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訳もわからないまま俺は目を開け、自殺自殺と騒いでいるミーに訳もわからないまま着替えさせられる。
いつも着ているオリーブグリーンのダウンコートに袖を通す時、指が震えていて自分でも意外だった。
ミーが差し出すスマホと財布をダウンコートのポケットへ押し込み、半ば夢の続きにいるような気分で外へ出る。
向こうに着いたら連絡してねと言うミーへ、曖昧にうなずきながら。
外は冬らしい薄曇りの空だ。
時折、思い出したように冷たい風が強く吹く。
襟元をかすめるひやりとした空気に、ようやく俺は完全に目が覚めた。
(……自殺?あいつが?本当かよ)
まさか、と強く思ったすぐ後ろで、いやあり得るか、とも思う。
さっきのうたた寝の夢が突然、逆光に浮かぶ影のように俺の脳裏をよぎった。
『お先に』……『待てよ』……『追いかけてやれよ』……。
「くそ、ガキが。……畜生め」
足早に駅へ向かいながら、俺はひとりごちる。
視界が急にぼやけ、俺は慌てて手の甲でぬぐった。
馬鹿野郎。
ちょっと前に、例年通り『たこっぱち』で飲み会をしたばかりじゃないか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
縄のれん越しに引き戸を開けると、揚げ物の油のにおいが鼻を刺した。居酒屋独特の湿ったような床を踏み、俺は店内を見渡す。
「おう、こっちこっち」
サエこと三枝が奥のテーブルで手を上げ、合図する。寂しい前髪のかかった額がぎらりと鈍く光り、俺はさり気なく目をそらした。
先週月曜の成人の日、午後六時の『たこっぱち』だ。
『たこっぱち』は安くてボリュームのあるメニューがウリの居酒屋で、若くて金のない連中御用達の店だ。
十年以上前の成人の日、祝いを兼ねてここで寄り合って酒を飲んで以来、俺たちは年に一度、この日に顔を合わせて酒を飲み、馬鹿話をする習慣が出来た。
もうかれこれ、干支が一回りする勘定になる。
改めて考えてみると、なかなかすごいかもしれない。
この連中よほどヒマか、あるいはよほど律儀なのかと、俺が他人だったら思うだろう。
別にどちらでもない。
こんな機会でも作らなければ、高校時代の友人に会うことなどなくなるだろうし、会わないでいると切れてしまうのがこういう縁だ。
切るには惜しい程度の愛着はある連中だし、人並みに社会人を十年もやれば、職場以外の人間関係というのが貴重なのもわかってくる。
半分はつながりを確認する儀式、残り半分は惰性みたいなものだろう。
「よう。時間通りだな」
かなり早くから来ていたらしい菱本に声をかけられる。
店の中の照明が黄色っぽいからだけでなく、なんだか顔色が冴えない。今日はさすがに休みだろうに、ワイシャツにネクタイ姿なのが意外だったので
「どうしたんだよ菱本。まさか休日返上で仕事か?」
と俺は、ダウンコートを脱ぎながら問うた。
「仕事と言えば仕事だね」
情けなさそうに眉を寄せ、菱本はぼやく。
「知り合いに紹介されて、見合いさせられたんだ。あんまり形式ばらない方がいいでしょうってことでさ、ホテルのラウンジで待ち合わせて、一緒にお茶飲んだだけだけど。触れ込み通り清楚で可愛らしい雰囲気の、猛獣みたいなお嬢さんでねえ。くたびれたよ」
「なんだよ猛獣みたいって。見かけによらずビッチなおねーさんだったの?」
急にスケベな目になったサエが、俺の隣でにやつく。
「あー、そっちの方がマシだ、多分」
ため息まじりに菱本は言うと、ポケットからピルケースを取り出し、カラフルな錠剤をてのひらに幾つも載せる。
