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面会の許可が出た、という知らせがサエからきたのは、三日ばかり後だった。
仕事帰りに顔を出すことにする。
サエたちも仕事が終わり次第来ると言うので、俺は玄関ホールで彼らを待つことにした。
ちょうど缶コーヒーを飲み終わる頃に、大きめの黒いトートバックを肩にかけたサエが来た。
「おい」
きょろきょろしているサエに声をかけると、驚いたのかヤツはギクッと身をゆらし、目をパシパシしばたたいた。
「ああビックリした。こんな近くにいたのか?」
「あいつは?」
この場にいない男のことを聞くと、サエは
「さあ?来るとは言ってたけど、あいつは仕事柄、定時でちゃんとあがれるとは限らないしな」
と軽く苦笑いした。
「病室の部屋番号は知ってるんだし、俺らは先に行ってようよ」
「そうだな」
なんだかんだ言っても根は真面目だからな、あいつ。
病室へ向かう。
リノリウムの廊下を、言葉少なくサエと歩く。
どんな顔をして会えばいいのかと思うと、今更だが緊張する。
病室に着いた。
ドアをたたくと、どうぞ、という静かな声をした。サエと顔を見合わせ、息を呑むような気分でドアを開ける。
ベッドのリクライニング機能を使ってマットを起こし、そこへもたれかかるようにして、ヤツはいた。
「よう。心配かけて……すまなかったな」
静かな声でそう言うと、軽く目を伏せて儚く笑んだ。
こんなところで『菱本スマイル』かよ!
「おふくろさんは?」
サエの質問に菱本は
「洗濯物なんかを持って、昼過ぎに家へ戻った。俺の状態も落ち着いてきたしな」
と、静かな声で答えた。
「……菱本」
俺は声を押し出すようにして名を呼ぶ。
「なんで、また……」
問いの途中で、サエが俺の腕を引いて制する。
「なんでまた……よりによって『服薬自殺』をやらかしたか?……か?」
そう言って菱本は、一瞬軽く目を閉じた。
高校時代。
ビタミンやミネラルの効果に嵌ったヤツは、そこから派生して薬についても調べ始めた。
元々頭のいい奴だ、俺には暗号にしか見えない化学式もスラスラ読み解いて、あーだこーだと楽しそうにレクチャーし始めた。
そんなに好きなら薬学部に入って薬剤師になれば?と、言ったことがある。
菱本は苦笑いして
「うーん、趣味と仕事は別にしたいしなあ」
と言った。
薬はすでにシュミなのかよ、と、俺は密かにツッコんだ。
「それに薬は毒にもなるからね。体質によって合う合わないがあるし、怖いよ」
身体に害が出るような使い方をしたら薬が可哀相だ、用法や容量はちゃんと守るべきだ、とも、ヤツはちょいちょい言っていた。
薬に対する思い入れの深さに若干ヒいたが、そこまで言うくらいなら(メンタル面はともかく)、身体の害になるような薬の使い方はしないだろうなと、妙な安心感も持った。
それなのに……。
「お前なら知ってたはずだよな?この手の薬を多量に飲んでも……」
俺の言葉に、
「ああ」
と、菱本は困ったような感じで諾う。
「知ってるよ。母にも医者にも言ったけど、だから別に、死ぬつもりで飲んだんじゃない。とにかく眠りたかったんだ、何もかも全部断ち切るような感じで、ぐっすりと。……それだけだ」
菱本は頬を引いて真顔になった。
「余計な心配かけて本当に悪かったと思ってる。ごめん、反省してるよ」
静かすぎるその言葉に、俺は言葉を失くした。
病室の無機質な蛍光灯の光の下で、菱本は再び、ちょっと困ったような儚い笑みを浮かべた。
この笑みの内側へ、ヤツはやはり誰も入れるつもりがない。
