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王子の月

作者: ゼロ

       1


――二年前。

 警視庁に勤務する鳥越俊一郎は、上司から今日はもう帰っていいと言われ、久しぶりに昔よくいった店にいこうと考えていた。

鳥越がこの王子の街周辺に住んでいたときに、好んで転がり込んでいた店があった。といっても、どこにでもありそうなラーメン屋で、きっかけは特にない。ただ視界に入ったから、強いてもの理由がそれだ。


思うがままに、その店に入った。白い帽子を被った店主が一人で働いていた。席が十ないような数で、カウンター席しかないこじんまりとした店だった。客は一人だけいた。眼鏡をかけた小太りな男で、隣の開いた席に黒い鞄を置いていた。察するに、普通のサラリーマンだろう。

いらっしゃい、と威勢の良い太い声がした。

「ビールと・・・豚骨ラーメン、ください」

 鳥越は卓上にあったメニューを見ながら、そう言った。しかし、あまり味は期待していなかった。駅前とはいえ、小規模な店に期待はできなかった。

「はいよ」

 ビールが来てから少しして、店主の声がした。目の前には外は赤く、中は白い丼があった。白い湯気がめらめらと立っている。鳥越は束ねて置いてある箸を一本取り出すと、口で挟んで割って食べ始めた。

 正直、美味かった。期待していなかったから、その反動が大きいのかもしれない。しかし、鳥越の舌は確実に美味いと感じ取ったのだ。箸が止まらない。麺を啜る音も絶えない。スープは味が濃厚で、飲む者を最後の一滴まで惜しませる。麺はもちもちとした触感が絶妙で、それでいてコシがある。

ラーメンを作る職人は、下手な職人はホントに下手らしいが、逆に巧い人のラーメンはほんとに美味い。人入りが悪いせいでハードルを下げていたが、いざ飛び越えてみると、味わったこともないような快感が生まれた。

 代金を店主に差し出した。

「美味かったです。また来ます」

「ありがとよ」

 太く低い声は鳥越の胸の内にしっかりと響いた。

 そして、宣言通り、鳥越はその店に通うようになった。一ヶ月に二、三回。そんな割合だった。

 だが、最近というもの、仕事が忙しくなり、顔を出すことが無くなっていた。距離の問題もあった。本庁からだと、そこそこの距離だ。そのうえ、本庁に通うのに不便だったため、王子から引っ越したのだ。時々食べたいという願望は芽生えたとしても、わざわざ北へ、とは思えなかった。

しかし、ずっと顔を出していない店だ。今日くらいはいいだろう、と腹が決まった。抱えていた事件が解決し、書類整理を終え、珍しく早上がりになった鳥越は、懐かしいラーメン屋の扉を開けた。

「おう、久しぶりだな」

 店主が温かく迎えてくれた。店内を見ると、男女のカップルが一組、そして、サラリーマンが二人仲よく杯を交わしていた。最初に訪ねたときと同様、ビールと豚骨ラーメンを注文した。今までも、だいたい豚骨に限っていた。時折、サイドメニューの餃子を頼んだ。今日は食べるかと腹を決め、あと餃子もください、店主にそう言った。

 調理している豪快な音が食欲を注いだ。少しして、懐かしい丼が置かれた。

やっぱり、美味かった。額から垂れてくる汗など気にも留めない勢いで、麺を口へと運んでいく。餃子もパリッという音が食べていて気持ちが好い。

麺を平らげると、鳥越は残っていたビールをぐびぐびと飲み干し、代金を払った。美味しかったです、と正直な感想を述べると、太い声で、また来いよ、と言われた。

 それから鳥越は外に出た。空を仰ぐと、北とぴあが視界に入って来た。高い建物だ。ここでは演奏会やバレエの発表会、能やコンサートまで幅広いイベントを催しているそうだ。北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された施設らしい。北区のシンボルとして区民からも親しまれている。

ふと腕時計を見ると、午後九時前を指していた。これからすぐ近くの王子駅で京浜東北線に乗車し、自宅へ向かうとなると、十時を過ぎることになるだろう。憂鬱になりながらも、帰るか、と歩みを進めた。

事件は、まもなくして発生した。

 突然、どこからか女性の声がした。叫び声ではなかった。やめて、と嘆く声だ。鳥越はすぐに刑事の眼になる。声がしたのは、京浜東北線の線路の下の通路だ。歩道と車道が壁に覆われている、小さなトンネルといっていい。

「ん?」

 一人の男、そして、路に佇む女性を見つけた。男が肩で息をしているのが、遠くからでも明瞭と分る。一瞬にして犯罪の臭いを嗅ぎ取った。

「ラーメン食った後に、犯罪かよ・・・」

鳥越はそう言って、咄嗟に走り出した。走りながら、おい、と叫ぶと、男も鳥越の存在に気付き、逃げる姿勢を取った。しかし、高校時代陸上部にいた鳥越は足には自信があった。勢いは増し、すぐに男との距離も縮まった。右手で肩をぐっと掴み、壁に体躯を押しつける。怯んだ隙に、次は地面へと投げ倒し、左手を掴み強く締めつけた。男は右手で左肩を痛そうに抑えている。鳥越は痛いようにしているのだから、当然のことである。

