第二章 戦 (五)
──明日、そちらにつく。
先触れとして馬を駆ってきた従者が新丸御殿に届けた結び文には、そう書かれていた。署名もないような、短くそっけない文章だったが、珠姫はその文を大事にたたみなおして、ふところへとしまいこんだ。
利光の手蹟は世の評判とは異なり、繊細な人柄がうかがいしれるものだ。何かというと豪胆なふるまいをするらしい夫の話を耳にするだに、珠姫は目の前の男がほんとうはだれであるのかと、ふしぎになることが多い。珠姫の目に映る利光は、文字に出ているとおりの細やかな気遣いのある男だ。
結び文をしまったふところを、うえからそっとてのひらで押さえる。そのあたたかさに知らず微笑んで、珠姫は庭のようすに目をあてた。
庭には、ひと株の細い楓がある。利光が植えさせたものだ。楓は毎年枝を強くし、葉の数も増えてきた。まだ紅葉の時期には早いが、しばらくすれば、鮮やかに色づくだろう。
ゆったりと構えていたところへ、さやさやと衣擦れの音が聞こえてきた。珠姫はそちらに目をやって、音を立てた主を出迎えた。
乳母の局はていねいな礼をして部屋に入ってくると、端近のあたりで座りこんだ。上座の珠姫にむかって頭を下げる。いつもどおりの所作に安堵して、わかっていながらも、珠姫は局に声をかけた。
「亀鶴はどんなようす?」
「外遊びが過ぎたのでございましょう。お熱はありますが、養生すれば治ります」
亀鶴姫が今朝から熱を出したと聞いて、局にようすを見に行かせたのだ。珠姫が直接、赴いてもよいが、それでは周囲の女中や亀鶴姫の乳母が萎縮してしまう。何より、姫自身がはしゃぎだして、養生どころではないだろう。幼子は、寝かしつけるのだって厄介なのだ。よほどの状況でなければ、乳母に任せ、自分は顔を見せぬほうがよい。そのことを、珠姫はこの一年で学習した。泰然とした面持ちは、すっかりと母のものである。
局は珠姫が安心したのがわかったのか、自身も微笑み、それから、話題を変えた。
「御前さま、お伝えしたき儀がございます」
局のあらたまった調子に、珠姫も居住まいを正した。
「……なぁに?」
問いかけると、局は固い声で告げた。
「筑前守さまに、大坂へむかうようにとの命令があったようにございます。たったいま、城に伝令が参りました」
「大坂へ?」
いったい、何の用だろう。状況がよくわからずに首をかしげた珠姫に、局はいったん息をつき、細かく説明を施した。
「ご出陣でございます。敵は大坂城、豊臣の城。大御所さまが動かれたものと思われます。明日、筑前守さまは戻られますが、じきに兵を率いて、今度は大坂へむかわれます」
「豊臣……? 出陣って」
珠姫が状況をつかみはじめる。局は険しい表情ながら、うなずいた。
「戦にございます」
ごくり、と、珠姫は喉を鳴らした。
恐れていたことが、いままさに起きようとしている。豊臣がどうで、徳川がどうで、という政治のやりとりは、珠姫にはよくわからない。時折、自分から尋ねれば、利光がかんたんに教えてくれるくらいのものだ。いまの珠姫の知識では、詳細はつかみきれなかった。
──局なら、あるいは。
珠姫は乳母の局に目をむけた。
「局、どうしてお祖父さまはこんなにも豊臣を敵視なさるの」
これを聞かれて、局はぴたりと口を閉ざした。これまでの厳しい表情は剥がれ落ち、やわらかな笑みに取ってかわる。
「御前さまは、ご存じなくてよろしいことでございますわ。荒事は殿方におまかせになればよいのでございます」
自分は知っている。だが、決して珠姫には教えまい。口調と微笑みとで、きっぱりとはねつけられて、珠姫は歯ぎしりしたいようなもどかしい気持ちになった。
──殿なら、きっと教えてくださるのに。局はなんて意地の悪いこと。
こちらの胸中がわかっているだろうに、局はにこにことするばかりだ。その顔に張りついたような笑みにいらだって、珠姫は追いはらうように局に用を命じた。
「殿の御ために、何か滋養のつくものを集めさせて、本丸へ届けなさい!」
「……かしこまりました」
不満もみせずに退出していく局の背をにらんで、珠姫は片膝を抱えて、どうしたものかと考えこんだ。
明日、金沢に戻ると言っても、兵を招集し、支度させ、統率をはかるだけで日が過ぎるに違いない。果たして、新丸御殿に立ちよるほどの隙があるだろうか。
一度も顔を合わせさずに、戦地に送りだすことになるやもしれない。そう思うと、珠姫は不安でたまらなくなった。
何か、できることはないだろうか。
いまから能登の一宮へでもひとをやって、御札や御守りをいただいてこさせようか。
さまざまに考えた末、珠姫はある人物にむけて文を送るべく、おもむろに筆を執った。