そして実に素早くそれらを水なしで飲み下すので、俺は呆気に取られた。
「婚活お化けって言うのかね」
思い出したように突き出しの和え物に手を伸ばし、菱本は続ける。
「アチラさんの野望が透けて見えるから嫌になった。結婚したら専業主婦で、子供は男の子と女の子を一人ずつ。教育もきっちり受けさせたいから、都内に勤めるソコソコ高給の、安定した職業の男を探してる……って感じでねえ。まあ、それはそれで別にいいけどさ、要はその夢を叶える為に、ダンナという名の種馬兼ATMを探してるのがミエミエで。ちょっとくらい顔が良くても、アレじゃ萎えるよ」
「わははは」
サエが笑う。
「まあでも、お前はそういう子が喜びそうな仕事に就いてるんだからしょうがないじゃん。コーロー省のお役人様って肩書に寄ってくる子なんて、大体そんなもんだろ?今更ヘコむなんて意外とロマンティストだったんだなァ、お前」
ヘラヘラしたサエの言葉に、菱本はグッと眉を寄せる。
「違うね。ロマンとか何とかの話じゃない。単純に、職場でも家でも人間扱いされないかと思うとうんざりするんだよ!」
いつにない菱本の強い口調に、俺たちは一瞬、息を呑んで黙る。
どうやら菱本は、見合いだけじゃなく仕事面でも、かなり色々と鬱憤がたまっているらしい。
自分のきつい口調にハッとし、菱本は、ああ悪いと小さく謝ってばつが悪そうに目を伏せた。
その時ちょうど店員が、取りあえず頼んでいたツマミ数品と中ジョッキのビールを運んできた。
「そっかァ……大変だったな、お前も」
サエも同情したのか、運ばれてきた唐揚げを菱本へと差し出す。
「まあ、これでも食って元気出せよ」
苦笑まじりに皿を受け取り、箸を伸ばそうとして菱本は、ふと手を止めた。
ごそごそとさっきとは逆のポケットをまさぐり、別のピルケースを出して錠剤を幾つかてのひらへ乗せた。
「おい」
さすがに俺は声をかける。
「どうでもいいけどお前さ。一体幾つ、何種類のクスリ飲むつもりだ?」
菱本はキョトンと俺を見た。躾の行き届いた猟犬のような顔で、ヤツは上品に首を傾げる。
「いや?薬は今出したのが初めてだけど?」
「嘘言え。さっきも片手いっぱい、訳のわからんクスリを飲んでたじゃないかよ」
俺の言葉に、ああ、とヤツはちょっと笑う。
「さっき飲んだのはクスリじゃなくて健康食品なんだ、ビタミンとかミネラルとかの。食事の前に摂っておいたら体内で上手く消化吸収が進むからな」
「……あっそ。相変わらずだなァ、お前は」
俺はあきれた。
菱本は何故か、こういうのが好きだ。
何がきっかけで嵌ったのかは知らないが、高2くらいからこんな感じだ。
今の時代は昔と比べ、食べ物からビタミンやミネラルを摂るのが難しくなっているんだとか何とか言い、ドラッグストアでマルチビタミンやら葉酸やらを買っては、嬉々として飲んでいた。
そんなものをわざわざ飲まなくても、栄養なら十分摂れるし健康に暮らせると俺は思うのだが、菱本の感覚では違うらしい。
こういうのを飲み始めて以来、寝つきや目覚めが全然違う……のだそうだ。
本人がそう思うのなら、こちらとしては何も言えない。
ちょっと依存症っぽい雰囲気があってヤバいんじゃないかと思わなくもないが、麻薬をやってる訳でもないから、頭ごなしにヤメロとも言えない。
いつかミーが『菱本君ってまだ合法ジャンキーなの?』と言い、思わず吹いた。
合法も合法、ビタミンやミネラルなんだから健康に悪い訳ないし(取り過ぎはマズいらしいが、その辺は菱本も神経質に管理しているようだ)、そういうのの薬効自体もたかが知れている。
ビタミンやミネラルを飲んでハイになったという話も聞かない。
