第二章 戦 (六)
利光が新丸御殿を訪れたのは、十一日の夜半であった。
会えないかもしれないと思いつめていただけに、珠姫の思いはひとしおだった。
「お帰りなさいませ」
深々と頭をたれた珠姫を見て、利光はすぐに床に膝をつき、その肩を抱いた。
「……待たせたな」
「いいえ。お忙しいところ、お運びいただけただけで、珠はうれしうございます」
ほんとうだった。涙があふれた。ぎゅっとすがりついて、珠姫は必死に嗚咽をこらえた。 頭を、背を撫でて、利光は苦しげに言った。
「あと二日、三日だ。その後には、大坂へ発つ。また、城を頼む」
声に出さずにうなずいて、珠姫は涙をぬぐい、ふところに手を入れた。
「これを」
取りだしたのは、一通の文だった。
利光は面食らったようすながら、文を受けとり、開いてなかに目を走らせた。そうして、瞠目する。利光のことばを待たずに、珠姫は告げた。
「このかたならば、かならず殿を御守りくださるはず」
『──人生五十年と申しますれば、この重政、もはや余生にある身でござります。此度は、御前さま直々のお声がけとあらば、身を賭して参上仕らん』
その文は、富田治部左衛門重政からの返信だった。
珠姫は、隠れて利光の剣術指南をしていた重政のことを思いだして、昨日のうちに出陣を要請する文を送ったのだ。
妻からの命令では、武将のひとりも動かせないかもしれない。第一、重政は豊臣派の家臣のひとりだ。そのために、親徳川に傾いた藩政からは退いた人物だった。
勝ち目のない賭だった。だが、その賭に、珠姫は見事、勝ってみせたのである。
利光は驚きを隠せないようすだった。
「そうか、重政が……!」
これは、一宮の勝守りよりも、滋養のある食べものよりも、何より心強い贈り物だった。
「──そうか、そうか!」
つぶやきをくりかえしながら、利光は珠姫のからだをぐっと抱きよせた。
「珠は、ほんとうに思いがけないことばかりするのだな」
耳元でそうささやく声は、ふるえていた。
──ありがたい。
そのことばが聞けただけで、珠姫はもう何もいらないとさえ思えた。自身もまた涙ぐみそうになりながら、もう一度身を引き、利光に頭をさげる。
「どうか、ご出陣の前に、亀鶴の顔だけでも見てやってくださりませ」
「わかった、かならず行こう。……珠、頼むから、そのように他人行儀にならないでくれ。今宵ばかりは、昔のように」
ことばどおりに、ふたり、子どものように抱きあって眠った。夫婦のやりとりよりも、いっそう深くこころが繋がるような気がして、珠姫は涙をにじませながら、何度も利光の胸に頬を寄せ、その熱を肌で確かめていた。
十四日早朝、独り寝の珠姫がまんじりともせずに迎えた夜明け、利光は大坂に向け、出立した。
駿府や江戸に送りだすときとはわけが違う。もう、帰ってこないかもしれない。そう考えては恐ろしくなったが、珠姫はそのような悪いことはゆめゆめ口に出すまいと、己を強く律した。ことばにしたら、現実になってしまうような気がして怖かった。
これで、利光と珠姫のあいだに男児のひとりもあれば、話は違っただろう。けれども、ふたりの子は亀鶴姫ひとりきり。跡継ぎのないまま、もしも利光が落命すれば、珠姫は金沢に居続けることなどできようはずもなかった。新しく利家の子のだれかが城主として呼ばれ、珠姫自身はいさぎよくその場で仏門に入るか、それともなければ、一度江戸に呼びもどされるだろう。そうして、江戸にも骨を埋めることはできずに、新たな嫁ぎ先を世話されるのだ。
──嫌。殿でなければ、ぜったいに嫌。
自分を『珠』と呼んで慈しんでくれるのは、たぶんこの世で利光ひとりだろう。将軍からの大切な預かりものではなく、己の宝として愛しんでくれるのは、きっと利光だけだ。
珠姫は寝間着のままで障子戸を開けて、外の音に耳を澄ませた。馬のいななきも、出発の合図に打ち鳴らされた陣太鼓も、ひとびとの声も、もうはっきりとは聞きとれない。かろうじて聞こえていたざわめきが遠ざかっていた。ふだんどおりの朝の静寂が、ひたりひたりと戻ってきている。
障子戸のそばに膝をつき、必死に利光の一団の音を拾おうとして、かなわないと知り、珠姫は腰を落とした。
──わたくし、ずっと金沢にいたい。
あなたの、側に。
利光の側にいる未来しか、思い描いたことがなかった。戦なんて、もう無いのだと思っていた。
──兄さま、言ったわ。お祖父さまの理想がかなえば、平和な世になるのだって。でも、大坂の戦はお祖父さまが起こすのよ。世を平和にするために、なぜ、戦が必要なの?
珠姫は薄くくちびるを開いた。吐息がもれ、頬を落涙が伝った。
大切なものを奪うのは、また祖父なのだ。
珠姫の手の届かないところで、世のなかを穏やかにするために、祖父はただ指図する。父母から引きはなされてこの地に来た孫娘が、ここで大切なものを築き上げたのだから、放っておいてくれればいいのに。今度は利光を奪うのか、その次は亀鶴姫か、それとも乳母の局か──?
ふぁさ……
へたりこんでいた珠姫の肩に、あたたかな重みがかかった。目の前に、雪よりも白い素足が見える。足のぬしは珠姫の前に屈みこみ、着せかけた夜具を胸の前で合わせた。
「腹に次の御子があるやも。女はいつ何時たりとも、からだを冷やしてはなりませぬ」
厳しいことばを投げかけた相手は、しかし、珠姫と同じように泣き濡れた顔をしていた。それを見とがめられたとでも思ったのだろう。乳母の局は泣き笑った。
「かようにお泣きにならないでくださいませ。もらい泣きをしてしまうではありませぬか」
さ、火鉢に炭を足しましょう。
言って、珠姫を奥へうながし、局はきっちりと障子戸を閉め、火鉢の用意を調える。身を離してみてはじめて、珠姫は気がついた。今朝の局はいつもどおりの袿姿ではなく、まだ寝間着のままで、化粧や整髪などの身だしなみもしていなかった。
──飛んで、きてくれたの?
いや、違う。半分は正解で、半分は誤りだ。
局は、ふだんは城下に構えた屋敷から通っているはずである。きっと、利光の出陣に、主が動揺してしまうことを見越していたのだ。心配して、屋敷には戻らず、珠姫の寝間近くの部屋に控えていたに違いない。
また、じんわりと目の奥が潤むのを、珠姫は感じた。
「……局、局っ!」
幼子のように腕を広げて、抱いてくれとせがむと、局は手を止めてうなずき、駆けよってきた。
胸に抱きしめられて、珠姫は泣いた。隣の間に聞こえるほど声をあげて、みっともないくらいに嗚咽した。
「まぁ、御前さま。……ご安心召されませ。筑前守さまはきっと御無事で、この城へお戻りになりますよ」
落ち着いた声音を耳にし、背中をぽんぽんとさすられて、珠姫は安堵で乱れていた息が整っていく。じきに嗚咽が止まり、あふれていた涙も止んだ。
局のてのひらはあたたかい。だんだんと押しよせてくる眠気の波にのまれて、いつしか珠姫は、ふっと深い眠りの底へ落ちていた。