第一章 楓 (九)
浅野川のそばに「ながれ」と呼ばれる地区がある。卯辰山に程近いその地区に、富田重政の屋敷はあった。
重政は、藩祖利家のころより前田家に仕えていたが、さきごろ利長が隠居するにあたり、自分も四十路、もはや老齢であるとの理由で一線を退いたばかりだった。いまは長子の重家が家督を継いでいる。
富田家は代々、剣に優れた家柄で、重政はその婿養子に入った男だ。利光が重政に目をつけたのは、側近の横山康玄が重政の次子、重康より剣術を学んだと知ったからだった。
重政がその越後守の官位から『名人越後』と呼ばれる剣豪であったことは、かねてから知っていた。利光自身、剣術を学びたいと考えていたのだ。だが、ひとあし先に目下の者が子の重康に学んでいたとあっては、いまから同じ重康には指導を頼めない。そこで利光は頭をひねり、剣豪である父親のほうに指南を請うことにした。安直な考えではあるが、なかなか悪くないと思った。
利光はまず、折を見て重政のもとへ訪れ、単刀直入に物を申して頭を下げた。重政は隠居を楯に、丁重に断りを述べた。
されども、これで諦める利光ではない。古典に三顧の礼と言うではないか。二度、三度と足を運んだが、重政は頑として譲らず、一度として首を縦に振ることはなかった。
しかしながら、利光はめげなかった。毎日のように通いつめ、富田邸の庭の景観を褒めた。楓を一葉持ち帰り、珠姫にやると、翌日からは珠姫がいかに楓をよろこんだか伝え、楓の葉たった一枚を譲り受けることを口実にして、重政のもとに日参した。
重政は必死のようすの利光を見て、からかうように言うのだった。
「拙宅の庭ごときに過分なおことばを頂戴し、まこと、恐悦至極に存じますな。次にいらっしゃるときには、是非とも御前さまをお連れになってくだされ」
たくわえたひげを手でなぜて、重政は目を細めた。笑いぶくみの表情だった。無理難題をふっかけたのは、重々承知のうえなのだろう。仮にも主家の長である利光に対して、適切とは言いがたい物言いだったが、利光は不問に処した。この場に康玄でもいれば話は変わって来ようが、あいにくと言おうかさいわいと言おうか、利光はひとりでふらりと富田邸を訪れていた。
それに、重政に軽んじられていることも、さすがにここまでの拒絶を受ければ、利光とてわかっていた。重政にとっての主はあくまでも利家や利長であり、自分ではない。利光が十三歳と若いゆえのことではない。利光の藩主としての器をそれだけのものだと安く見積もられているのである。
暴言は己ひとりの胸のうちに収めた。けれども、言外に『おまえにはできなかろう』と匂わされたのが気にくわなかった。新丸御殿に籠められた珠姫を連れだして、富田邸にひっぱってくることくらい、なんだと言うのだ。自分ならきっと、容易くできる。
──見せつけてやろうではないか。
利光が珠姫を馬に乗せてきたのは、珠姫に紅葉を見せてやろうなどという粋な心意気のためではない。己を軽んじた重政に対する子どもじみた反抗心からだった。
馬から下りたとき、富田邸の正門には、老爺がひとり顔をみせていた。重政だと、すぐにわかった。その顔に驚きと、呆然とした色を読み取って、利光はいたたまれない心地になった。重政の表情はまるで、たったいま思い知ったばかりの己の浅はかさ、幼稚さを映す鏡のようだった。
利光は重政から顔をそむけながらも、珠姫の背を押して、富田邸の正門へむかうようにとうながした。珠姫が戸惑いながらも重政に近づく。あと五歩ほどの距離に寄ったあたりで、重政は平伏した。膝をついて、額を地面にすりつける。
しぼりだすような声だった。
「──拙者、富田治部左衛門重政と申す者でござります」
あとに続く口上には吃音ばかりが混じり、うまくことばにならないようだった。珠姫は重政のようすに首をかしげつつも、こわごわと言った風情で名乗りかえした。
「はじめまして、治部左衛門どの。わたくしは珠と申します」
ははあとも、へぇともつかない音をもらして、重政は月代まで真っ赤になって口ごもった。珠姫は気の毒に思ったようで、もう二歩近づいて、重政の肩に手をのばすようにした。
「お顔をあげてください」
困ったような声音だった。珠姫は身じろぎもしない重政を見て、助けを求めるように利光をふりあおぐ。
さて、利光としてみれば、あれほど見返してやろうと息巻いていたのであるが、いまになってひれ伏す重政の姿を目にしても、いっこうに胸のすく思いなどしないのだった。自己嫌悪にまみれながらも、珠姫の要請に応じて、そっと助け船を出した。