「警察だ。おまえ、何してた?」

 鳥越は佇む女性に目をやった。頬に青い痣ができている。口元からは赤い液体が少しだけ姿を見せていた。

「八時五十四分。婦女暴行の容疑で現行犯逮捕する」

 鳥越は手錠を男の両腕に取りつけた。男はまだ肩で息をしていた。意味もなく、うなっていた。

 鳥越も息を整えていた。少なからず歳をとった身体の体力は、高校時代と比べてさすがに劣っていた。無理もないことである。そのせいか、身体は思った以上に疲れていた。

 その後、百十番通報し、まもなくしてパトカー一台に男は乗ることになった。一応目撃者、そして刑事なので、鳥越も同行した。せっかく早く帰れる、そう思ったのに、運悪く犯罪に関わることになってしまうとは、鳥越も参ってしまう。いつ何時も刑事の身でいろという、神からの忠告だろうか。

だが、目の前の犯罪を見逃すなんて選択肢は無い。鳥越の活躍により、一人の女性が救われたのだ。刑事として、人として当たり前のことをしたまでである。犯罪の発生に悪く思ったのと同時に、犯人確保の喜びがどこかにあった。

それから、婦女暴行容疑で逮捕された男は、王子署の密室で取り調べを受けることになった。

その日は月がとても奇麗な日だった。無論、鳥越たち刑事はその存在に気付いていない。


       2


 富田と村井の二人の刑事はコンビニ強盗の事情聴取から戻り、王子署刑事課の自分の席にドスンと腰を下ろした。

「疲れましたね」

 部下の村井が言った。村井とはよくタッグを組んでいる。まだ三十過ぎの若手刑事だが、仕事は申し分ない。富田は上司として鼻が高かった。

「そうだな。早いとこ、書類まとめるぞ」

「それにしても、あの強盗犯酷いっすね」

「前科が数十件あったんだっけ」

「そうです。ストーカーに、万引きに、傷害に・・・酷いものですよ。暴力団とつるんでいたこともあったらしいですしね」

 書類整理を続けていると、それからまもなくして、電話が鳴った。富田は受話器をとり、「はい王子署刑事課」と威勢よく言った。

「はい・・・ああ、またですか。分りました。行ってみます」

 富田は会話を終え、受話器を元に戻した。

「どうかしたんですか」

 村井が書類整理しながら、訊いてくる。

「例の一件だよ。王子神社の件」

「ああ、嫌がらせが連日続いているっていうやつですか」

 その「王子神社の件」というのは、二週間前から王子の街を騒がしているちょっとした事件だ。犯人は男か女か、それさえも把握できていない状況なのだが、王子神社を対象に不気味な手紙、悪戯等が起きている。人徳非道な殺人事件ではないが、事件は事件だ。管轄内だから、捜査しないわけにはいかない。ちなみに王子署は主に北区中央を管轄している。

 富田たちは署を出た。王子神社までは歩いて行ける距離だ。信号を渡り、北とぴあに辿り着く。右手に続く道がある。そこを二人は歩いて行った。トンネルをくぐり、少し坂を上ると、小さな十字路に辿り着く。そこを左折すると、王子神社が見えてくる。

「ごめんください」

 村井が一声を上げる。すぐに一人の女性が出てきた。緒波和枝という。訪ねるのは、もうこれで四度目だ。まだ若く、二十一歳だという。大学生だ。

「王子署の者です。また、嫌がらせに遭われたとか」

「ええ、そうです」

 捜査報告書にはこれまでに三件の事件の調査書結果が書かれていた。

一件目はこの王子神社までつけられたようだ。気付いたときには自分の後を追いかけてくる人影があったらしい。自宅の扉を開くとき、境内の方を見ると、フードを被った人が立っていたという。和枝自身、事態を重くみていなく、警察に直接届け出ることはなかった。

 しかし、次なる事件が起きた。二件目は銃弾が玄関の前に十発並んでいたのだ。そこに何らかのメッセージが込められているのかは判断つかないが、単なる嫌がらせとは考えにくくなる。

 三件目は百通もの手紙が段ボールに詰められ、玄関に無造作に置かれていた。しかし、手紙というものの、中身がどれも無かった。一文字も書かれていなかったのである。書くのが面倒だったのか、理由は見当もつかない。

 そして、今回で四件目だ。

「どういった嫌がらせを被られたのですか?」

「昨日、襲われました・・・」

「え・・・」

 二人は絶句してしまった。ついに犯人が彼女との距離を縮めた。富田はいろいろと言葉を考えたが、口に出すには至らなかった。何を言っても空回りするだけだと思ったからだ。

「あの、具体的には」

「ここでです」

「ここ?」

「あっちの駐車場の方で、いきなり襲われました。ちょうど外食から帰って来たところでした」

「具体的には何時頃?」

「夜、十時回ってたと思います。月が奇麗な日でした」

 このあたりは街灯も少ない。漆黒の闇の中で突然襲われた女性にとって、これほどの難は人生稀のことだろう。警察は「稀」を「零」に変えるのを理想とし、日々動いているということだ。

