね?」
「ふむ。暇を持て余したら考えてみよう」
エリザベートはそう告げて少し考え込んだ。
「まあ、いずれの話だ。今はこの降伏した砦を出るとしよう。馬車を待つ必要はないぞ。馬車は私が準備した」
「君がかね? それが先に言っていたいいものかな?」
「その通りだ。期待しておくといい」
エリザベートが宿を出るのにエリックたちも宿を出た。支払いは既に済ませてある。フィーネは慌ててジャケットのポケットから手を出してエリックたちを追う。
「馬車は南門に準備してある」
エリザベートはそう告げて旅行鞄をガラガラと言わせて、ミスカトニックの街を進む。ミスカトニックの街は上下水道が衛生的に整備されている。路上に糞尿が散らばっていることを気にせずともいい。一部の都市だと未だに不衛生な環境で暮らしている市民がいるが、ここは学問都市だ。最新のインフラ技術を試すのも学問のうちだ。
「さあ、この馬車だ。どうだ。動力馬車だ」
「おおー! 初めて見ました!」
動力馬車。
機械仕掛けと青魔術によって動く金属製の馬によって牽引される馬車だ。
ここまでくると別に馬にこだわらずとも、馬車の客車そのものが動く自動車を作った方が早い気がするが、これには理由がある。
まず、顧客の受け入れ方。この世界の人間はまだ馬が引かない馬車に慣れていない。馬がない自動車などを売り込もうにも、人々は馬車という乗り物がこれまで果たしてきた役割を重視して、その形を受け入れないのだ。
それから交通インフラへの適性。この世界の交通インフラは馬車を前提として作られている。自動車のための舗装された道路や修理技師の店、駐車場などは整備されていない。故に馬車の形態を取らなければならないのだ。
そして、操作性。馬車を操ることは農夫でも知っているが、自動車についてはどういうインターフェイスにするのが分かりやすく、また便利なのかが分かっていない。ハンドルをつけるという発想もなく、そういう点において馬車の形を取ることへの便利さがあった。馬がいるなら、馬を操るだけで馬車は進められる。
だが、一部の青魔術師と技術者たちは既に自動車の試作品を生み出しつつある。運転用インターフェイスについて開発を進めているところだ。地球と全く同じものができるかは分からないが、人間という生物が扱う道具な以上、似たようなインターフェイスに落ち着くことだろう。収斂進化というものだ。
「動力馬車か。しかし、誰が御者をする?」
「妖精にやらせる。こういう日のために妖精には貸しを作っておいた。協力するのに文句は言うまい。それとも君の飼っている怨霊にやらせるか?」
「私はもう怨霊など飼ってはいないよ。あれは悪趣味だ」
「そうか? 便利なものだと思っていたが」
エリザベートは怨霊を飼っている。
彼らに憎悪という餌を与え続け、決して満足しないように彼らを地上に縛り付ける。大図書館を訪れていたサンクトゥス教会の聖職者たちに憑いていた怨霊は、彼女が密かに特殊な試験管の中で飼っていたものだ。
迅速に祓わなければ餌を与えられない怨霊は宿主に不幸をもたらすだろう。
その餌とは怨霊が怨霊になった理由によってことなるが、概ね死霊術師が悪霊を祓う時と同じだ。復讐すべき相手の不幸。生きていた時に満たされなかった欲求の充実。そして、まだ正気を保っているものとの対話である。
死霊術師は対話によって怨霊を祓う。白魔術師は神の名の下に魂を導く。
「まあ、いい。最初に寄るのはベルトランド爺様のいるノイワールの森だろう。この馬車ならば3日もあれば到着する。暢気な馬車の旅と行こう」
「ああ。そうしよう」
エリザベートが馬車に乗り込むのにエリックが続く。フィーネは少し高い客車にエリックの手を借りて何とか乗り込んだ。
「さらば、堕ちた学問都市。再び立ち上がった時にまた来るとしよう」
エリザベートは遠くに見える大図書館を僅かに視界に収めると、そう告げて貸しがある妖精に御者を任せ、ミスカトニックの街を去っていった。
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