第一章 楓 (八)
胸のなかで珠姫が震える。頬で風を受けながら、利光は片手で珠姫の背を撫で、また手綱へ手を戻し、前をむいた。
己が慣れ親しんでいる馬の揺れを、これほどまでに珠姫が恐ろしがるとは思っていなかった。幼い妻は、顔をふせたきり、身を固くしている。早く目的地に着けと、そればかり考えているようだった。
「そんなに怖がるものでもなかろうに」
つぶやきが思わず、くちびるから漏れた。珠姫が「えっ?」と面を上げる。目が合った。もう一度、同じことをくりかえすも、ひづめや風の音が邪魔をするらしく、珠姫は眉根を寄せる。聞こえないのだ。利光の胸から片手を離して、耳元にあてがうしぐさをする。その耳に声が届くようにと、利光は少し屈みこんだ。
「怖がるな。──俺がついているから」
口にした拍子のことだった。
「きゃあッ」
がくん、と上下にからだが振られ、身が浮くのがわかった。己ばかりではない。珠姫も同様だ。小さなからだが利光から遠ざかる。
全身の毛穴という毛穴から、ワッと汗が噴きだすようだった。どうやって珠姫を抱きとめ、持ちこたえたものか、頭が真っ白になって、ろくに記憶にも残らなかった。
いったい、何が。
利光は馬の歩を止め、ふりかえった。見れば、なんのことはない。道に深く轍があるばかりだった。雨上がりのぬかるんだ時分に、物売りの車でも通って、そのまま乾いてしまったのだろう。利光の不注意がもとで、馬が轍を避けずに踏みこんだのだ。
馬が止まってみてはじめて、妙な音を耳がとらえた。
かち、かちかちかち……
何の音だろう。あたりを見まわしてみて、音の正体に気がついたとき、利光は後悔で胸が痛むのを感じた。いつからだろう。珠姫の歯の根があわなくなっていた。血の気のひいた顔をして、筋という筋をこわばらせていた。
「珠」
呼びかけて、己の両手で珠姫の頬をつつむ。仰向かせて、泣き濡れた顔に、利光はことばをうしなった。
──ああ、そうか。俺は、珠を危うく死なせるところだったのか。
珠姫の涙を見て、利光はやっとそのことに考えいたった。己の考え無しと、不注意さに腹が立ってしかたがなかった。康玄にも忠告されたではないか。たかが落馬と甘く見てしまっていたが、よくよく考えてみれば、武道のたしなみどころか受け身のひとつも知らぬ女の身では、落馬は命とりになる。
理解したとたん、利光もふたり乗りが恐ろしくなった。
「兄さまぁ……」
顔をくしゃくしゃにしてすがりつく珠姫を、片腕でぐっと抱きよせる。
「悪かった」
返事はなく、涙はとまらなかった。
どうしてやればいいのかと悩んだ末、もう片方、空いた手で背を撫でてみた。分厚い小袖ごしに小さなからだをさすり、泣きやまぬのを見て、今度は頭に手をのばす。
「……泣くな」
指に触れた髪は、生糸のように細くやわらかだった。存外の感触に、もっと触れたいと思った。髪を梳くように撫でおろしていると、珠姫は次第に泣きやんでいった。
ころあいを見計らって、利光は静かに声をかけた。
「しっかり掴まっていろよ」
今度は、うなずきが返ってきた。
妻の腰をしっかりと支えたまま、ゆるゆると馬の歩を進める。前とは比べものにならないほどのゆっくりとした足並みだった。それでも、目的の場所にたどりついたときには、手綱にじんわりと冷や汗がしみていたのだった。