第一章 楓 (六)
慶長十年四月十六日、今上帝より徳川秀忠に征夷大将軍の宣旨が下る。十日後の二十六日、利光は侍従として秀忠に付き従い、入朝した。
同年六月二十八日。初代藩主前田利長が老いを理由に隠居し、家督を利光に譲った。これを機に利長は富山城へと移り、金沢城主は、子の利光となった。
珠姫がはじめて城下へ出たのは、利光が城主となって三月後の九月末のことだった。
庭で手まりをついて遊んでいたところへ、利光はやってきた。いつもながら、供も先触れもなく姿を見せた二代目藩主に対し、奥女中たちはみな、おっとりとした所作ながらも、幾分焦っているようすだった。
「珠、土産だ」
言うと、利光はふところから、ひょいと懐紙をつまみ、さしだした。ひとさし指と中指に挟みこまれた懐紙を見て、珠姫は手まりを抱え上げると、すぐに利光の側へむかった。
手まりを濡れ縁の端へ置き、両手をさしだす。身長差に加えて、縁側と庭との高低差のせいで、珠姫の手は届かない。大きく屈みこんで、利光は小さなてのひらに懐紙を乗せてやった。
「開けてみろ」
言われるがまま、珠姫は二つ折りになった懐紙を開いた。そうして、現れた鮮やかな色彩に目を奪われる。赤子が手を開いたようなかたちの葉だ。指先にあたる尖った部分は紅に染まりきらず、橙色をしていた。
「楓だ。よく色づいていたので、一枚取ってきた」
珠姫は、ほうっと楓の葉に見入った。
つまみ上げ、くるくると指先で回す。それから、腕をあげ、日に透かす。くちびるを薄く開いたまま仰向くと、日にかざされた楓の葉は、錦のように輝いた。
「……気に入ったか?」
「はいっ!」
つい、笑みがこぼれた。利光は、そうか、とつぶやいて、安堵したようだった。
「珠は紅葉などは目にしないのだな。この庭の木々は色づかないものばかりか。卯辰山くらいはここからも見えるだろうに」
「いいえ。どこにあるの?」
問われて、利光は意外そうな顔をしながらも、すっとひとさし指を立て、縁から塀のむこうの稜線を指さした。けれども、庭に降りた珠姫の位置からは、その山は見えなかった。利光の指さす先を知ろうと伸び上がり、それから縁側に上り、利光に並び立つ。……いまひとつだ。
「うーん……、えいっ、それっ」
はしたなくもつま先立ちをしたり、飛びあがったりしてみたが、やはり見えない。むぅ、といじけると、見かねた利光の手がのびた。子猫でも抱くように軽々と珠姫を抱きあげる。びっくりして縮こまる珠姫を、そのまま肩のあたりまで持ち上げてやり、声をかける。
「どうだ、見えるか。あの橙色の山だ」
そうされてやっと、珠姫は目を開き、塀の外を見遣った。抱きあげられ、利光と同じ目の高さになってはじめて、その山は珠姫の前に姿を見せた。
なだらかな丘のような山がある。特に高い山というわけではなかった。そのせいで、これから背の伸び盛りを迎える珠姫の目線では、塀に隠れて見えなかったのであろう。
紅葉した楓の葉は一枚でもうつくしかったが、秋の日に映える卯辰山は錦そのものに見えた。あざやかな赤ややわらかい黄、ほんの少しだけ混じり込んだ緑が、紅葉を強調する。
「……あれが」
「卯辰山が色づけば、もうすぐ雪が降る」
言いながら、利光は珠姫を抱き下ろした。
「あの山の木は、すべて楓なの? だから、あんなにうつくしい色に?」
たたみかけるように問う珠姫に、利光は声をたてて笑った。
「すべて楓ということは無かろうよ」
「では、他にもうつくしい葉をした木がたくさんあるのね?」
この質問に、利光は顎をなでた。ひげの生えた老爺のようなしぐさだった。遠く卯辰山に目を向けながらも、眉をひそめ、考えをめぐらせているらしい。ようやくこぼれたことばは、思いの外、あっさりとしたものだった。
