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第三章 局 (五)

 利光の訪れが絶えて、もうすぐ二月が立とうとしている。

 このころになると珠姫は、ひねもす床に横たわり、ぼんやりと外を眺めていた。吐き気が押しよせて、枕元の壺にかがむことはあったが、珠姫の胃のなかにはもう、吐きだすものも残ってはいなかった。

 食事を与えられなくなりはじめたのは、いつのころだったろう。はじめは、居眠りなどで寝入ってしまい、食事どきを逃したものかと、のんきに構えていた。だが、ある日のことだ。一食も膳が運ばれてこない日があった。

 おかしいと思い、ひとを呼ぼうとしたが、部屋の近くにはだれひとりいなかった。局の姿もない。炊屋を探し歩いたが、新丸御殿は広すぎて、珠姫にはどこに何があるやら、見当がつかなかった。

 その後も何日かに一度、食事が止まり、ついには、前の食事から数日空くようになった。

 いまは、今日で三日目だ。もうからだを動かす気力もなくなり、珠姫は目の前の蠅を払うこともできないほど弱っていた。胃の腑が空になると吐き気が押しよせることを、この年齢になってはじめて知った。

 外へ、利光へ訴えようと手紙は何度も書いたが、いずれも局に見つかり、すぐに焼き捨てられた。夏姫の乳母ならば、あるいは届けてくれるかもしれない。そう考えて、子のもとにむかったが、乳母は見たこともない顔になっていた。前任の者はすでに解雇され、いまの乳母は局の息のかかった者のようだった。

 珠姫は、自分の産んだ子に会わせてもらえなくなった。夏姫だけではない。亀鶴姫にも、犬千代にも、千勝丸にも宮松丸にも満姫にも富姫にも。

 子に会いたかった。子の面差しのなかにでも、夫の気配を感じたかった。

 毒をのんだわけでもないのに、からだがぐんぐんと弱るのは、食事を摂らないことばかりが原因ではないだろう。

 産着の一件を利光に告げたが、迷信だと言われたことに、珠姫は勢いを得て、局に反撃をしかけたことがあった。だが、その後、利光の夜のお渡りが絶え、珠姫の勢いは見る間に失せ、気持ちは萎れていった。

 ──ほら、ごらんあそばせ。口ではどうにでもごまかせますが、筑前どのの態度に出ているではございませんか。

 許さないって。おまえが夏を殺すのだって。

 高笑いして、局はささやき続ける。

 ──筑前どのは、御前さまがお嫌いになったのでございましょう。きっと、他に好いた女でもできたのではございませんか?

 ひとことも言いかえすことができなかった。利光のこころ移り。そう表現するのが、この状況を表現するのにいちばんしっくり来てしまうことが、珠姫をいっそう打ちのめした。

 文ひとつ来ない。あれほど自分を気にかけて、折々に贈り物を欠かさなかった利光が、顔も見せない。

 昨日の晩、珠姫は泣きじゃくりながら、思い出にすがった。書棚にしまってあった楓の押し葉を取りだして、利光のかわりに胸に抱いて眠った。

 それも、今朝、目覚めると、局の手のうちに収まっていた。

 悲鳴をあげて取り返そうとした珠姫の目の前で、乳母の局は綴じ本を焼いた。手にやけどを作りながらその燃えかすをかき集めようとした珠姫を見下ろし、局は言った。

「隠しごとはいけませんわ、御前さま。将軍さまの御ためになりません。他に、わたくしに隠しだてしていることはございますの? 何か将軍家の重要なことを筑前どのにお話しになったことは?」

 ──それが、この仕打ちの理由か。

 局のことばを聞いてはじめて、珠姫はすべてを理解した。

 乳母の局は、珠姫の口から江戸の機密が漏れるのを恐れたのだ。局は、富田邸の話を聞くまで、珠姫が自分の知らないやりとりをしているとは思いもしなかった。もっと他に、不利益なことがあるかもしれない。そう考えて、これ以上何も情報が漏れないようにと、珠姫と利光の仲を引き裂こうとした。

