表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/29

第一章 楓 (六)

 慶長十年四月十六日、今上帝より徳川秀忠に征夷大将軍の宣旨が下る。十日後の二十六日、利光は侍従として秀忠に付き従い、入朝した。

 同年六月二十八日。初代藩主前田利長が老いを理由に隠居し、家督を利光に譲った。これを機に利長は富山城へと移り、金沢城主は、子の利光となった。


 珠姫がはじめて城下へ出たのは、利光が城主となって三月後の九月末のことだった。

 庭で手まりをついて遊んでいたところへ、利光はやってきた。いつもながら、供も先触れもなく姿を見せた二代目藩主に対し、奥女中たちはみな、おっとりとした所作ながらも、幾分焦っているようすだった。

「珠、土産だ」

 言うと、利光はふところから、ひょいと懐紙をつまみ、さしだした。ひとさし指と中指に挟みこまれた懐紙を見て、珠姫は手まりを抱え上げると、すぐに利光の側へむかった。

 手まりを濡れ縁の端へ置き、両手をさしだす。身長差に加えて、縁側と庭との高低差のせいで、珠姫の手は届かない。大きく屈みこんで、利光は小さなてのひらに懐紙を乗せてやった。

「開けてみろ」

 言われるがまま、珠姫は二つ折りになった懐紙を開いた。そうして、現れた鮮やかな色彩に目を奪われる。赤子が手を開いたようなかたちの葉だ。指先にあたる尖った部分は紅に染まりきらず、橙色をしていた。

「楓だ。よく色づいていたので、一枚取ってきた」

 珠姫は、ほうっと楓の葉に見入った。

 つまみ上げ、くるくると指先で回す。それから、腕をあげ、日に透かす。くちびるを薄く開いたまま仰向くと、日にかざされた楓の葉は、錦のように輝いた。

「……気に入ったか?」

「はいっ!」

 つい、笑みがこぼれた。利光は、そうか、とつぶやいて、安堵したようだった。

「珠は紅葉などは目にしないのだな。この庭の木々は色づかないものばかりか。卯辰山(うたつやま)くらいはここからも見えるだろうに」

「いいえ。どこにあるの?」

 問われて、利光は意外そうな顔をしながらも、すっとひとさし指を立て、縁から塀のむこうの稜線を指さした。けれども、庭に降りた珠姫の位置からは、その山は見えなかった。利光の指さす先を知ろうと伸び上がり、それから縁側に上り、利光に並び立つ。……いまひとつだ。

「うーん……、えいっ、それっ」

 はしたなくもつま先立ちをしたり、飛びあがったりしてみたが、やはり見えない。むぅ、といじけると、見かねた利光の手がのびた。子猫でも抱くように軽々と珠姫を抱きあげる。びっくりして縮こまる珠姫を、そのまま肩のあたりまで持ち上げてやり、声をかける。

「どうだ、見えるか。あの橙色の山だ」

 そうされてやっと、珠姫は目を開き、塀の外を見遣った。抱きあげられ、利光と同じ目の高さになってはじめて、その山は珠姫の前に姿を見せた。

 なだらかな丘のような山がある。特に高い山というわけではなかった。そのせいで、これから背の伸び盛りを迎える珠姫の目線では、塀に隠れて見えなかったのであろう。

 紅葉した楓の葉は一枚でもうつくしかったが、秋の日に映える卯辰山は錦そのものに見えた。あざやかな赤ややわらかい黄、ほんの少しだけ混じり込んだ緑が、紅葉を強調する。

「……あれが」

「卯辰山が色づけば、もうすぐ雪が降る」

 言いながら、利光は珠姫を抱き下ろした。

「あの山の木は、すべて楓なの? だから、あんなにうつくしい色に?」

 たたみかけるように問う珠姫に、利光は声をたてて笑った。

「すべて楓ということは無かろうよ」

「では、他にもうつくしい葉をした木がたくさんあるのね?」

 この質問に、利光は顎をなでた。ひげの生えた老爺のようなしぐさだった。遠く卯辰山に目を向けながらも、眉をひそめ、考えをめぐらせているらしい。ようやくこぼれたことばは、思いの外、あっさりとしたものだった。

