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第一章 楓 (四)

 四月と言えば、初夏のはずだが、金沢ではこの時期、まだ冷える。暦に従って夏の装いをすべきか、それとも寒さを防ぐべきか。

 珠姫は、乳母の局によって腰に巻かれた打掛を手に逡巡しいしい、空の色をうかがった。

 大笠山の山並みのうえ、雲が黒々と厚みを増している。風向きも悪い。そろそろ、ひと雨あるかもしれない。

 乳母の局は怒るだろうが、背に腹は替えられない。珠姫は腰巻きを外すと、何食わぬ顔で袖を通した。一部始終を見ていた奥女中が目をむいたが、気にしない。当歳七つの姫さまは、体面よりも我が身が可愛いお年ごろだ。つん、と素知らぬふりをしていると、呵々大笑する声がした。

 珠姫は声のするほうをふりかえり、相手を認めるや、頬を赤らめた。

(あに)さま! そんなに笑わないでくださりませ!」

 打掛の合わせをかきよせて文句を言うと、利光は高く笑い、謝ってよこした。それから、いつものように珠姫の頭に手をのばした。

「珠はあいかわらずだな。少しは大きくなったかと期待していたのだが」

「ほんの半月ばかりで、背などのびませぬ」

 頬をふくらませて反論する。利光は相好を崩し、珠姫の頭を撫でおろした。

 利光と会うのは、半月ぶりのことだった。十二となった利光は、このごろ頓に忙しくしている。養父利長と行動をともにすることも多く、今回もまた父子で金沢を留守にしていた。出立前の説明ではたしか、京都へ所用があるのだと聞いている。

「背はのびずともよい。どれ、また手まりの相手でもしようか」

 利光は側の女中に手まりを取りにやらせ、自分はくつろいだようすで座した。それを見て、珠姫はあいさつをする機会を逸して、利光の隣に片膝を立てて座りこんだ。

 空白を感じさせぬふるまいだった。利光はいつもどおりだ。何も変わらないはずだが、ふしぎと大人びて帰ってきたように見えた。

「こたびの道中、障りは特になかったの?」

「支障はなかったが、驚きはあったな」

「驚き?」

 問いかえした珠姫に、利光は目を合わせた。

「珠の祖父君にお会いしてきた」

 征夷大将軍徳川家康に謁見してきたと、利光は言っているのだった。京都へ行くとは聞いていたが、まさか将軍に会いに伏見城へ行ったとは思っていなかった。

 珠姫が続きを待っていると、利光は部屋のなかへ差した影に視線をあげた。見れば、乳母の局の姿が濡れ縁にあった。局は何も言わずに手まりを捧げもったまま、その場にひざまずいた。利光が声をかける。

「留守中、ご苦労をかけたな」

「滅相もございません。筑前守さまのご無事のお戻り、何よりでございます」

 伏見城と金沢城は、馬を飛ばせば二、三刻の距離だ。大仰な物言いだが、局らしい。さすがに夫婦となって数年も経てば、利光のほうも局の言動には慣れてきている。苦笑を漏らして、かたちばかりの礼を言う。

「さあ、手まりが来たぞ。庭へ出よう!」

 快活な調子で言って勢いをつけると、利光は手まりを手に庭に降りた。ずるずると打掛を引きずったままの格好で利光に続こうとした珠姫を見かねて、局が手を出した。肩にひっかけただけの打掛を小袖のように巻き付け、細帯で裾をあげ、動きやすいように調節してくれる。

「珠! 遅いぞ、早う!」

 急かされて外に出た珠姫に、利光が手まりを押しつけた。ふたりで遊び歌をくちずさんで、まりつきをはじめる。肌寒かったはずが、からだを動かすと、すぐに汗ばんだ。利光と交互に手まりをついて、しばらくしたころだった。視界の端で、何かが動いた。それを、利光が目で追いながら、歌を口にする。気になってそちらを見ようとするのを、気づいた利光が、視線で戒める。

 そして、一巡、終えたときだった。手まりを手渡してよこしながら、利光がささやいた。

「あと十日もせずに、朝廷から宣下がある。将軍が代替わりするぞ。そなたの父が将軍となる。徳川は、源氏や足利氏のように、将軍職を世襲するつもりだ」

 珠姫は瞠目した。

 豊臣秀吉の死後もなお、徳川家は羽柴家を、ひいては秀吉の継嗣秀頼を主君としていたはずだ。だが、父秀忠がこののちに征夷大将軍となれば、羽柴家が世に君臨する流れは断ちきられる。

 そのようなことまでは、さすがに幼い珠姫の脳裏にはなかったが、たいへんなことが起きたことは、七つの姫でも理解ができた。何より、目の前の利光の硬い表情が雄弁に語っているのだ。

 利光は、一度目を伏せた。

「祖父君から、姓を賜った。『松平(まつだいら)』の姓を名乗ってよいと」

 利光のこれまでの姓は、藩祖利家が秀吉からいただいた「羽柴(はしば)」の姓だ。それを上塗りして、「松平」を名乗れと言うのである。

 珠姫の目にも明らかに、利光のからだは震えていた。怒りとも、恐れともつかぬようすに不安がったのがわかったのだろう。こちらを安心させるように、利光は微笑んでみせた。

 だが、その双眸に浮かぶ色は暗い。

 利光は続けた。

「加賀藩は、世の潮流に乗った。公方さまより姓を賜ったということは、親徳川派に組みこまれるということだ。だが、父上は、羽柴家への忠信をお忘れではない」

「……兄さまとお義父さまは、おもうさまと仲違いするの?」

 珠姫の声に、利光はかぶりを振った。そうして、地面に片膝をつく。いつのまにか、珠姫の手からは、手まりがこぼれ落ちていた。地に落ちた手まりを拾いあげ、大事そうに土を払う。利光は、手まりの文様を見つめたまま、つぶやいた。

「父上は──」

 先を言おうとして、利光は口をつぐんだ。一筋、頬をなぞったものに、空を見上げる。

 ぱた、ぱたぱたぱた……

 地面に水玉模様ができていく。先ほどは遠くの山並みのうえに見えていた黒い雲が、いまは頭上にまで迫っていた。

「まあ、雨……」

 降りだした雨粒に手をさしだす珠姫を抱えて、利光は軒下へ駆けこんだ。他の用をしていた乳母の局が、雨に気がついて戻ってくるのがみえる。

「残念だ、珠と久方ぶりに遊んでやれると思ったのに」

 局の耳を気にしたように、利光が言う。将軍との謁見の話などまるでなかったことにされて、珠姫は戸惑いながらも、されるがままに奥女中たちに世話をされ、着替えのためにその場をあとにした。

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