 ──いやだわ、局ったら。こんなひどい仕打ちをする必要、なかったじゃないの。

 珠姫は、局の仕打ちの滑稽さを知って、己のなかで何かが弾けるのを感じた。気持ちの赴くまま、ケタケタと笑い声を立てる。

 ああ、どうしてだろう。こんなにもおかしくてたまらないのに、頬を涙が伝う。

 目を見開いて、珠姫は庭を見た。視線の先で、青々と茂った楓が枝を揺らしている。

 ──殿はこころ移りをしたんだもの、わざわざ引き裂く必要なんて、なかったじゃない。あなたは昔のまま、わたくしの母さまでいてくれたって、よかったじゃないの。

 庭に響いていったむせび声は、耳なじみのない大人の女の声をしていた。


 元和七年七月三日。

 夏姫が産まれて四月経った日の早朝、利光のもとに、その手紙はもたらされた。

『ゴゼサマ』

 拙い文字でこれだけが記された文だった。だれが書いたともしれないが、厩番が若い女から受けとったと言う。それが幾人かのひとの手を伝わって、利光のもとへと届けられた。

 新丸御殿の奥女中のひとりだろうか。いや、奥女中たちならば達者に文字を書くだろう。これは、下女の手蹟かもしれない。

 珠姫に何かがあったのだ。だが、乳母の局も奥女中たちも動けず、満足に使いも立てられない状況にあるらしい。

 そんなことが、果たしてあり得るだろうか。

 胸騒ぎがして、利光は新丸御殿へと走った。

 取り次ぎを待つのももどかしく、玄関をあがる。先触れもなく現れた藩主に、奥女中たちはあわてふためいたようすながら、利光の行く手を束になって阻んだ。明らかに、これは異常事態だった。

 利光は気色ばみ、奥女中たちの頭のむこうに局の姿があるのを見てとり、利光はそちらにむかって大声で呼びかけた。

「珠に会いに来た!」

「お通しすることまかり成りませぬ」

「なぜだ!」

「御前さまは、筑前守さまにはお会いにならないとの仰せでございます」

 しれっとした表情で言ってのけた局に、利光は乱暴に奥女中をかきわけようとした。その背後で、しわがれた声がした。

「う、う、嘘だッ、鬼女めが! 御前さまにごはんもさしあげねえで!」

 場が水を打ったように静かになった。反論する者はひとりもなかった。この声の主のいうことが正しいとの何よりの証左だった。

 ふりむくと、そこには地べたに這いつくばる老女があった。利光は外へ戻り、地に伏せる老女の肩へ手を添えた。

「──それは、どういうことだ?」

 押し殺したような低い声音にびくつきながら、老女はたどたどしい口調で言いつのった。

 老女は飯炊きの下働きをしていた。だが、自分の見るかぎり、もう二月も前から、下げられる膳に手をつけられた形跡がないことが増えたと言う。気に入らない皿があったかと、珠姫の好みを女中に尋ねたが、鼻であしらわれてしまった。やがて、毎日のように出したままの膳が冷えて返ってくるようになった。これはおかしいと、老女たち下働きの者たちは文字の書ける者に頼んで文を書いてもらい、決死の思いで厩番へと届けさせたのだと言う。

「そうか、わかった」

 老女の訴えを聞き届け、利光はゆらりと立ちあがった。腰に下げた鞘に、左手を添える。一歩進むたび、奥女中たちが怯えたようすで道をあけた。乳母の局の姿は、いつのまにか消えている。利光は構わず、まっすぐに珠姫の寝室へと足をむけた。