ベッドの菱本と俺たちの間に分厚いアクリル板でもあるような気がして、俺は絶句するしかなかった。
俺は長年、コイツと友達のつもりだった。
が、俺……いや。俺たち、は。
コイツのことを何も知らない。
コイツの抱えている影が実際どれほどなのか、今、ここに至っても推測さえつかない。
気まずい沈黙がしばらく続いた。
だしぬけにノックの音が響き、
「入るぞ」
の声と共に、やや乱暴に病室のドアが開いた。
飲み会の時と同じ、作業服にドカジャン姿の渉だった。
「菱本」
ちょっと怒ったような声で言うと、渉は大股で菱本のベッドへ歩み寄る。
「返す」
ぶっきらぼうにそう言うとドカジャンのポケットを探り、掛け布団の上に何かを投げ落とした。
じゃら、というような鈍い音がしたそれは、色とりどりの錠剤が入った、ごく薄い乳白色をしたプラスチック製の薬瓶だった。
「お前言ったよな?何もかもに嫌気が差して、死んだ方がマシだと本気で思うなら。この中に入ってる薬、全部飲めって」
薬瓶と渉を交互に見て、菱本は無言でうなずいた。
「一見チュアブルタイプの菓子か健康食品みたいなビジュアルだけど、芥川龍之介が使ったって言われてるバルビツール酸系の睡眠薬だ、公に流通はしてないけど、知る人ぞ知る非合法の薬だって」
「あ……ああ。確かに」
ぼんやり答える菱本に、渉は目を赤くして言う。
「お前こそなんでこんなの持ってるんだって訊いたら、いざという時のお守りみたいなものだ、って言ったよな?いつでも死ねると思ったら、すっと冷静になれるからって。鬱屈して、死にたいとか死んだ方がマシだとかぐじゅぐじゅ言う暇あったら、本気で死にたいのかどうか真剣に自分と向き合って考えろって」
「……ああ」
菱本は気まずそうに目を伏せた。
渉はかまわず言い募る。
「何だよ、お守りがそばになくなった途端、よろよろしやがって。どうせ俺のことだから、ビビっちまって2~3日もすればすぐ返しにくるって高を括ってたんだろうが。悪かったな、十日以上も悩んじまってよ。だけどお前だってダメダメじゃないか、二週間保たずに情緒不安定になりやがって。この、エアジャンキーめが!」
「はあ?エア……ジャンキー?」
怪訝な顔をする菱本へ、
「たった今、俺が作った言葉だ!」
と渉は言い、芝居がかった動作で薬瓶を指差す。
「クスリがあると思うだけでシアワセになれる、平和でお手軽なジャンキーのことだよっ。飲まなくてもシアワセになれるんだから直接の薬害はねえ、だったら大人しくこれ持ってろ!」
「は?あ……いや、その……」
何か言おうとして逡巡し……菱本は、急にふっと苦笑いして、大切そうに薬瓶を取り上げた。
「ああ……そう、だな。すまん」
俺はサエと顔を見合わせる。
アレは……菱本が『たこっぱち』で飲んでいた、ビタミンとミネラルだ。
絶対とは言わないが、99.9%。
あの日。
菱本は、荒れている渉を脅しながら窘めるつもりで、非合法のきつい睡眠薬だと嘘を言い、アレを渡したのだろう。
仮に飲んだとしても、大して害にならないだろうことを見越して。
だけど渉がそう思い、菱本が否定しないのなら。
それでいいかと、俺たちは小さくうなずき合った。
病院から帰る道々。
俺はふと、もしかすると渉は、アレが非合法の睡眠薬なんかじゃないと知っていて、わざと騙されたふりをしたのではないかと思った。
自分に対する罪悪感からでも憐憫からでも、何でもいいからアレが、菱本の『お守り』になることを願って一芝居打ったのではないか、と。
「ふ……ふふふ」
諦め笑いのような泣き笑いのような、変な笑いが俺の頬をゆがめる。
ぼやける視界をごまかしたくて、意味もなく俺は、道端の電柱を軽く蹴った。
