第一章 楓 (二)
婚礼のあとで、はじめて珠姫が利光に出会ったのは、十月も半ばのことだ。
その日は、雨だった。
雨では、表へ出て毬つきも独楽もできない。庭先に芸人や楽人を呼んで、舞わせることもできないではないか。
すっかりとふてくされた珠姫をあやそうと、乳母の局が奥から出してきたのは、嫁入り道具の対の貝桶だった。漆塗りに蒔絵が施された八角の貝桶には、裏に大和絵の描かれたはまぐりが収められていた。
珠姫は目を輝かせた。大和絵の題材は源氏物語だ。局に教えられて、筋は知っている。珠姫のこぶしほどの貝殻に描かれたうつくしい絵柄にじいっと見入っていると、挑発するように局が笑った。
「貝合わせは、まだ御前さまには難しうございましょうか?」
「難しくなどない! ただちに支度をせよ」
ほんとうは、遊びかたすら知らなかった。
むきになって言った珠姫に、してやったりと微笑んで、局は奥女中に声をかけ、ひとを呼びにやらせた。そうして、奥女中の人数が集まるまでのあいだにと、珠姫のそばでやさしくささやいた。
「よろしうございますか、御前さま。貝合わせは、対の貝を探す遊びにてございます。こちらが『地貝』の貝桶。地貝は絵の見えぬように円に並べます。内より九重に十二枚、十九枚、二十六枚、三十三枚、四十枚、四十七枚、五十四枚、六十一枚、六十八枚と、七枚ずつ数を増やします。こちらの『出貝』の貝桶より、円の中央に置いた出貝とぴったりと合う地貝を探しだし、正しく合わせた数を競うのでございます」
「いずれの貝も同じではないのか?」
ふしぎそうに尋ねた珠姫に、局は両方の貝桶からひとつずつ貝を取ってよこした。
「合わせてごらんなさいませ」
一見、かんたんに合いそうなものだったが、実際に重ねてみると、これがまたおかしいほど噛みあわない。
珠姫の手元を見て、局は艶然と笑みながら言った。
「はまぐりは、対の貝同士でなければ合いません。夫婦も同じもの。うまく合わなければ、世は回りませぬ。はまぐりのようによく添い遂げることを願い、貝桶は嫁入り道具のひとつとされているのでございますよ」
御前さまには、よいお勉強になりましたね。
少し不敬なくらいの口調で言って、乳母の局はそろいはじめた奥女中に命じて、地貝を立てさせた。十以上も奥女中が集まっているのだから、早い早い。畳に毛氈を広げるや、三百六十枚もある貝殻は、見る間に九重のきれいな円を描いていた。
「わたくしが手本を見せます。貝合わせを知らぬ者は、よく見ておきなさい」
乳母の局はひとりの奥女中に出貝をださせ、己は九重のなかからひとつの地貝を選びだした。そうして、伏せたまま出貝の隣に並べたあと、ふたつを合わせてみせた。
珠姫も、奥女中たちも首をのばして、息をのんで見つめる。局は気負うようすもなく、にこやかに告げた。
「──合いました。この図は、竹河、でございましょうか」
局がぱっと裏返した貝には、華やかな絵柄があった。それを見て、年かさの女中が恐れ入ったように声をもらした。
「……お、お見事にございます」
奥女中たちのどよめきを聞いて、珠姫は乳母の局がたいそう難しいことをあっさりとやってのけたのだと理解した。
「局、局っ! わたくしも!」
対抗心を燃やして、珠姫が声をあげる。奥女中が取りだした出貝をにらんで、地貝をむんずとつかみよせる。
「これ!」
打掛の袖や裾にふれて動いてしまった地貝を、女中たちがそっと直す。局はにっこりと笑み、貝を合わせてみるようにうながした。珠姫は局が先ほど見せたように、貝を合わせようとして、首をかしげた。
「……あら?」
合わない。何度やってみても、貝は合わなかった。局と同じようにはいかなかったのだ。
しょげかえった珠姫を慰めて、局は珠姫が取りあげた地貝を元に戻した。隣の女中から順繰りに挑むように声をかけると、珠姫の隣に片立て膝で腰を落とした。
「御前さま、お気を落とされますな。数をあてることより、描かれた絵柄を楽しみ、何の図案かを解することに専念なさいませ。そのうちに、かならず上達なさいます。お気に召したものがあれば、のちほど物語など、読み聞かせてさしあげましょう」
「まことか? なれば、励むとしよう!」
珠姫は真剣に地貝にむきあった。奥女中たちに混じって、ああでもないこうでもないとはしゃぎあい、一巡を終える。乳母の局は、はじめの一度だけ参加したのみで、あとは珠姫への助言に徹していた。最初のうちは、なかなか手元がおぼつかなかった若い奥女中たちも、慣れが出てくる。二度目に地貝を立てるときには、手際が段違いによくなっていた。