「──珠。重政の屋敷には、楓があるのだ。卯辰山にも負けぬほど、うつくしく色づいておる。毎日、卯辰山の見事な楓の葉を届けたろう?」
そう言われて、珠姫はやっと合点がいったらしかった。時間が経って、乗馬の恐ろしさが薄れてきたのだろう。ぱちりと小さな手を打って、よろこびだした。
「すてき。わたくしも楓が見たいわ」
はしゃぎはじめた珠姫の側で、少し声を落として、利光は重政に声をかけた。
「世話をかけてすまぬが、珠に庭を見せてやりたいのだ」
「はいっ、ただいまご案内いたします!」
飛びあがって珠姫を先導し、庭へといざなう重政の態度に、続いて歩きながらも、利光は呆れて笑った。
「俺のときとは大違いだな」
いまさら処罰を与える気は起きなかったが、このぼやきには、重政もたじたじとなった。だが、重政が謝罪を述べるより先に、珠姫は利光のことばに首をかしげて問いかけた。
「兄さ──筑前守どのは、わたくしに楓を見せるためにこちらへ?」
目下の者の手前、改まった調子だが、いつもどおりのまっすぐな珠姫の問いに、利光のほうも正直に胸のうちを明かした。
「『名人越後』と名高い剣豪の重政に剣術を学びたいのだが、これがなかなか『うん』とは言ってくれない相手でな、ほとほと困りはてておるのだ」
珠姫の小さな頭がくるりとむこうへめぐった。ふしぎそうな目で重政をひたと見つめる。なぜかと質問される前に観念したのか、重政はこれまでと同じように理由を申し述べた。
「拙者は四十路を越え、すでに老齢にござれば、殿さまの剣のお相手はとうてい、つとまりますまいと考えた次第にござります」
「どうして?」
高齢ゆえだと理由から述べたにもかかわらず、さらに何故かと尋ねかけられて、重政は珠姫の発言の意図をはかりかねたようだった。すぐに返答がなかったのを、聞こえなかったのだとでも思ったのだろう。珠姫は重ねて言った。
「どうして、年を取ったら相手がつとまらなくなるの? 治部左衛門どのは剣豪なのだから、いまも筑前守どのより強いのよね?」
「それは……」
重政が口ごもる。そのようすに、いささか気の毒になりながらも、利光は小さく笑った。なるほど、相手は藩主だ。師弟関係にもないのに、自分のほうが強いと目下の重政から口にすることはできない。かと言って、決して、重政は弱いわけではないのである。
利光と重政、ふたりそれぞれの沈黙の意味を、珠姫は手前勝手に解釈したらしい。得意そうに言った。
「試しに手合わせをすればよいのよ。それで、ほんとうに治部左衛門どのではお相手をつとめられないとわかれば、筑前守どのも諦めがつくことでしょう」
ね、そうしましょ? と、無邪気に言った珠姫に押され気味になって、重政は断ることもできずに、どうしたものかと利光に目を向ける。目配せを受けて、利光は話題をそらすように、腕を上げた。
「──珠、あれが楓だ」
指さされた先に視線を転じながらも、珠姫は納得しないようすだった。ごまかされたことがわかったのだろう。子どもっぽく、ぷぅっと両頬をふくらませて不満を示す。りすのようにふくれた顔に苦笑いして、利光はその態度をたしなめた。
「さようにひとを困らせるものではないぞ。試しとて、重政が俺に刀を向けてみろ、死罪になってもおかしくない」
「木刀か棒きれにすればよいわ」
「俺を打ち据えれば同じことだ。重政が俺の師であれば、話は別だろうが」
「筑前守どのは、治部左衛門どのに負けることしか考えていないのね」
言ってから、珠姫はむくれたまま、重政をふりかえった。
「こちらの庭の楓は見事だけど、いまのままでは、気になってこころから楽しめないわ。なぜ、筑前守どのに教えてくださらないの」
ほんとうのところを言えと、なおも追及した珠姫に根負けしたか、重政は顔を真っ赤にして、一文字にひきむすんだくちびるをふるわせた。むむむ……と低くうなり、直立不動で頭を垂れ、ようやくのことで口を割った。
「──いまは亡き舅は、太閤殿下の甥御、前関白左大臣どのに剣をお教えし、死後には豊臣の本姓を賜り申した。恐れながら、加賀藩は先代藩主と殿とでお考えが異なるものとお見受けし申し上げる。亡き舅の意志に従い、先代さまの御気色を察するに、拙者は殿に剣術をお教えするわけには参りませぬ」
まどろっこしい言いかたで本心を告げて、重政は今度こそ押し黙ってしまった。じっとまばたきだけくりかえし、珠姫はゆっくりといわれたことを噛みしめたようすだった。
「徳川の姫が筑前守どのに嫁いだから筑前守どのは徳川方だ、徳川は羽柴家の敵だから、肩入れできない。と、そういうこと?」
重政のことば咀嚼しようとして、自分なりのことばへと置き換える珠姫に、利光が付けくわえて言った。
