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第三章 局 (三)

 御前さまのお肥立ちは、どうやらあまりよろしくないとの由。

 そう言いだしたのは、康玄だった。

 利光は政務の手を止め、めずらしくそんなことを口にした康玄をふりかえった。

「──だれから聞いた?」

 詰問されて、康玄は頭を垂れた。

「もっぱらのうわさにございますれば……」

「では、おまえまでもが、そのような出まかせを口にしないようにしろ」

「……は」

 利光は苛立ちを隠そうともせずに康玄を追いはらい、ひたすらに帳面をあらためていく。

 租税のために役人によってつけられた帳面は、その上役が確認する。だが、利光は確認済みのものをわざわざ取りよせ、自分の目でも読みこんでみていた。

 藩主になってこのかた、利光はずっと検地のしかたや、年貢米の徴収方法について改革すべきと考えていた。特に、田畑の境目を明確にすることは重要な課題である。これにより、争いも少なくなる。ひとまずは新田開発を禁じ、現時点での状況を確認する必要がある。

 また、徴収できる年貢米の量がその年の豊凶に左右される検見(けみ)法は、毎年人員を割かねばならず、非効率に過ぎると感じていた。これを廃止し、一定率の年貢を納めさせる定免(じょうめん)法への移行も検討せねばならない。それに、いくら加賀藩が豊かだとは言え、その土地その土地で、米の収穫量は大いに異なる。これを藩士に分け与えるとすると、それぞれの石高の確認は怠れない。

 実のところ、このあたりに手間取って大坂戦役の賞封はまだ無い。武功を上げた藩士の不満が爆発する前に、ケリをつけたい案件である。

 そう、利光は日々、忙しかった。寝る間も惜しんで、重臣たちと今後のために討議を重ねることもあった。

 むろん、珠姫のことは気になるが、乳母の局にまかせておけば平気だと高をくくっている部分が、なきにしもあらずだった。これまでも実際、そうであったのだ。

 ──いや、待て。

 利光は帳面を見ながら、頭の片隅で考える。これまで珠姫は八人も子を産んだが、乳母の局が珠姫の肥立ちが悪いと言いだしたのは、今回がはじめてだ。

 これは、おかしい。

 利光は帳面から顔をあげた。

 ──今晩あたり、ようすを見に行こう。

 ひとりうなずいて、利光の意識はまた、仕事に没頭していった。


 利光が見るかぎりでは、珠姫はさほど体調が優れないようすではなかった。

 珠姫自身、もう平気だと言うので、うやむやのままに一夜をともにした。確かに珠姫のいうとおり、からだはほとんど癒えているように見受けられた。

 それでも、念のためと、利光は朝になり、床を出るときになって言い添えた。

「珠。無理だけはするな」

「──はい」

 だいじょうぶだという含みを持って微笑む妻の頬に、利光はくちびるをよせる。

「俺はしばらく政務で忙しくすると思う。それでも、暇を見て来るつもりだ。何か不調や不具合があったら、かならず局どのに伝えて、薬師を呼ぶように」

「わかっておりますわ、殿」

 これにも笑顔でうなずく珠姫のようすに安堵して、利光はもう一度妻に口づけて、身支度を調え、部屋を後にした。


 利光が立ち去ってすぐあとのことだった。

 乳母の局は袴の裾を蹴捌き、足音も荒らかに部屋に入ってきた。

 珠姫はまだ床のなかだった。局の姿を見て、あわてて肌を隠すと、局は側までやってくるや、居丈高な調子で珠姫を叱った。

「まったく、まだ体調も戻りませんのに!」

 これには、珠姫もたじたじだった。利光には「だいじょうぶだ」と言ったものの、確かに腰のあたりに鈍痛は残っているし、からだは少しだるかった。言いかえせないでいると、局は腰に手を当て、さらに言った。

「筑前どのは、ほんとうに配慮が足りませぬ。御前さまも、ご自分できちんと仰せになればよろしいのでございます」

「局、それは言い過ぎよ。わたくしたちは夫婦だわ。……こうしたことは、妻のつとめでしょうに」

 はっきりと口にするのも恥じ入って、控えめな口調ながらもたしなめるが、局は珠姫のことばには聞く耳を持たなかった。

「筑前どのはご家来でございますのに、夫婦だなどと! 御前さまは何をそんなに楽しそうになさいますか!」

「局! 殿はわたくしの家来などではありません。控えなさい」

 きっちりと言うべきことは言ったが、珠姫とて、局の剣幕には押され気味だった。それを見抜いているのだろう。局は紅の引かれたくちびるをニィとたわめ、艶然と笑った。

「あら、まぁ。いやでございますわ、御前さま。何をお心得違いなさっていらっしゃいますの? 将軍さまのご家来でございますわ。筑前どのも奥女中たちも、……わたくしも」

 冷ややかな局の声音に、背筋がゾッとする。

 面とむかって言われたことの意味を理解する間もなく、局は手を高らかに打ち鳴らし、隣室へ朝餉の準備をととのえさせていく。

 にわかに日常に引き戻され、周囲の流れに巻きこまれながら、珠姫は恐怖に高鳴る胸を押さえた。

 ──局は、お父さまの家来? それって、どういう意味?

 ひとつだけ、なんとなく悟ったことがあった。局はもう、珠姫の味方ではないらしい。それだけのことが、深く胸に刺さっていた。

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