「あそこの」和枝は王子神社と同じ敷地内にある小さな神社「関神社」を指差した。

「あそこの陰に潜んでいたんだと思います。関神社の前を通り過ぎたところで、いきなり後ろから・・・」

 そのときのことを思い出したのか、和枝は口元に手を添えた。まだ若い歳に災難に遭うとは、これからの将来も含めて懸念される。ストーカー被害に遭っただけで、心を完全に閉ざしてしまう被害者もいる。和枝がその一人にならないことを富田は望んだ。そのためには、警察組織が犯人逮捕に全力を尽くすことを要する。富田は一気に肩に「責任」という重荷が乗っかった気がした。

「犯人に心当りはありますか。襲われたときに気付いたことだったり、細かいことでも良いんですが」

 村井が訊ねる。

「そういえば、口元に黒子がありました」

「黒子?」

「ええ、そうです」

「分りました。こちらもいろいろと捜査してみます。どうか心配なさらずに」

「はい・・・」

 そうは言ったものの、緒波和枝の顔は晴れていない。無理もない。普通の人はそうであろう。一刻も早く事件を解決すべきだ。そして、被害者の不安を取り消さねばならない。

 しかし、世の中事は上手くいかないもので、数日後、新たなる事件が勃発した。


       3


 鳥越が夜食にしようと、コンビニの焼肉弁当に手をかけたそのときだった。懐で振動音がした。携帯の画面には「柳先輩」とある。柳、というのは、鳥越の先輩刑事である。捜査する際、よくタッグを組ませてもらっていた。

「まさか・・・」

 嫌な予感しかしなかった。柳刑事から仕事以外のことで電話が来ることなど皆無に等しい。いやいや指をスライドさせ、携帯を耳に当てる。

「もしもし」

――北区の王子駅前で殺しだ。すぐに来い。

 通話時間三秒。誰かと競っているのだろうか、そんな想像を彷彿させるほどの早業だった。否定を許さない勢いである。ツー、ツーという音が聞こえる。

コンビニの掛け時計を見ると、十一時をとっくに回っていた。しぶしぶ焼肉弁当を手放し、何も買わぬまま店を出た。

(せっかくの焼肉弁当が・・・)

 そう思いながらタクシーを待っていた。二分弱待って、やっとのこと空席のタクシーが走ってくる。手を上げ、車を停まらせると、「王子駅前まで」と運転手に行き先を提示した。

車中で思ったのだが、手放した焼肉弁当をここで食べればよかったのだ。柳刑事が背後霊となって自分の身体を支配している、そんな馬鹿馬鹿しいことを想像した鳥越だった。

 王子駅前は煩わしかった。白と黒のボディを持つ車が何台か停まっていた。その数倍の数の人間が慌ただしく走り回っている。北とぴあ前にはコンサートでもあったのか、野次馬が結構な数いる。

 鳥越はタクシーを降りた。「KEEP OUT」の黄色いテープが見える。そのとき、稲妻のような光みたいなものが、頭の中でよぎった。

「あそこって・・・」

 そこは鳥越には覚えのある場所だった。京浜東北線の線路の下にある、一種の小さなトンネル。過去の記憶が呼び覚まされた。現場が王子駅前、と言われ、全く想像もしていなかった。しかし、まさか二年前にある男を捕まえたときの現場と同じとは思わなかった。

 でも、今回の事件とは無関係だろう。ただ現場が偶然重なった、それだけのことだろう。鳥越は一度咳払いをして、止めた足を再び動かせる。

(そういえば――)

 鳥越は二年前に逮捕した男の名前がすぐ出てこなかった。

(確か、名字が三文字だった。『川』が付いていた。名前は・・・そうだ、ケントといった気がする。名字、名字・・・ハ、ハ・・・そうだ!思い出した)

「長谷川賢人」

「え?」

 声の主は柳刑事だった。いつの間にか横に立っていた。厳つい横顔が鳥越の眼に飛び込んできた。一年を通してこの顔面の変化は見られない。心無いような人間だ。

長谷川賢人。二年前逮捕した男の名前、それこそが長谷川賢人だった。どうしてその名前をこのタイミングに、そして柳刑事が口にしたのか。鳥越には理解ができなかった。

 大層不思議な顔をした鳥越を見ずに、柳刑事は続ける。

「被害者は長谷川賢人、三十一歳。死因は脳挫傷だ」

「え?長谷川が死んだんですか!」

「何だ、知り合いか」

「知り合いというか・・・以前あそこで逮捕した男です」

 鳥越は現場と思われるあたりを指した。

「あそこで?」

 柳も驚いた様子だ。しばらく、沈黙が続いた。柳が、とりあえず行くぞ、と声をかけた。スタスタと先を歩く先輩を追いかけた。

 既に遺体は病院に運ばれたらしい。しかし、生々しい血痕が残っていた。確か、ここは照明が暗かったはずだが、鑑識のものだろう、ライトの強い光によって明るかった。その鑑識課の捜査員は慌ただしく現場検証を進めている。奥の方を見ると、テープによって通行止めになっているこのトンネルを通ろうとしていたのだろう。自動車がわき道に入っていった。

鳥越、自分のことを呼ぶ柳の声がした。見ると、柳の隣に二人の男がいた。

「王子署の冨田刑事、村井刑事だ」

 柳が言った。鳥越たち三人はよろしく、と簡単な挨拶を済ませた。

 冨田は五十前くらいの刑事で、横の村井という刑事の先輩に当たるのだろう。その村井はまだ若い、といっても、鳥越よりは上だろう。鳥越はまだ二十七だ。三十を超えていない自分より、大人らしさを感じたためだった。