 たどりついた部屋には、悪臭が漂っていた。肉の腐るような臭いが鼻をついた。

 汚穢があるわけではない。部屋の床も、寝床も清浄に見える。だが、その理由は、珠姫の姿をみればすぐにわかった。

 目は落ちくぼみ、頬は痩けていた。襟元からのぞく胸元はあばらが浮いている。肌の色は黒ずみ、生きていることさえ疑うようなありさまだった。

 利光は目をむいた。膝を折り、歯をくいしばった。ダン、と、強く床を殴る。

「お、のれぇ……ッ!」

 うなり声をあげ、利光は刀をとった。珠姫の寝床のそばに腰をおろす局に、いまにも斬りかかろうとした。そのときだった。

 床のなかから、声があった。

「なりませぬ」

 骨と皮ばかりの腕がよろよろと持ちあがる。その腕が局をかばうように掲げられた。まさか、この期に及んで局を守ろうというのか。信じられないこころもちで珠姫を見下ろした利光を、もう一度、珠姫ははっきりとした口調で諫めてよこした。

「殿、なりませぬ。この者は、将軍家に仕える者なれば、この場で手にかけることは将軍の財物に手を出すも同じ。どうぞ、しかるべきかたちで、ご裁可を仰いでくださりませ」

 母がわりと慕っていた女を指して、『局』とは言わず、『この者』と言う。それだけで、珠姫の気持ちは利光によく伝わった。

 局は目を閉じて、ここで斬って捨てられることも覚悟していたようすだったが、この珠姫の発言に虚をつかれたような顔になった。そこへたたみかけるように、珠姫は言った。

「異論があれば、判官に申せ。追って沙汰があろう。……だれかある。この女を連れてお行き」

 珠姫の声量は、ひとを動かすには足らなかったが、利光を追って部屋までやってきていた下女たちが、こぞってこの命令に従った。

 乳母の局が引き立てられていき、ふたりきりになったとたん、珠姫のからだからはすうっと力が抜けた。あわてた利光が屈みこむと、頬にそっと珠姫の手が添えられた。

「お会いしとうございました。ずっと、ずっと……」

 弱々しい声ながら言い、愛おしげに頬を撫で、珠姫は微笑んだ。その手を両手で取って、利光は何度も謝った。

「肥立ちがよくないと聞いていた。何度来ても、会えずにいたのだ」

「そうでございましたの」

 理由は気にならないらしい。くわしくは聞かずに、珠姫はゆっくりとうなずいた。

 利光は、珠姫の頬に顔を寄せた。この手も、頬も、冷たいばかりで血が通っているとは思えなかった。利光は目元が熱くなるのを感じ、奥歯を噛みしめた。

 己の頬にかかった生ぬるいしずくに気づいてか、ひんやりとした指が動いた。たどたどしいしぐさで、利光の涙を拭いとっていく。

「泣いているの?」

 身を起こすと、焦点のあわない茫洋とした瞳が、利光を貫いて、むこうの天井のあたりを見ていた。利光はうろたえた。

「珠……」

 悲痛な色を帯びた呼びかけに、しかし、珠姫はほんとうにしあわせそうな顔つきをした。

「ねえ、兄さま」

 ひさしぶりにそう呼んで、珠姫は目を伏せる。目尻から、つう──っと、涙が流れた。

「わたくし、楓が見たいわ」

「珠」

「兄さまと、楓を」

 つぶやいて、珠姫のくちびるが閉じた。ふっ……と、軽く息をつく音がした。それきり、何も聞こえなくなった。

 恐ろしい喪失感に、からだがふるえるのを感じた。たったいま目の前で、この世で何よりも大事なものが、指のあいだをすり抜けていったのがわかった。

「……っ、あぁ」

 まだぬくもりを保ったままのからだをかき抱いて、利光は慟哭した。

 どうしてもっと早く気がつかなかった。どうして、もっと気にかけてやらなかったのだ。

 脳裏には、己を責めることばしかなかった。乳母の局やほかのだれのせいでもない、ただただ己の慢心が引き起こしたことだった。


 ──享年二十四歳。法名を天徳院。同年、高野山に菩提寺の天徳院が建立された。

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