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第一章 楓 (七)

 そろそろ、利光のやってくるころだ。

 珠姫は遊びの手を止めた。同じことを考えていたらしく、乳母の局や奥女中たちもみな、利光を迎える準備をするためにゆるやかに動きはじめていた。

 利光は、約束を違えなかった。毎日欠かさず楓を一葉、懐紙に挟んで携えてくる。日ごとに趣向を変えて葉を選んでいるようで、似通ったものはひとつとしてなかった。緑から赤へと色のうつろいゆくさまがわかるもの、葉の先が少し赤黒く焼けているもの、黄みがかったもの。それぞれに味わいがあって、珠姫はどれも好きだった。

 懐紙に包んだまま、大事に大事に文箱にしまいこんできたが、それも既に五枚を超えていた。珠姫が楓を文箱から取りだしては眺めるのをみて、乳母の局は思うところがあったらしかった。苦笑しいしい声をかけてきたことがあった。

「御前さま。枝から離れた葉は、文のようには残りませぬ。いずれ茶色に枯れてしまうものでございますよ」

「……そうなの?」

 手元から目を上げて、珠姫は局をあおいだ。視線を受けて、局はこっくりとうなずいた。

「たいそうお気に召しておいでのごようすですから、少しばかり手を入れておやりになればよろしいかと」

「手を入れるって?」

 おうむがえしに問われて、局は目を細めて笑った。

「押し葉にいたしましょう」

 重しをしてすっかりと葉を乾かして、帳面や気に入った紙に貼りつけるのだと言う。この局の提案が、珠姫は非常に気に入った。さっそく、局の手ほどきを受けながら、文箱のなかにしまっていた楓を取りだして、押し葉にするべく重しをしてみた。腰を据えてより良い紙を選ぼうと意気込む珠姫に応えて、乳母の局は手際よく紙問屋に手配をした。今日、明日じゅうにも加賀きっての紙が幾種類か手元に取りよせられる手はずとなっている。

 このぶんだと、新しい楓の葉が届くほうが、紙の届くより先になりそうだ。考えているところへ、案の定と言おうか、乳母の局が利光の来訪を告げた。

「御前さま、筑前守さまがいらしたとの由。お支度をなさいませ」

 言うなり、局はてきぱきと奥女中たちに小声で指示をする。そのかたわらで、利光の先触れに立った使者に何事かを耳打たれ、己は席を立った。もてなしの準備をするためと言い残してはいったが、水回りのことは直接に局がすべき雑事でもない。何か、あったのかもしれない。

 珠姫が気にしているうちに、使者のことばどおり、利光が姿を見せた。

「──局は、あれは、どちらへむかった」

 どうやら、遠目に局を見かけたようだ。やってくるなり、珠姫への挨拶よりも早く乳母の行き先を気にするあたり、利光も利光で、美しくも口うるさい妻の乳母どのには閉口しているらしい。

 茶の用意のためにいないのだと教えると、利光は喜色満面となった。

「さようか! 好都合ではないか」

 手を打って喜ぶと、利光は設えられた座に腰をおろすことなく、床へ座りこんでいた珠姫の手を取った。

「珠、南東へ行こう。あちらには紅葉があったぞ」

「でも……」

 いくら南東の対屋に行くだけだと言っても、乳母の局に断りもなく部屋を出ては、あとでこってりと絞られるだろうことは容易に想像できた。局に叱られることを恐れ、おじけづいていると、表情などから珠姫の考えを読みとったか、利光はあえて大きめの声で、奥女中らにむかって言い放った。

「局どのには、俺が無理やり珠を引きずって連れていったと言えばいい。なぁに、叱責があれば取りなしてやるさ。藩主の言うことを聞かない者はない。安心しておれ」

 朗らかに、いっそ軽薄なほどの調子で請けあって、利光は珠姫を引きずり立たせて、部屋を出た。どこへむかうと聞いてはいても、珠姫の足取りはおぼつかなかった。不安のせいばかりではない。これまで、南東の別棟を訪れたことはなかった。新丸御殿は珠姫の屋敷とは言うものの、そこはやはり人質同然の身。手前勝手に屋敷じゅうを歩きまわれるものではないのだ。どこでどう、前田家の不利益に通じるかわからないからであろう。面と向かって話のできる人間はかなり少数の者に限られているし、その者たちの自由も、主の珠姫ほどではないにしろ、制限を受けているに違いなかった。

 それでも。

 珠姫は、足を進めながら、晴れ間ののぞく空を見上げた。暮れかけの日は、こちら側に見えている。庭に落ちる木々の影は、珠姫たちにむかって伸びていた。

 ──南東にむかっているワケではないみたい。

 珠姫は意を決して、前を行く利光に疑問を投げかけた。

「兄さま──、どちらへいらっしゃるの」

 問いかけて、戸惑いを隠せもせずに利光の横顔をのぞき見ようとした。珠姫のようすには気がついたであろうに、利光は特にふりかえるでもなく、言い訳をするでもなく、ただ妻の手を握りかえすばかりだった。

 はたして、珠姫が利光の意図に勘づいたのは、もはやひとりでは自室にも戻れぬほど歩いたのちのこと、利光が草履を履いて三和土に降りたときだった。

「あ、兄さまっ」

 外だ。外に出るのだ。理解したころには、軽々と横抱きにされ、新丸御殿の外の空気に触れていた。嫁いで以来のことだった。目を白黒させた珠姫に、利光はささやく。

「案ずるな」

 だれとも行き会わずにしばらく進んでいくと、門扉の近くに齢十四、五の細身の男がたたずんでいるのが見えた。側には馬が一頭、綱で繋がれており、その綱の先を、男がしっかりと携えているのもわかった。

 利光は男が立ったまま頭を垂れるのを見て、声を張った。

康玄(やすはる)、馬をよこせ!」

 細身の男、康玄は、命令にしたがって馬を引き、利光の前までやってきた。

「……殿、恐れながら」

「何だ、あとにしろ」

 そっけなく言って、利光はさっさと馬上のひとになると、珠姫を力任せに馬上へと引きずりあげた。珠姫はされるがままになったが、馬のうえでどうやって姿勢を保てばいいのやらわからず、ふらふらと重心を揺らしながら、馬の首にしがみついた。それを目にした康玄は、あからさまに『それ見たことか』と言いたげな顔をした。

「ご覧のとおりにございますよ。……貴い女人は、馬には乗らぬもの。振り落とされる危険もございましょう。どうか、いま一度、お考えなおされては」

 表情こそ雄弁に語っているが、康玄はそれほど強く主を引き止める気はないようだった。無感情、いや、いっそ投げやりとも取れる声音で、ぼそぼそと諫言する。形ばかりは頭を垂れての発言を、利光はあっさりと一蹴した。

「考えなおすはずがないとわかっているのであろう? 夕刻までには、かならず帰る。それまで、騒ぎが外に漏れぬように抑えよ」

「……承知いたしました。では、こちらを」

 ぬっと胸元にさしだされた布包みに、利光は面食らったようだったが、片手で受けとり、なかをあらためた。包みのなかには、真新しい女物の草履が入っていた。

「……そのままでは、御前さまのおみ足が」

 汚れると言いたいのだろう。

 用意のよいことだ。利光は驚いたようだったが、布包みを袈裟懸けにして背負った。珠姫に己の胴につかまるよう指示するや、馬の腹を蹴った。

「行くぞ、珠」

 ささやきに、こくりと声なくうなずいて、珠姫はぎゅっと利光の胸にすがりつき、目を伏せた。

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