 しかし、それどころではなかった。長谷川賢人が死んだ。その事実がいまひとつ受けいれられなかった。

「詳しくは解剖後分ると思いますが、死亡推定時刻は今夜八時から十時の間。ざっと二時間前頃です。第一発見者は現場を通ったサラリーマンです。先ほど話を伺いましたが、特に奇異な事はありませんでした。ガードレールに血痕が見られます。おそらく、そこに頭を強く打ち、当たり所が悪くて死に至ったのだと考えられます」

「長谷川賢人は豊島区にある自宅から、新宿区の美容院養成施設に通ってるらしいです。携帯電話の履歴から大崎亮という人物と幾度も連絡していたらしく、その男から聞きました。大崎も同じ施設に通ってるらしいです」

 冨田と村井が淡々と報告した。

「美容院養成施設、ということは、美容師志望だったわけか」

 柳が腕を組んだ。やがて、黙っている鳥越に気付き、どうした、と訊いてきた。それでも口を開かない鳥越を見て、そういえば、と話題を転換させた。

「以前逮捕したことがあると言ったな。長谷川賢人を」

「長谷川を逮捕したんですか」

「前科があった?」

 王子署の二人が驚く。

「僕は、この場所で長谷川を逮捕したんです。近くのラーメン屋を出た後、ふと見ると、ある男が女性を殴っていたんです。慌てて駆け寄り、逮捕しました。その後、王子署で取り調べたんです」

「その男が長谷川だった、ということか」

「そうです」

「しかし、長谷川がどうしてここで殺されていたんだ」

 鳥越はそれが一番の疑問だった。その問いに答えるべく、柳が話す。

「もしかしたら、また女を暴行しようとしたんじゃないか。そして、女性を襲おうと思ったが、逆に返り討ちにあった。そうしたら辻褄が合うだろう」

「なるほど。その女性は自分が殺したことを隠すために、今も逃げていると言う訳か」

 柳の推論に富田は賛同したらしい。鳥越も別に異論を唱えたいわけではないが、得体の知れないもやもやとしたものが、胸の中でつっかえていた。事件は始まったばかりだ。これからしっかりと捜査を進めていけばいい。その過程で違う進路が見えてくるかもしれない。

「じゃあ、今のところは、その方針で行くか」

「しかし」

 鳥越は今、気になっていたことが一つ分った。一斉に三人が鳥越を見た。

「ここで犯行を起こすでしょうか」

「どういうことだ、鳥越」

柳がどこか不満に言う。それもそのはず、富田にも認められた自分の考えを否定するような発言を、そのうえ自分の部下からされたのだ。それに鳥越も気付いたが、構わず意見を述べる。

「仮にもここは、暴行で自分が逮捕された現場です。暴行を繰り返すにしても、再度同じ場所で行動を起こそうと思うでしょうか」

「僕も同意見です」

 村井も鳥越の意見を尊重するようだ。先輩刑事と後輩刑事の間に小さな対立ができていた。

「まあ、まだ事件は発生したばかりだ。ここで論争をするのは控えよう」

 結局、柳の一言により論争は片付いた。

「鳥越。明日、さっき言った大崎という男を訪ねるぞ」

「はい、分りました」

「冨田刑事たちは現場周辺付近の聞き込みをお願いします」

 柳は王子署の二人にそう指揮した。

 翌日の昼、鳥越たちは高田馬場にある日本美容専門学校に向かって、車を走らせていた。午前中、王子署の富田刑事から一課の方に連絡があった。

「鳥越刑事の言っていた通り、前科がありました。二年前、昨日の現場で君原奈美という女性を暴行していたところを、鳥越刑事が逮捕したということです。被害者の意向もあって罰金で済んでいます」

「被害者が許したってことか」

「まあ、そういうことになりますね」

「それから、美容師を志して専門学校に通ったという訳か・・・わかった、ありがとう」

 後々、捜査会議で報告されることになるだろう、鳥越は柳刑事経由でその報告を聞いた。

「長谷川は、本当に暴行しようとして、あそこに行ったんでしょうか」

 運転している鳥越は、先輩刑事にふとそんなことを投げかけた。車中の会話が進まない。それもあったが、単純に鳥越が疑問に思っていたことだった。

 しかし、柳刑事は無口な男で、自分で話題を振るということを知らないらしい。車の中では「無」の時間が多かった。柳刑事の貧乏ゆすりが清らかな美音に聞こえるときもあった。

「また、その話か」

「今向かってますけど、犯行後長谷川は美容師を志しました。養成施設に入ったくらいですから、そこそこ本気だと思います。そんな人間が再び、それも同じ場所で犯行を侵しますかね」

「人間は理屈通りいかねえもんだろ。他人には不思議に思える行動をするんだよ」

「そうですかねえ」

 それっきり、会話が途絶えた。

柳刑事が喋らないのは、常に何かを考えているのかもしれない。これから何を訊こうか。どんな背景が潜んでいるのか。あるいは、昨日の現場での一時を思い返しているのかもしれない。