だがメンタル的に言うのなら、菱本は確かにジャンキーだなと、俺は密かに思っている。
菱本は高校時代から学業もスポーツも群を抜いていて、おまけにイケメンで高身長、という出来過ぎな男だ。
当然、高校時代もモテた。
だけどコイツは妙に潔癖というか、少なくとも高校時代、浮いた話はひとつもなかった。
よほど理想が高いのかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
俺と気が合う女の子を探しているだけだよ、と本人は言っていたし、それはそれでかなり本気の本音みたいだ。
だが高スペックの優良物件とはいえ、人当りは悪くないがちょっと気難しい、おまけに合法ジャンキーの男と気が合う女の子もなかなかいない。
そのせいか未だ独身・彼女ナシで、だからこそ打算美人に狙われてしまうのだろうが。
「俺の縁談より、武志」
菱本はジョッキを向けて俺を指す。
「そっちはどうなってんだ?お前ら、今年こそはちゃんと入籍しろよ」
「そうだ、お前はずるいぞ」
枝豆の皮を皿へ投げ入れ、サエも口をはさむ。
「恋愛と結婚のいいとこどりのまま、ずるずるしやがって。子供とか考えてねえのか?」
「え?そりゃあ出来れば欲しいけど……」
「だったら入籍しろよ。お前らだけならあんまり問題ないだろうけどな、子供関係のことは制度上、未入籍だとまだまだ厄介だ」
サエはぐビリと咽喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「大体、女性が妊娠・出産できる年齢は限られてるんだ、知ってるだろう?ボケっとしてたらタイムアウトだぞ、ふにゃふにゃしてないで腹を決めろよ。彼女、本音では子供欲しがってるんじゃないのか?」
「いやその。多分、そう切実には……」
モゴモゴ言いつつ、俺は焼き鳥の串にかぶりつく。もも塩、美味い。
(サエの奴、説教くさいオヤジになったなあ……)
ビールを飲みながら、俺は内心ため息をつく。
職業柄なのかもしれない。
サエは中学の国語教師だ。担任しているクラスが今年卒業するとかなんとか、聞いた気がする。
ガキ共へ『卒業にあたって先生からの贈る言葉』をぶちかましている、したり顔のサエが見える。
コイツ、口の悪いガキに『前髪バーコード』とか『ウザちび眼鏡』とか、陰で呼ばれていないだろうか?
そんな意地の悪いことを思い、俺は密かに留飲を下げる。
しかし、学生結婚だったサエは遊びたい盛りの二十代に、苦労して子育てをしてきた。
新米教師と新米パパの二足わらじは、俺の想像以上に大変だったはずだ。
年に一度のこの飲み会を、多分サエは、この中の誰よりも楽しみにしているだろうと思う。
そういう苦労人の言葉は、やはりそれなりの重みや説得力がある。『ずるずるしている』自覚のあるこちらとしては、モゴモゴごまかすのが関の山だ。
三年前、二十九になる俺たちは同棲を始めた。
互いの親に挨拶したし、食事会を開いて身近な親戚に報告もしたから、ぼんやりと『あの二人は夫婦』だと親戚連中にも認められている。
三十になったら入籍しようと言い合っていたが、そう焦ることもないかとのびのびになって……今に至る。
もちろん嫌なのではないが、踏ん切りがつかない。
どうしても入籍しなくてはならない、切実な理由も見つからない。
ただそれだけで、他意はないのだ。
ミーがせっつくのなら重い腰を上げただろうが、ミー自身ものほほんと今の暮らしを楽しんでいるっぽいから、ついついそのままになっている。
「相変わらず余裕があるねえ、タケ。美鈴ちゃんが愛想尽かすとか、かけらも考えないんだ?」
唐突に上から声が降ってきて、おれはちょっとびっくりする。