第一章 楓 (五)
利光は珠姫を見送ると、みずからは部屋の戸に背を預けて腰をおろした。
庭じゅうの低木が雨に打たれて、さあさあとささやきあっている。雨脚はさほど強くない。これも、いつもの通り雨だろう。
加賀は降雨が多い。この雨と、朝夕の寒暖の差が豊かな土壌をはぐくむのだ。
──父上は、隠居なさるおつもりだ。
珠姫に言えなかったことばを、こころのうちで唱えて、利光は下くちびるを噛みしめた。
藩主である父が隠居するとは、すなわち、利光が藩主になるということだ。
藩祖利家の子は六男九女、ほかに養子もある。正室の芳春院が産んだ長男が利長で、数ある側室のひとりが産んだ四男が利光だ。だが、利光は利家とは一度しか会ったことがない。だから、利光にとっての父といえば、養父の利長ひとりきりだった。
利長は、機を見るに敏な人物である。家康との謁見のなか、利光が長光の腰物や吉光の脇差とともに、松平の姓を賜ったのを見て、何も思わないはずはなかった。まして、家康が将軍職を辞すつもりであると知ったのだ。時代の趨勢をみれば、ここで動かない利長ではない。
利光は、己の手を開いた。剣の稽古のせいか肉刺だらけで皮の固くなった手は、大人よりもひとまわり小さい。元服を済ませ、大人の仲間入りを果たしたとはいえ、十三歳の利光はまだ、少年と言ってよい。
──この手で、加賀を守れるだろうか。
手を握って、思案する。
家康は、戦の世を終わらせようとしている。これからの世に必要なのは、武力ではない。いかに波風を立てずにおくかが肝心なのだ。
加賀は豊かだ。百万石とうたわれる国だ。その加賀が徳川家に敵対するとなれば、大事だ。それゆえ、家康は常に加賀藩主の動向を知ろうとしている。輿入れした珠姫のお付きに間者がいると考えられたのも、そのためだ。
いまになれば、利光にもわかる。
己の母、芳春院を証人とした日から、珠姫と利光の婚約を決めた日から、利長はこのような日が来ることを知っていたのだ。
「──?」
ひとの気配がして、利光は腰を上げた。さっとからだのむきをかえると、戸のむこうから乳母の局の声がした。
「筑前守さま、雨でお寒くはございませぬか。どうぞこちらへ。御前さまも、じきにお召し替えを済まされるころあいでございます」
「……ああ」
応えて足を踏みだしたところで、つまさきに触れたものがあった。
ちりん……ッ
手まりだ。わかったときには、遅かった。なかに籠められた鈴が儚げな音をたてる。手まりは転げて、庭に落ちていった。
なぜだろう。胃の腑が冷える心地がした。
利光は裸足のままで沓脱石に降り、泥のなかに転げた手まりに手をのばし、拾いあげた。
丈夫な品だ。なんともない。
安堵しながら泥を手で払いのけ、目を上げて、利光は気がついた。
局が戸を開けて、こちらを見ていた。紅を引いたうつくしいくちびるが、笑みをたたえて何事かを言う。
とっさに聞きとれず、利光は局を見上げた。局は、幼い子に語りかけるようにやさしい声音でくりかえした。
「御手が汚れてしまいます。手まりはわたくしがお預かり申し上げましょう」
「さようか。では、頼む」
さしだされた両手のうえに泥で黒ずんだ手まりを乗せ、みずからは部屋に入りながら、利光はふたたび、己のてのひらを見た。
見下ろした手は、泥に触れたせいで汚れている。何かを外に忘れてきたような気がして、利光はふりかえった。すぐに手まりを忘れたのだと考え至り、それも己で打ち消した。乳母の局に手渡したばかりだというのに、いったい自分はどうかしてしまったのだろうか。
局は、手まりの汚れを取ってくると言って、退室していった。
ひとりきりになった利光は気を取りなおすようにかぶりをふり、次の間から珠姫が来るまでのあいだ、ふしぎな喪失感を胸に、ただぼんやりと座っていた。