だが、触らぬ神に何とやらと昔からいう。鳥越は運転に集中した。二人無言のまま目的地に着いた。

 車を降りると、施設から出てくる者たちがちらほらと見えた。若干来るのが遅かった。しかし、タイミング良く、大崎亮が姿を見せた。

 先輩、と柳刑事に声をかける。煙草に火をつける作業に手こずっていた。ライターの中身が切れかけているらしい。声をかけられた柳刑事は鳥越の視線を辿り、大崎の姿を認識した。二人は大崎に寄っていった。すると、相手もこちらの存在に気付いたらしく、歩くのを辞めた。

「大崎亮さんですね」

 鳥越が訊ねると、長谷川さんのことですか、と予測していたかのように言い返してきた。昨日富田たちが電話したらしいから、知っていて不思議なことではない。

「お話伺えますか」

 鳥越たちは少し歩いたところへ行った。知り合いに見られない方が好い、そういう配慮だ。

「君は長谷川賢人と親しかったようだね」

 柳刑事が訊く。

「僕と長谷川さんは昼間部のコースで、科目も一緒になることが多かったんです。もともと、積極的に話しかけることができない僕でしたから、嬉しかったんです。飲みにも行かせてもらってましたし」

「長谷川さんが殺されたんですが、それについては?」

「優しい人でしたし。別に殺される理由については、分りません」

「それでは、特に長谷川さんの過去については、お聞きしていないんですね」

「どういうことですか?」

 鳥越は柳刑事を見た。言わない方が好いですよね、という信号を眼で送る。柳刑事がついに口を開く。

「知らないのなら、結構です。こちら側からしても、捜査内容を明かすのは避けているものですから」

「ところで、誰に殺されたか目星は付いているですか?」

「今は何とも言えない状況です。ですから、こうしてお話を聞いているわけで」

 鳥越たちだって苦しいのだ。何も提示せず、話を聞かせてもらえますか、と強要しているも同然なのだ。少なくとも、申し訳ない気持ちはあった。しかし、これが仕事であり、真実を解明するためには通らざるを得ない道なのだ。我慢してもらうしかない。

「長谷川さんは先ほどの施設、日本美容専門学校に通っていました。その経緯、きっかけについて何か心当りありますかね」

 鳥越のこの質問は、長谷川が出所後、どういった心構えでこの施設に入ろうとしたのか、そして本気で美容師を目指していたのか、長谷川の人間性を問うものだ。

 大崎が語ったことを要約すると次の通りだ。

 大崎が長谷川と出会ったのは、通い始めて間もないころ、施設の食堂でのことだった。偶々隣に長谷川が座ってきたのだ。というのも、美容師を目指すのは、女性の方が圧倒的に多い。男性は数少ないから、いささか肩身の狭い想いをしていた。そこで現れたのが長谷川だった。親身になって話しかけてきてくれ、二人はすっかり意気投合したのだ。

「どうして、長谷川さんは美容師になろうと思ったんですか」

 その質問を問えるほど、親しい仲になった。訊くと、長谷川は笑って答えた。

「親父がその手の仕事についててね。子どもの頃から、ずっと親父の姿を見てきたんだ。でも、当時親父みたいになろうとは思わなかった。すごいな、と感服しているだけだったんだ。でも、二年前、あることをきっかけに美容師になりたい、そう決心したんだ」

 鳥越は大崎の話を聞き終えると、なるほどね、と一言漏らした。

「あることって何だったんですかね」大崎がわざとらしく訊く。

 おそらく、いや間違いなく、鳥越が手掛けた二年前の事件のことだ。自分の罪をしっかりと認め、償い、新たなる人生を切り開こうとしたのだろう。そのさなか、長谷川は何者かに殺された。皮肉にも、かつて自分が女性を暴行した現場である。美容師を真面目に志した長谷川が、再度女性を襲うなんてこと、有り得るだろうか。

「長谷川さんは前科があったんです」

 鳥越は痺れを切らし、胸を張って言った。しかし柳は顔色一つ変えなかった。

「そうだったんですか・・・」

「一応、長谷川さんが亡くなったあの時間、詳しくいうと午後八時から十時の間、どこにいましたかね」

「アリバイ調べですか」

「関係者の皆さんから伺っていますので・・・」

「家にいました。誰も証明してくれませんがね」

 大崎はバツの悪そうに言った。

「僕たちはこれで。またお話を伺いに来るかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」

 一礼して、鳥越と柳はその場を去った。

 午後六時から王子署で捜査会議が行われた。柳と鳥越も、もちろん参加する。富田と村井の姿もあった。鳥越は立ち上がり、捜査報告を始めた。大崎亮から聞いた話。そして、日本美容専門学校の詳細についても語った。

 それから、富田たちの報告が始まる。

「被害者の携帯電話のメールの受信記録に竹田大地という人物名が最後にありました。竹田は大学時代の親友らしく、時々会っていたらしいです。メールの内容は大物歌手のコンサートの予定でした」

「コンサート?」

「確認したところ、事件当日北斗ぴあで確かに催されていました。この竹田に話を聞いたところ、その日長谷川とコンサートに行ってました。コンサートが終わったのは午後九時半です。北とぴあを出た二人でしたが、長谷川は竹田に先に帰るよう言ったそうです。その後の長谷川の行動は、竹田も知らないということでした」