「さあ、なあ。俺もあまり近づいたことがないから、よく知らんのだ」

 乳母の局が静かに傍へ寄ってきてかがみ、袖口を押さえつつ足元の手まりに片手を伸ばす。そうして、手まりを拾いあげ、腰を起こしたところへ、利光の腕のなかから珠姫が声をかけた。

「ねえ、局。卯辰山はあんなに真っ赤なのだもの、楓がたくさんあるのよね?」

 主人たちの会話に無理やり引きずりこまれたかたちになって、乳母の局は少々気まずげにしながらも、ていねいに説明してよこした。

「山野において、紅葉する樹木は楓ばかりではございませぬ。また、楓にも多くの種類があると聞きおよんでおります。漆や卯木、錦木、躑躅なども、秋が深くなるにつれ、それは見事な紅色に葉を染めるのでございます」

 卯辰山に生える木が紅葉しているように見えるからと言って、それがただちに利光の土産と同じ楓であるとは言えない。迂遠な言いかたであったためか、珠姫は納得しなかった。くちびるをとがらせ、矛先を変えた。

「何よ、局も兄──筑前守どのも知らないのね! だれか、卯辰山に行ったことのある者はないのっ? おまえたちは?」

「……珠」

 奥女中たちにむかって声高く尋ねかけた珠姫を制して、利光はそっと妻を抱きおろし、膝をついて目を合わせた。

「卯辰山はこの城山より高いゆえ、入山を禁じておる。むやみに城を見下ろすなど、不届き千万だからな」

 それゆえに、正室たる珠姫であっても、物見遊山で登ることはできない。直接には口に出されなかった意味を悟ったのだろう。半ばかんしゃくを起こしていた珠姫は声を失い、それから、悔しそうに奥歯をかみしめた。下ろした腕のさきで左のこぶしを握りしめる。右の指には、いまだに楓の葉をつまんだままだった。利光とは目を合わせようとせずに、うつむきがちになりながら、珠姫はふるえる声で訴える。

「筑前守どのは、藩主ではありませぬか。この金沢城でいちばん偉いのは、筑前守どのではないの? 卯辰山へ登って、珠に楓を取ってきてくださりませ。珠のかわりに、あの紅がすべて楓かどうか、その目で見てきてくださりませ」

 楓が気に入ったのだ。あのうつくしい山へ出かけて、紅葉の下を歩いてみたかったのだ。その思いが、その場にいる者、だれしもに伝わるような声音だった。

「御前さま」

 呼びかけて、乳母の局が幼い主のわがままを諫める。そのさきを言わせまいと手で抑え、利光は珠姫の右手から、そっと楓の葉を抜き取った。懐紙のあいだに戻して、珠姫の懐へ浅くさしてやった。珠姫の手が利光の後を引き取るようにして、懐紙を奥に押し入れる。上から押さえるようにして、胸元に両手を重ねる。

 大事なものなのだと、何よりそのしぐさが語っていた。

 自由に外を歩くこともできぬ身の上に、哀れを催したのだろう。利光は、言わずにはおれぬといった表情で珠姫にむきあった。

「──卯辰山には連れていけぬが、楓の葉くらいならば、持ってこられよう」

 耳を打ったことばがにわかには信じられずに、目を見開いて、珠姫は顔をあげた。

「ほんとうに?」

「ああ、ほんとうだ。明日も、この時分に参ろう」

 利光は力強く請け合うと、寒風になびく妻の髪を直してやった。ついでのように、てのひらが珠姫の頭を撫でていく。

「身が冷えきる前に部屋へ入れ。局どの、珠に白湯など」

「承知いたしました。では、お茶をお持ちいたしましょう」

 うなずいて、乳母の局がさがっていく。卯辰山の問答のあいまに、奥女中たちは部屋の支度をすっかりと調えていたらしかった。珠姫とともに部屋のなかへ入りながら、利光はどこか考えぶかそうな顔を見せていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ご感想やコメントをお寄せください!
(匿名で送れます)
マシュマロを送る!

次作や連載再開のための燃料をください!

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