第一章 楓 (三)
局がやっと、そのときのことについて触れたのは、二巡目の貝合わせが終わり、奥女中たちが退出したころだった。
乳母の局は玉のかんばせに微笑みをたたえ、深々と利光に頭をさげた。
「先程は御前さまのお立場をお気遣いくださりまして、誠にありがとう存じます。この局の導きが足りぬばかりに、御前さまに恥をかかせ申すところでございました」
局の述べた丁重な礼に、利光はとぼけた口調で応じた。
「はてさて、局どのはおかしなことを申すものだ。何のことやら、俺にはわかりかねるな」
よほど興味がなかったのだろう。耳の穴を小指でほじくりながらの利光の返答に、乳母の局は少々呆れたようすではあったが、重ねて礼を述べた。鼻を鳴らして局の礼に応えて、利光は珠姫にからだをむけた。
「御前。俺は加賀藩の世子となって日が浅い。元服の直前こそ、代々藩主につけられる幼名の『犬千代』をいただいたが、それまでの名は『猿千代』だ。猿として生まれ育った者があとになって犬と名付けられたところで、性質が変わるものではない。至らぬことは多かろうが、都度教えてくれ。直そうと思う」
利光のこのことばに、珠姫は目を見開いた。あどけないくちびるから、ことばがこぼれる。
「──わたくしも、名が変わった」
「ほう、知らなんだ。御前は、なんと?」
意外そうにして問いかける利光に、珠姫は神妙な顔つきで言った。
「聞いてくれるか、筑前どの。わたくしは伏見城では『子々姫さま』だったが、加賀では『御前さま』になったようなのだ」
自分に敬称をつけて、さもふしぎそうに訴えた珠姫に、利光は顔をほころばせた。
「さようか! それはたいへんだ。では、御前と呼ばれるのは居心地が悪かろう。なんとお呼びいたそうか」
意向をきかれて、珠姫は叫ぶように言った。
「珠がよい!」
乳母の局がさすがに渋面をみせた。『珠』は諱だ。目上の者から呼ばれるにはよいが、夫とはいえ、利光は外様大名の血筋。珠姫の立場から見れば、利光は家来のひとりと言っても過言ではない。
いくら請われたとしても呼ぶべきではない。それは、利光とて重々承知していただろう。だが、次に続いた珠姫のことばで、こころがゆらいだようすだった。
「伏見城では、おもうさまが『珠』とお呼びになる。おたあさまも奥の者も『子々姫さま』と呼ぶ。加賀ではだれも珠とは呼ばぬ」
「……さようか」
嫁いだからには、もう二度と伏見城へは戻れないのだとは、思いもしないのだろう。珠姫は伏見城でのできごとを、決して過去とはとらえていないようだった。伏見城にある『おもうさま』『おたあさま』──珠姫の父秀忠と母お江は、珠姫を人質として嫁がせたのだ。生きて帰る日など来るはずもない。もし、その日があるとしたら、それは、加賀国が滅ぶ日だ。
「おもうさまがお好きか?」
こくり、珠姫がうなずくと、肩でそろえた尼削ぎの髪が揺れた。まだ素直であどけないようすが、利光には妹のようにかわいらしく思えた。
「おもうさまはとてもおやさしい。頭を撫でてくださる。抱きあげて、庭をみせてくださる」
伏見城のある京都は、加賀よりも気候が落ち着いている。四季のはっきりとした伏見の庭はさぞかし見事だっただろう。だが、金沢にだって、他には負けぬ景観がある。
利光は、珠姫の頭に手をのばした。ぎこちなく撫でてやる。
「金沢の冬は厳しいが、かわりにうつくしい雪景色を見られよう。……珠は、雪の降るのを見たことがあるか?」
その呼びかけがどれほどの重みを持つものか、呼びかけられた当人は気づく由もない。乳母の局の気配や視線が底冷えするものに変わったのを、利光だけが感じていた。
珠姫はきょとんとして、利光を見上げる。
「──雪?」
「そう、雪だ。雪は、白くて軽くて冷たい」
「加賀には雪が降ってくるのか? たくさん降るのかっ?」
珠姫がはしゃいだ顔で腰を上げ、利光の胸に飛びついた。それをくすぐったそうな顔で受けとめて、利光はうなずいた。
「ああ、降るぞ。山ほど降る。積もったら、雪遊びをしよう。だるまやうさぎをこしらえて、いっぱい並べるのだ」
「雪遊びは、楽しいか?」
「ああ、もちろん! だが、すこぅし、寒い。局どのに暖かな衣を用意してもらうとよい」
利光に言われて、珠姫が局をふりかえった。剣呑なふんいきを漂わせていた局は、主にそうと気取られぬように、取り繕って微笑んでみせる。
乳母の局は、うつくしい見目をした若い女だ。まだ、十九かそこらのはずである。それだのに、先ほどまで局から放たれていた禍々しい気配は、いったい何であろうか。
珠姫の輿入れに際して、江戸からは三百余人も加賀へ移り住んだ。利光の異母兄である藩主利長は、表向き、徳川の姫を歓待するため、新丸御殿を造営し、その従者たちのために長屋を設けた。だが、その裏は明らかだ。徳川の間諜をなるべく本丸に近づけぬため、珠姫と従者を隔離したに過ぎない。
珠姫につけられた乳母の局も、そういった意味では、優れた間諜に違いないのだ。
──あれは、恐ろしい女かもしれない。
利光は、うすら寒いものを感じて、身構えた。しかし、利光のなかに一度は現れたその違和感も、雪遊びを楽しみにしてうれしそうに笑う珠姫を見るうちに、次第に薄れていったのである。