 その後、長谷川はどこかへ行き、殺害されたということになる。

鑑識課からは解剖の結果が報告された。頭部に二カ所の傷があったという。一つはガードレールの形状と一致するらしい。しかし、もう一つ違う傷跡があったという。まっすぐな切り口で、鑑識課の見解では、テーブルの端などに頭部を打ち付けたのではないか、そう言っていた。つまり、一度何かで殴られてから、あのガードレールに叩きつけられた、ということか。普通に考えればそうなる。

 この報告を受けて、柳刑事は眉間に皺を寄せた。どうやら、早期解決への道が閉ざされたからであろう。これにより、暴行しようとして返り討ちにあったという可能性は格段に低くなったのだ。長谷川が死んだ現場が発見された現場ではなかったからである。

 その日の捜査会議は終わった。

 それから三日が経ったが、有力な情報は得られずにいた。王子署の二人も、頭を抱えているようだった。

「久しぶりに行くか」

鳥越は古いボロアパートを思い浮かべた。


        4


 久しぶりに月を見た気がした。改めて美しく感じる。どこか妖艶な気さえした。

鳥越はある目黒のアパートの一室を訪ねていた。二階建てのあまり風貌のよろしくないアパートだ。二○二号室だ。表札は「布川」とある。呼び鈴を鳴らすと、やがて扉が開く。

 刑事の鳥越がフリーライターの布川静助の部屋を訪ねる理由は以前までは確固たるものだった。それは、事件を解いてもらうという本職刑事としてはあるまじきことだった。一般市民に情報提供しているということだ。しかし、それに十分なほどのお返しが来るから、お得なのだ。布川はフリーライターを職としているが、何故か卓越した推理力を兼ね備えていた。これまで鳥越が手掛けてきた事件で、その内の三割、いや半分程度はこの布川という男に手助けされたのである。

 簡単にいえば、鳥越と布川は切っても切れない関係にまで進展しまったのだ。

「おや、久しぶりのお客ですね」

鳥越の顔を見るなり、布川が言う。

「上がらせてもらいますよ」

 鳥越はずかずかずかと部屋に乗り込む。殺風景な部屋模様が飛び込んでくる。必要最低限な家具や電化製品しか揃っていないようなフォームだった。前来た時は小型のテレビがあったはずだが、それも無くなっている。訊くと、先日壊れたらしく、粗大ごみとして捨てたらしい。パソコンが代用を務めているらしい。不自由はないという。それは鳥越も同感だ。今の時代、パソコン一つあればかなりの情報を知ることができ、フリーライターを職とする布川としては、仕事もパソコンがあれば可能だ。

「今日は久しぶりに事件、ですか?」

布川は薬缶に水を注ぎながら言った。

「御明察。王子で起こった事件です」

 鳥越はそれまでの事件の概要を事細かに説明し始める。途中、布川がお茶を出してくれた。喉が渇いていたところだったので、ちょうどよかった。いざ話し始めると、布川は時折なるほどね、と言ったり、首を小さく縦に動かしたり、相槌を打っていた。

 一通り話すと、布川は立ち上がった。そして、デスクの引き出しから冊子を取り出してきた。ページを開き、文章を読んでいるのか、布川は少し黙っている。鳥越は続ける。

「今のところ、容疑者はこれといっていません。坂を上る方へ行くと、駅前とは一変して暗闇が待っていますからね。目撃証言が皆無に等しいんです。まあ、強いて言えば、長谷川に以前暴行された君原奈美という当時二十三歳の女性がいます。普通の会社員です。過去の恨みがあるので、動機としてはいいんですが、確かなアリバイがあったんです」

「アリバイか・・・」

「ええ。旅行で名古屋に行っていたらしいです。とても、犯行を犯せると思いません。仮に実現できたとしても、あの場所で殺害に至るとは考えにくいと思います。自分が犯人ですって言ってるようなものですからね。かといって、僕らが話を聞いてきた大崎という男だって、長谷川と仲良くしていたらしいですし」

「だからといって、容疑者の枠から外すのはいかがなものかと思いますけどね。どんなに良い人に見えても、裏の顔は誰にもありますからね」

「別に、容疑者じゃないって言いきっているわけじゃありませんよ」

「鳥越刑事」布川が言った。

「何ですか」

「一つ、お願いがあります」

「はあ、叶えられるものでしたら」

「王子署の刑事と話したいのですが」

「え!・・・そ、それは、ちょっと」

「だめですか?」

「だめというか・・・」

 だめである。布川との「密会」の存在を自ら告白するのはいろいろと不祥事が生じる。この関係を把握しているのは上司の柳くらいだ。それはともかく、王子署の富田刑事たちと布川を接触させるのは止めた方が良い。しかし、布川にもそれなりの考えがあるのだろう。もしかしたら、既に真相に辿り着いているのかもしれない。何を理由に頼んでいるのか知らないが、要望を飲むとしたらかなりのリスクを伴うことになる。警視庁の上層部に知られたら、鳥越自身の立場も揺らいでくるだろう。