「養父上とは違って、俺は松平の姓を賜っているからな。羽柴の姓を捨てたと思われても、詮ないことだ。……珠のせいではない」
いまひとつ説得力のないことばだった。
幼いふたりのこの哀しいやりとりを、老爺然として微笑みをもって見守っていた重政は、間違いをただすようにかぶりを振った。
「差し出がましい口をきくのをお許しくだされ。先代さまは、殿の代から先、加賀藩を羽柴家から切り離すおつもりでござりましょう。なればこそ、老兵は安直に殿と関わるべきではござらぬ」
──だから、表向きは『そういうこと』にしておきなさい。と、重政は言うのだ。
珠姫は悄然とした面持ちながら、納得したらしかった。新丸御殿でするように庭の見える縁側に腰かけ、楓を見遣る。気がかりはもうないから楓を楽しむのだと身振りで告げる珠姫のようすに、重政は面目なさそうにした。
風に揺れ、楓の紅が鮮やかにちらつく。
「──このお庭は、お花が咲く?」
とうとつに珠姫のくちびるからこぼれた問いに、重政は庭に目を配りつつ、ていねいに答えた。
「もうしばらくすれば、寒椿や山茶花が咲き申す。年が明ければ梅、春には杏、むこうに見える卯辰山の桜も楽しみにござります」
隠居の身で四季ごとの庭を造るほど、ぜいたくな邸宅にはできませなんだ。ひとつの庭に無理やりに四季を詰め、狭苦しくお恥ずかしい限りでござる。
重政の言に珠姫は楓を見つめたまま、得たりと口の端を上げた。
「まぁ、楽しみでございますこと! では、わたくし、そのころになったら、きっと筑前守どのに寒椿をおねだりいたしますね」
「……!」
珠姫の発言の意味するところに、はじめに気がついたのは利光だっただろう。だが、あっけにとられて何も言えないでいるうちに、言いかけられた当の重政もそれを理解したらしかった。ことばを失ってはいたが、しかし、それは驚きからであって、嫌がるようなそぶりはまるで見受けられなかった。
重政はうれしそうに目を細め、珠姫の横顔にむかって頭をさげながら言った。
「──御前さまのお望みとあれば、毎日でも花をご用意申し上げまする」
「ええ、是非ともお願いしたいわ、治部左衛門どの」
重政にむかって言って、珠姫は利光を手招いた。隣に座るように示して、自分は楓の枝葉を、そのむこうの卯辰山の紅葉を見上げる。
「……わたくしは、ほんとうは御殿の外には出てはならないのよね?」
自分の周囲は、間諜だらけだから。加賀藩や金沢城の隙を見つけてはならないから。
たった七つの珠姫が背負うものではない。自分がその年ごろのころ、何をしていただろうか。利光は思いかえして、胸が痛んだ。
そのころの利光は、まだ元服もしていなかったし、名乗るのは前田家当主の代々の幼名「犬千代」ではなく、「猿千代」だった。人質として預けられてはいたが、城主にはよくしてもらったし、近隣の村の子らに混じり、野っぱらを転がり、棒きれを振りまわし、日が暮れるまで遊んでいたものだ。継嗣の話が降ってわくまで、己の血筋などちらとも気にしたことはなかった。
「苦労をかけてすまない。俺の、力不足だ」
珠姫は三つで父母と引きはなされ、ともに遊ぶ仲間も、楽しく笑いあえる同年配の友もない。乳母の局と奥女中、たまに訪ねてくる舅の利長と、夫の利光。常に顔を合わせるのは両手で数えきれるほどのひとびとなのだ。
あらためて気づかされたぞっとするほどの孤独に、利光は身震いした。
夫のようすには頓着せず、珠姫は話したいことはそれではないと示すように、すうっと細い指を目の高さに上げた。卯辰山を指さして、くちびるをうごめかす。
「あれ。あの山に、」
ことばを区切って、利光の目をとらえる。
「桜が咲いたら、また、ここに来たい」
先の約束をするのは、恐ろしい。いまは平和でも、次の春にはまた戦があるやもしれない。春に利光の命があるかどうか、確信はない。この世には、ぜったいに果たせる約束などないものだ。
けれども、利光は力強くうなずいた。
「かならず、連れてこよう」
手を握る。結んだ手をゆすり、かならず、と、利光はくりかえした。
小さな手は白く、ふわふわとやわらかい。労働を知らず、重いものもいっさい持たず、甘やかされた姫さまの手だと、以前なら思ったことだろう。この小さな姫は、自分の考えていたよりもずっと多くの重たいものを背負わされて、いまここにあるのだ。
「──毎日稽古となると、半年と経たずに庭が丸坊主になりそうでござりますなあ」
困ったような物言いとは裏腹に、重政の語調は浮きたっている。その発言に笑みをもらして、大人びた返しをする珠姫の声を聞きながら、利光はもう一度、やわらかい手の感触を確かめていた。