「さあ、なあ。俺もあまり近づいたことがないから、よく知らんのだ」
乳母の局が静かに傍へ寄ってきてかがみ、袖口を押さえつつ足元の手まりに片手を伸ばす。そうして、手まりを拾いあげ、腰を起こしたところへ、利光の腕のなかから珠姫が声をかけた。
「ねえ、局。卯辰山はあんなに真っ赤なのだもの、楓がたくさんあるのよね?」
主人たちの会話に無理やり引きずりこまれたかたちになって、乳母の局は少々気まずげにしながらも、ていねいに説明してよこした。
「山野において、紅葉する樹木は楓ばかりではございませぬ。また、楓にも多くの種類があると聞きおよんでおります。漆や卯木、錦木、躑躅なども、秋が深くなるにつれ、それは見事な紅色に葉を染めるのでございます」
卯辰山に生える木が紅葉しているように見えるからと言って、それがただちに利光の土産と同じ楓であるとは言えない。迂遠な言いかたであったためか、珠姫は納得しなかった。くちびるをとがらせ、矛先を変えた。
「何よ、局も兄──筑前守どのも知らないのね! だれか、卯辰山に行ったことのある者はないのっ? おまえたちは?」
「……珠」
奥女中たちにむかって声高く尋ねかけた珠姫を制して、利光はそっと妻を抱きおろし、膝をついて目を合わせた。
「卯辰山はこの城山より高いゆえ、入山を禁じておる。むやみに城を見下ろすなど、不届き千万だからな」
それゆえに、正室たる珠姫であっても、物見遊山で登ることはできない。直接には口に出されなかった意味を悟ったのだろう。半ばかんしゃくを起こしていた珠姫は声を失い、それから、悔しそうに奥歯をかみしめた。下ろした腕のさきで左のこぶしを握りしめる。右の指には、いまだに楓の葉をつまんだままだった。利光とは目を合わせようとせずに、うつむきがちになりながら、珠姫はふるえる声で訴える。
「筑前守どのは、藩主ではありませぬか。この金沢城でいちばん偉いのは、筑前守どのではないの? 卯辰山へ登って、珠に楓を取ってきてくださりませ。珠のかわりに、あの紅がすべて楓かどうか、その目で見てきてくださりませ」
楓が気に入ったのだ。あのうつくしい山へ出かけて、紅葉の下を歩いてみたかったのだ。その思いが、その場にいる者、だれしもに伝わるような声音だった。
「御前さま」
呼びかけて、乳母の局が幼い主のわがままを諫める。そのさきを言わせまいと手で抑え、利光は珠姫の右手から、そっと楓の葉を抜き取った。懐紙のあいだに戻して、珠姫の懐へ浅くさしてやった。珠姫の手が利光の後を引き取るようにして、懐紙を奥に押し入れる。上から押さえるようにして、胸元に両手を重ねる。
大事なものなのだと、何よりそのしぐさが語っていた。
自由に外を歩くこともできぬ身の上に、哀れを催したのだろう。利光は、言わずにはおれぬといった表情で珠姫にむきあった。
「──卯辰山には連れていけぬが、楓の葉くらいならば、持ってこられよう」
耳を打ったことばがにわかには信じられずに、目を見開いて、珠姫は顔をあげた。
「ほんとうに?」
「ああ、ほんとうだ。明日も、この時分に参ろう」
利光は力強く請け合うと、寒風になびく妻の髪を直してやった。ついでのように、てのひらが珠姫の頭を撫でていく。
「身が冷えきる前に部屋へ入れ。局どの、珠に白湯など」
「承知いたしました。では、お茶をお持ちいたしましょう」
うなずいて、乳母の局がさがっていく。卯辰山の問答のあいまに、奥女中たちは部屋の支度をすっかりと調えていたらしかった。珠姫とともに部屋のなかへ入りながら、利光はどこか考えぶかそうな顔を見せていた。