「だめというなら、鳥越刑事が話してくれてもいいのですが」

「そうしましょう!そうしましょう」

 何だ、それでいいなら最初から言ってくれればいいのに、鳥越は胸を撫で下ろした。

「それで、何を訊けば?」

「近頃王子で起きている事件について、それを訊いてください」

「どういうことですか?それが、本事件と関連があるんですか?」

「まだ分りませんが、僕の推理が正しければ、関連していると思いますよ」

鳥越は納得のいかないまま、言われた通り携帯から村井に電話した。村井とは一応番号を交換しておいたのだ。歳も近いし、話が通じると思ったからだ。

 少し経ってから、はい、と村井の声がした。

「あ、村井刑事。鳥越です。訊きたいことがあって電話したんですが」

「何ですか?」

「最近王子で起きている事件ってありますかね。些細なことでもいいのですが」

「最近といえば、鳥越刑事も担当している長谷川の事件が・・・」

「あ、それ以外に、という意味です」鳥越は遮って言った。

「そうですね・・・コンビニ強盗が一件ありましたね」

「コンビニ強盗、ですか」

 布川を見た。布川は首を横に振った。他に、と訊いてください、布川は小声で言う。指示通りそう言うと、そういえば、と村井が何かを思い出したようだ。

「嫌がらせが続いているんです」

「嫌がらせ?」

「そうです。王子神社という神社があるんですが、そこの神職の大学生の一人娘、名前は緒波和枝というんですが、最近ずっと嫌がらせを受けているんです。僕と富田さんも担当しています」

「王子神社ですか」

 布川が大きく頷いた。詳しく訊いてください、と言った。どうやら「王子神社」が布川の求めるものらしい。しかし、王子神社と長谷川死亡の事件が繋がっているとは思えなかった。第一に、王子神社がどこにあって、どんな神社なのか、鳥越はそれさえも知識として無い。だが、布川にはその知識があるのだろう。

「その事件、詳しく聴かせて下さい」鳥越は言った。

 村井は過去四件の嫌がらせについて、事細かに語ってくれた。ストーカー、銃弾、空白の手紙、そして奇襲。どれもこれも、許し難いものばかりだ。被害者にはとてつもない重荷が募っているのだろう。慰めの言葉など、霞むほどに。

「・・・まあ、こんなところですが、この事件が何か?」

 一通りの説明を終えた村井が訊いてくる。布川に視線を向けると、もう結構、と小さく言った。布川の眼には既に真実が映っているようだった。

「ありがとうございました。もう大丈夫です。では・・・」

 鳥越は携帯を内ポケットにしまうと、布川に訊ねた。

「その顔は、真実が分った顔ですよね。話してくれませんか」

 布川は先ほどまで読んでいた雑誌を机の上に出した。そこには王子神社の概要について四ページに渡って、書かれている。布川の説明によると、これは布川自身が取材し、記述したものだという。確かに、最後には布川の名前があった。写真は王子神社が映っている。

「これが何か?」

「ここを読んでみてください」

 布川は四ページ目のある文章を指差した。

「関神社?」

「そうです。関神社とは、王子神社の攝末社、すなわち本社とは別に、本社の管理に属し、その境内や付近にある神社なんです」

「なるほど」

「関神社は王子神社を正面に見て、左手に位置しています。目と鼻の先という表現よりも近距離といえます」

 ともかく、王子神社の管理に関神社は属するということだ。

 その後も、布川の解説は雑誌を参考に続いた。関神社は蝉丸公、逆髪姫、古屋美女を主祭神としているらしい。読んで字のごとく、髪の毛が逆髪で哀しんでいた逆髪姫のために、蝉丸が古屋美女にかもじ、かつらを考案して髪を整えるよう命じたという。一九四五年、戦災によって焼失したが、かもじ、かつら、床山、舞踊、演劇、芸能、美容師の浄財によって一九五九年再建した。今でも、かもじ、かつらや床山業界の方々の信仰が厚いという。

「もしかして」布川の説明を聴き、頭によぎるものがあった。

「そうです。力士の髪を結う床山とは意味が異なりますが、髪を整える、髪に関わるというくくりでは、美容師も同じことです。実際、そういった系統の人達も来るようですよ」

 鳥越は息を飲んだ。しかし、未だ繋がりが見えてこない。関神社と長谷川は細い糸で繋がったといえる。しかし、緒波和枝が被害を受けている嫌がらせと、長谷川死亡の事件がどう繋がっているのだろうか。

「僕の推理はこうです。あの日長谷川は、竹田という友人と共に北とぴあで催されたコンサートに行った。公演が終わり、ついでに関神社に参拝しようと考えた長谷川は竹田と別れ、目的地へと向かった。徒歩で行っても、五分かからない距離ですからね。長谷川は関神社に着いたが、想いも寄らぬ事態に遭遇してしまった。最近被害に遭っている嫌がらせの犯人と間違われてしまった。おそらく揉め合いになり、長谷川はそこで頭をぶつけ、亡くなったんだと思います」

「え、ちょっと待ってください。ってことは、犯人は・・・」

「緒波和枝、もしくは神社の関係者でしょうね」

 布川の言葉に鳥越は言葉を失った。嫌がらせに遭っていた被害者が、今回の加害者。その事実を真摯に受け止めることが、今の鳥越にはできなかった。

「まあ、この写真からも分る通り、関神社の前の小さな階段、あるいは石の角に頭を強く打ったんだと思います。遺体の傷の形状と照合してみれば分ることでしょうし、血液反応も出るでしょうしね。口を割らせることは簡単だと思いますよ」