家に帰り、夕食や風呂を済ませた後、俺は机の前に座ってパソコンを立ち上げた。
ふと、机の上にある小さな本棚に立てかけたまま、存在ごと忘れていた薄いアルバムが目についた。
本棚から引き出し、アルバムのページを繰る。
懐かしい顔が並んでいた。
ああ、みんな若いなァと爺くさい感慨に耽りかけ、ちょっとヘコむ。
『懐かしい』だの『若い』だの、まんまオヤジじゃないか。
ページを繰る指が止まる。
式の後にHRで撮った、俺たち四人の写真が出てきた。
窓越しに差す光を背に、俺たちは卒業証書の入った筒を持って写っている。
なんとなく視線を窓の外へ向け、皮肉そうに口許を歪めているのは天城 渉。
フラッシュとシャッター音に驚いたのか、小さな目を見開いてキョトンとしているのが三枝 寛之。
窓にもたれるようにして、軽く腕組みして俺たちの方を見ているのは菱本 和孝。
そして俺……浜 武志は。
しっかりとカメラ目線で写っている。
逆光の中、今より若い……幼い俺たちが、美鈴のカメラに切り取られ、そこにいる。
眩しい早春の光を背にしたせいで、淡く陰っている幼さの残る顔。
自分なりの明るい未来を、漠然と夢見ていたあの頃。
「わー、懐かしい」
風呂から上がったミーが、シャンプーのにおいをさせながら近付いてきた。
「そういえば、四人の中でたあちゃんだけがカメラ目線で写ってるよね、これ。たまたまだろうけど」
「……たまたまじゃない」
「え?」
きょとんとするミーの顔を、俺は久しぶりに真っ直ぐ見た。ミーはうろたえたように目をそらせる。
「たまたまじゃないよ。俺はあの頃から、ずっとミー……竹中美鈴さんを見ていたからな」
楽しそうにシャッターを切る彼女を、俺はずっと目で追っていた。
彼女が俺たちにカメラを向けた時、俺はカメラのレンズ越しに彼女を見つめた。
窓から差す早春の光を全身に浴びた、俺にとっての春の女神。
彼女のカメラは多分、俺たちが内に抱いている影までそのシャッターで切り取った。
だけど俺の網膜は、光の中で楽しそうに笑う彼女だけを映していた。
彼女の後ろにあるであろう深い影から、無意識に目をそらして。
「ミー。入籍しよう」
唐突な俺の言葉に、ミーは再びキョトンとした。
「伸び伸びになってしまって悪かった。今までだってもちろん、いい加減な気持ちで一緒に暮らしてきた訳じゃないけど。これから先も俺はずっと、ミーと一緒に暮らしたいんだ、お互い爺さん婆さんになるまで。改めてお願いする。美鈴。俺と、一緒に生きてくれ」
ミーは好きだし大切だけど、彼女が後ろに抱えているであろう影ごと、無条件に愛せる自信が俺にはなかった。
その影を見ないまま知らないまま、彼女の人生を支えるなんて烏滸がましい、とも。
よく考えれば馬鹿馬鹿しい話だ。
人ひとりのすべてを知り尽くすなんて、そもそも不可能だ。
だけど俺は無意識のうちに、結婚するなら相手のすべてを知りつくさなくてはならないと思い込んでいたらしい。
知りもしないで本当の意味で彼女は守れない、とも。
責任を感じていたとも言えるし、ビビッて怯んでいただけとも言えよう。
病室で、薬瓶を大事そうに取り上げて淡く笑む、菱本の姿をふと思い出す。
たとえ相手のすべてがわからなくても。
たとえ少々、方向がずれていたとしても。
人は人へ、大切な思いを伝えることは、出来る。
それが伝えられるのだから……もう、それでいいじゃないか。
呆気に取られていたミーの顔が、徐々に柔らかいほほ笑みへと変わる。
天井から差す部屋の照明の光を背に、幸せそうに笑む。
淡い影のあるその笑顔は、卒業式のあの日、暖かな陽射しを浴びて笑っていた時以上に綺麗かもしれない、と、俺は思った。