楽しくうち騒いでいたときだ。むこうから廊下を渡ってくる足音が聞こえてきた。いちばんにそれに気づいたのは、乳母の局だった。
つい、と、静かな所作で局がふりかえる。局の動きにつられて、珠姫がそちらを見遣った。珠姫の視線をたどって、奥女中たちがちらほらと目をむける。
男児がいた。利発そうな目をしている。戸口に手をかけ、興味深そうにこちらをのぞきこんでいる。
珠姫の住まう新丸に上がることが許されている男は、藩主利長とその養子の利光のみである。珠姫は一度会ったはずの利光の顔などすっかり忘れ去っていた。しかし、この男児はまぎれもなく珠姫の夫、利光なのだった。
齢八つの次期藩主は、年のわりに大柄な体躯をしていた。からだつきだけ見れば、まるで青年のようだったが、元服こそしているとはいえ、そこはいまだ十にも届かぬ男児のこと。顔立ちばかりはごまかしようもなく幼かった。成人として肩衣をつけているせいで、どこかちぐはぐな印象が否めなかった。
「まあ……、筑前守さま」
居住まいを正した局に倣って、奥女中たちがあわててうしろに下がり、頭を垂れる。地貝のそばに残ったのは、珠姫だけだった。
利光は奥女中たちの動きをうるさそうにして、珠姫をじっと見下ろした。
「──これは?」
「貝合わせじゃ」
ふむ。利光は珠姫の対面に陣取ると、あぐらをかいてどっかと腰をおろした。そうして、ぐっとこちらへ身を乗りだす。手順を教えろと言わんばかりの態度に、珠姫が得意げに胸をはった。
「よろしいか、筑前どの」
利光に呼びかけるや、奥女中に目配せをする。勘の悪い奥女中に、乳母の局が声をかけ、出貝を取りださせる。
珠姫は流れるような所作で、地貝のひとつを選びとろうとした。珠姫が取ろうとした地貝とは別の貝を、先回りして利光がつかんだ。
「やりかたはわかる。俺に引かせてくれ」
当然、珠姫はあからさまに顔をしかめた。それを、脇から小声で局がたしなめる。
「妻は夫に従うものでございますよ」
「さはあれども……」
不満げにくちびるを尖らせたが、珠姫は局に対しては素直だった。すっと手を引いて、利光に譲った。利光はさんざん迷うそぶりをしたあと、珠姫が取ろうとしていた地貝をつまみよせ、出貝と合わせた。
「おや、どうやら仕損じてしまったな」
利光は大袈裟な身振りで恥じ入って、奥女中たちにむけて頭をかいてみせた。次期藩主のおどけたそぶりに、はたして自分たちが笑っていいものかと、女中たちは局の顔をしきりとうかがう。
利光のようすを見て、珠姫は目を見開いていた。
「……!」
自分も乳母の局を見上げる。局は、淡い笑みをもらした。
「御前さま、ごらんくださりませ。出貝は『若紫』の垣間見でございます。地貝は」
局のことばの途中で、利光が珠姫にむけて両方の貝を裏返して見せた。自分でも手元を見て言う。
「男がふたり舞っているな」
「『紅葉賀』! 知っているぞ」
珠姫が声をあげた。ほう、と、利光が興味を惹かれたような顔をした。
「こっちが源氏で、こっちが頭中将」
「つい先日、青海波をご覧遊ばしたおりに、お教えしたものでございますから」
局が少し言い訳がましく言い添える。青海波は、『紅葉賀』で描かれる雅楽の演目である。この優美な二人舞をたいそう気に入った珠姫は、部屋のなかで袖を振りまわして真似をして踊り、局に何度も叱られたのだが、そのことはすっかりと頭から消えてしまっているらしかった。ただただ、知っているものに出会って、うれしそうにしている。ややもすれば、青海波もどきを踊りだしかねない珠姫のようすに、局はやきもきしたようだった。
「さ、次は何が出てまいりましょうか」
そそくさとふたりをうながして、貝合わせに意識を戻させる。奥女中に目配せすると、利光は事情を察したか、おとなしく地貝を戻した。その隣で、珠姫もつられて、『いいこ』に座りなおす。
大柄な利光と小さな珠姫が隣りあって並ぶ。己の番が来るたび、珠姫のふっくらとした手が地貝に伸びる。引き間違っては、利光へ絵図を見せてよこす。利光はと言えば、初心者とも思えぬ慧眼で、二度目以降はすべてを引き当てている。当の珠姫は、そのことに気がつくようすはない。
手元の貝をのぞきこみ、額をつきあわせて笑いあうふたりの睦まじくもかわいらしい情景に、乳母の局のみならず、奥女中たちもみな、幼い夫婦の行く末に明るいものを感じていた。