第三章 局 (二)
元和八年三月三日、五女、夏姫が産まれた。
夏姫の産声は弱々しかった。産湯を使わされ、身を清められてもなお、隣室にも聞こえぬほどの寝ぼけたようなか細い泣き声しか上げられない子だった。
珠姫は産着の一件を思いだし、ぞっとした。お産の終わるいまのいままで、ちらとも信じていなかったというのに、いまとなっては例の件を口に出すと、真実になりそうで恐ろしかった。そしてそれはおそらく、乳母の局も同じこころもちだったことであろう。
よろこばしいことだというのに、珠姫の顔色が優れないのを見て、産婆は医師を手配するように局に願い出た。お産で血を失いすぎたかもしれない。そう考えてのことだ。
いろいろの処置を終え、七日経ち、姫君が名付けられると、ようやく続々と祝いの品が届きはじめた。
そのうちのひとつとして、利光が携えてきたのは、山桜のひと枝だった。ほかの出産祝いに比べれば格段に質素だが、その枝をひとめ見ただけで、珠姫はそれがどこからの品かを悟った。
利光は床のなかで身を起こした珠姫の膝へと枝を置き、珠姫が尋ねるより先にそれを明かした。
「重政の屋敷へ行ってきた。卯辰山の見事な山桜が見えたので、ひと枝折りとってきた」
利光からの花を受けとるのは、もう十年ぶりのことだった。珠姫はやわらかな山桜の花弁に指をふれた。
懐かしくてたまらなかった。
珠姫にとって、重政の名は、屋敷と強く結びついたものだ。そして、富田邸やその庭からの景観は、利光との大切な思い出として、しっかりとこころに刻まれていた。
「治部左衛門どのは、御息災でございましたか?」
最後に会ったのは、幼いころにやはり桜を見に行ったときか。文のやりとりだって、あの戦役の際の一度きりだ。大坂の陣では数多の首級をあげ、武功を立てたとは聞いたが、顔を見る機会も話す機会もなかった。
そう思って、つい尋ねたが、これは側にいた局には予想外のことであったらしい。
あたりまえだ。金沢に来てから一度も城の外へは出たことのないはずの珠姫が、顔も知らぬはずの家臣のだれかのようすを問うのである。新丸御殿は、利光以外の男子禁制。では、いつどこで出会ったというのだろう。
局の視線が横顔に注がれたのを知り、珠姫は自分がうっかりと秘密を口にしてしまったことを悟った。どうすべきかと、助けを求めて利光を見遣る。しかし利光に困った風はなく、いかにも愉快そうだった。
「もう、子どもではないのだ。局どのに叱られることもあるまい。──局どの、俺から言おう。昔、子どもの時分に、珠と富田邸へ赴いたことがある」
あっさりと秘密を明かして、利光は泰然として、乳母の局の反応を見ている。局は目を大きく見開いて、何も言えぬようすだった。
機転の利く局らしくもないそぶりだった。
利光もそのあたりをおかしく感じたようだったが、そのまま笑い話として先を続けた。
「生まれてはじめて馬に乗ったらしくて、珠は大泣きしてなぁ。あれには弱った」
「わたくしを支える殿の手が幾度もつるんっと滑ったではありませんか。わたくし、もう、怖くて怖くて」
「そう言うな。……それでな、局どの。珠が重政へ取りなしてくれたおかげで、俺は隠れて『名人越後』に剣の手ほどきを受けることができた。表向きは珠のために楓やら寒椿やらを受けとり、裏では毎日のように稽古三昧だったのだ」
利光はいかに珠姫がすばらしいかと褒めるような流れに持って行き、局の機嫌をうかがっている。しかしながら、局は大きな衝撃を受けたままで、ろくに返答もできないありさまだった。
しつけに厳しい乳母どのにお聞かせするには、これは少々刺激が強すぎたらしい。
利光がちろりと舌先をのぞかせ、珠姫にむかっておどけてみせる。珠姫がくすりと笑ったのを聞きつけて、局が心外そうな顔で珠姫を見た。それから、ぐっとこらえるような顔をして、用向きを思いだしたと理由をつけて、そそくさと席を立っていった。
「……さすがに悪いことをしたか」
あとで詫びの菓子でも届けさせよう。肩をすくめてつぶやくと、利光は夏姫を呼びよせた。乳母に抱かれてやってきた夏姫は、いままでの子のなかでもとりわけ小柄だった。利光はほかの子にしたように抱いてやるつもりだったようだが、夏姫の姿をひとめ見て、これは……と思ったらしかった。
「俺の力では、あばらが折れてしまいそうだな。よしておこう」
そう言って、しばらく眺めるだけにして、すぐに夏姫をさがらせた。そのあと、珠姫にむきなおった。
「夏は、産声をあげなかったと聞いた」
単刀直入に言われて、珠姫は事実とは異なるがどう告げたものかと、少し悩んだ。
「産声はあげましたが、弱々しくて。もしかしたら──」
小媛と同じようになるかもしれない。
三男五女を産んだ母親のカンだった。己の願いや祈りを裏切って、直感が告げている。夏姫は、育たない。
みなまで言わなかったが、利光は察したようだった。同じことを考えていたのだろう。うなずいて、軽く眉を寄せ、目を伏せがちにした。
「気に病むことはない。神仏がたいそう可愛がって、手放したがらぬ子はあるものだ」
そういう子はいずれ、成人するまでのあいだには、天上へ還っていく。
「……はい」
育たぬ子よりも、育つ子に目をかけなければならない。珠姫には他に六人の子がある。その子らを丈夫に育てあげるのが肝要なのだ。なかでも継嗣の犬千代が健康であるのが、何よりの救いだった。
「いまは、ゆっくりと己のからだを休めろ。お産で流れすぎた血は、すぐには元には戻らぬだろう」
医師が呼ばれたことについて言及されて、珠姫はちくり、と、胸の奥が痛むのを感じた。
あのとき自分の顔色が悪かったのは、おそらく出血過多のせいではない。
──わたくしが産着を縫ったから……?
信じていない。信じない。けれど、現実に夏姫は。頭のなかがぐるぐると乱れる。
利光は、珠姫がふいに黙りこんだのを見て、疲れていると思ったらしい。無理やり床へと寝かしつけると、また来ると言い残し、部屋を出て行った。
ひとりになると、自責の念がこころを蝕む。
──わたくしが、いけなかったのだろうか。
珠姫は両手で顔を覆った。目元を隠す手から逃れて一筋、涙が耳元へと伝った。