 鳥越は咳払いをした。舌で唇を湿らせる。布川の出してくれた湯呑の中は空だ。

「まあ、僕の推測ですから、あくまで一意見として捉えてください。僕が考えるに、一番可能性が高いのはこの仮説かと思いますがね」

 布川はすこぶる澄ました顔で言った。


       5


 事件発生から五日後、緒波和枝の父親緒波圭一が逮捕された。

布川の言った通り、関神社の階段の角に血液反応がみられたのだ。その血液は長谷川賢人のものと一致した。逮捕状は持って行かなく、任意同行のつもりで鳥越、そして富田、村井が向かった。しかし、圭一は刑事たちが来るに、あっさりと自供したのだ。どうやら前々から腹を決めていたらしい。圭一は鳥越たちから言われるまで、自分の殺した人間が長谷川であることを知らなかったという。つまり、ずっと嫌がらせの犯人だと思い込んでいたのだ。

王子署の取調室で、圭一はあの日のことを話した。

煙草がきれたため、買いにいこうと外へ出たところ、怪しい人影が関神社前にみえた。一瞬で嫌がらせの犯人だと思った圭一はゆっくりと近づき、声をかけた。その男は、娘の和枝の言っていた特徴と一致していた。口元に黒子があり、細い体型。よくも和枝を、と怒鳴り、男の胸倉を掴んだ。男も抵抗してきた。気付いたときには、その男は微塵も動かない「物体」となっていた。頭から血を流していた。我に返った圭一は慌てふためき、死体の処理を試みた。遺体を背負って、線路下のトンネルに運んだという。

驚いたことに、緒波和枝と君原奈美は知り合いだったという。それもなかなか仲が良かったという。半年に何回か会食するほどだ。だから、圭一も君原奈美が長谷川から暴行を受けられて事件のことを知っていたという。だから、その現場である例の現場に遺体を運んだらしい。結果、それが疑問の種となったわけだが。

一つ言えたことは、素人に犯罪隠蔽は不可能ということだ。犯罪心理において、人を殺してしまった際に冷静でいられる人間なんてそういないだろう。

警察側は和枝との共犯、さらには和枝が主犯の可能性も疑ったが、圭一は断固としてそれを否定した。自分だけしか関わっていない。そう誓った。その言葉に嘘は無く、後の捜査で和枝のアリバイが保障された。

とにもかくにも事件が一件落着して良かった、と言いたいところだが、結局嫌がらせの犯人は誰なのだろうか。未だ逮捕に至っていなかった。しかし、その心配もすぐに安心へと変わった。

緒波和枝は襲われた際に口元にある黒子を良く覚えていた。そのせいで、長谷川は死に至ったといってもいいかもしれない。その黒子を持った人物がいたのだ。富田、村井が担当していたコンビニ強盗の犯人だった。前科が凄まじいものだった奴である。全く、とんでもないやつである。動機も動機だ。魔が差したといっている。富田たちが自供を引っ張り出し、送検されたという報告が鳥越の耳にも入った。

鳥越と柳の二人は、あるラーメン屋で席を隣に座っていた。無論、鳥越行きつけの王子駅前のラーメン屋だ。店主は変わらず同じ服装、同じ低音ボイスだった。

「しかし、よく王子神社との繋がりを推理できたな」

「いえ、恐縮です」

「まさか、例のフリーライターに手助けされたんじゃないだろうな」

「ま、まさか、そんなことありませんよ。あれは僕の、僕が推理したんです」

「そうか、一応信じることにしておこう」

 絶対信じていない、と思ったが、手助けされたのは事実だから、口先だけでも信じるといってくれた柳には感謝すべきだ。

「しかし、人間悪く思わない方がいいな」

「それはどういう?」

「長谷川のことだよ。前科があるからって卑下していたけど、過去は過去。長谷川は新たな人生を自分の手で開こうとしていた。刑事っていう仕事は人を疑うのが商売で、時に自分でも嫌になるほど悪い人間なんだなと自責の念に駆られる。他人に対しても同じことだ」

「しかし、僕たちがいなければ、人々は安全に暮らせません。犯罪が多発するでしょうしね」

「まあな。この道を選んだときから、こういう葛藤を抱くことは決まってたんだろうな。宿命ってやつだ」

 柳は珍しく笑いながらビールの入ったコップに手を伸ばす。そして惜しまず一気に飲み干した。

 鳥越の前には豚骨ラーメンが運ばれてきた。美味そうに湯気が立っている。柳はチャーシュー麺を頼んだ。鳥越の後に続いて、大きな丼が机の上に姿を現した。

 箸を取ろうとしたときだった。柳が振動している携帯電話を取り出した。鳥越は箸を口で割ろうとして、くわえた。

「・・・了解」

 柳が低い調子で言った。

「鳥越」

「はい?」箸で麺を掬いながら言った。

「事件だ。行くぞ」

「え?マジすか?」

 柳は今にでも行くようだ。

「まだ一口も食べてないですけど」

「店長、また来る」柳が扉を開けながら言った。

 すみません、鳥越も仕方なく店を抜け出した。この仕事に就いた以上、こういった緊急の出動は珍しくない。しかし、ラーメンの一口くらい食わせろ、心の中で暴言を吐いた鳥越だった。

 月が奇麗な夜だった。その輝きを刑事たちは知らない。

                             〈終〉


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