第二章 戦 (四)
慶長十八年を迎え、この年、利光は二十歳、珠姫は十五歳となった。
同年三月九日、珠姫は初産を無事に終え、母となった。継嗣をと望む周囲の期待をよそに、産まれたのは玉のような姫であった。
大仕事を成し遂げた珠姫をねぎらって、利光は舅の秀忠に出産を伝える使いを出した。近いうちに駿府の家康にも祝いの品を届け、江戸にも赴くことになるだろうと思われた。
亀鶴と名付けられたこの姫の誕生を、利光の次によろこんだのは、義理の祖父にあたる利長だった。利長は、産まれたばかりの亀鶴姫のようすが気になってしかたがないようすで、日をおかずに短い文をよこすほどだった。目に入れても痛くないとは、このことを言うのだろう。それほどの可愛がりようだった。
さすがに外では口にも出さなかったが、珠姫も利光も、利長の溺愛ぶりを目にして、「はじめに産まれたのが姫でよかった」と胸を撫でおろす思いだった。家の建前としては男児を切望されていたのがわかっていただけに、特に珠姫はその思いが強かった。
利長が亀鶴姫に亡き愛娘を重ねているのは明らかではあったが、明日ともしれない病状を思うだに、実際の血縁としては姪にあたる姫を可愛がる姿には、涙を誘われるのだった。
若さゆえか肥立ちもよく、珠姫はすぐに亀鶴姫の相手がつとまるようになった。大姑である江戸の芳春院や、利長の正室、高岡の玉泉院からも、折に触れ、さまざまに育児に関する指図が届いた。それらの対処は乳母の局に一任して、珠姫は娘の機嫌に一喜一憂しながらも、こころ安らかに過ごしていた。
利光は五月ごろまで駿府へ江戸へと忙しく動き、なかなか金沢に戻ることがなかったが、亀鶴姫がそばにあれば、珠姫のこころ細さはさほどでもなかった。
日々は、あっという間に過ぎていった。
翌年の夏半ば、亀鶴姫が歩きはじめたころだ。利長が息を引き取った。享年五十三歳。五月二十日のことだった。
訃報を受けとったとき、利光は新丸御殿で珠姫と亀鶴姫とともにあった。
──そうか、ついに。
この二、三年、いつ起こってもおかしくない事態だと、身構えていた。それでだろうか、利光は思うより取り乱さずに済んだ。しかしながら、女人のこころは覚悟を決めていた利光のものよりも、格段にやわだった。
目の前で、珠姫の顔がみるみるうちに白くなっていく。血の気の失せた顔を両手で覆い、面を伏せがちにした母を、亀鶴姫が心配そうに、けれども無遠慮なしぐさでのぞきこんだ。
「かっか?」
亀鶴姫は母を見上げ、両手でその頬にふれようと腕をのばした。母さま、どうしたの? と、身振りで話しかけて、それから、反応がないのをいぶかしみ、こちらをふりかえる。
「かっか!」
珠姫を指さして訴えて、とことことやってくるや、今度は父に抱きつこうとする。
「亀鶴。母さまをそっとしておいてやれ」
たしなめながら、利光は亀鶴姫の要望に応えて、小さな身体を高く抱きあげた。場違いな歓声をあげて満面の笑みを浮かべる娘に、ほおずりをしてみてはじめて、利光は己の頬も濡れていたことを知った。
利長の逝去は江戸にも伝えられ、六月には、その母、芳春院が金沢へと帰郷する手はずがととのえられた。前藩主の亡きあと、芳春院が人質では、血のつながりのない利光に対する抑止力は、うまく働かない。そのため、芳春院とは交代で、利光の生母、寿福院が証人として選ばれ、江戸へと旅立つこととなっていた。
六月以降は、利光にとって、近年まれにみる忙しさが続いた。
利長は数年前に死後の方針を立てていた。利光は申しおかれていたその遺命に従って、覚え書きを家臣らに与えた。加賀にある多くの家臣らは、利家や利長のころより仕えていた者たちだ。一枚岩とは言えないが、前田家への忠誠はあつい。それゆえ、もっともこころを砕いたのは、本多安房守政重の処遇であった。
政重はかねてより、利光を経験の浅い子どもと見て、軽んじることが多かった。利長の存命中は、それでも利光の言うことを聞いていたが、前藩主が亡くなったとたんに、てのひらを返したようにあっさりとした対応をとるようになった。
この態度をよく思わない者は多かったが、利光としては、政重は藩政に必要な人材だった。ここで政重に見切りをつけられてしまえば、これからさき、加賀藩の立てなおしには、非常に手間取ることだろう。何しろ、利光はこれまでの前田家の当主とは違い、羽柴家への忠信は示してこなかった。将軍の意向をうかがい、それに従ってきた。政重は、当人の力量もさることながら、父が将軍家の重臣という身なのだ。親豊臣派を抑えるのに、これ以上の人材はない。政重を家老として側近くに置くだけで、藩内に強く広く、利光の意思を示せる格好の存在だった。
考えた末、利光は政重に食禄二万石を与えることとした。正式に加増する前に、内々に話をすると、思ったとおり、政重は現金にもよろこんでみせた。すぐに『利光に忠誠を尽くす』と表明し、誓文をよこした。表向きはこの誓文に応えるようなかたちで加増を行い、利光はさらに、将軍家の老臣への接触をこころみた。
政重の父、本多佐渡守正信や、土井大炊頭利勝に書を送り、政重が加賀に尽くすように言ってくれと、依頼をしたのである。すると、その後、七月に入ってから、利長が申しおきをした前田対馬守長種や、奥村伊予守の子、摂津守、それに政重らは駿府に隠居している前将軍のもとに呼びだされた。
いったい何があることやら皆目わからずに赴いた彼らに、家康は言った。
「筑前守はまだ若い。後ろだてが必要であろう。わしは、おぬしらの働きを頼りにしておるからな」
いまさら豊臣方に寝返る気はなかろうな? と、暗に念押ししたわけである。この行動には、わけがあった。
先年、利光は大野治長なる人物より、「金千両を豊臣秀頼に献上するように」と言われたことがあった。大野は豊臣の家臣であり、秀頼の母、淀君の乳兄弟である。この大野の要請に、しかし、利光はすぐには応えなかった。いかがいたしましょうかと駿府の家康にお伺いをたてた。もちろん、家康がこの要請に応えろと言うはずもない。
秀頼と利光、ともに父同士、秀吉と利家の仲のよさは評判であったし、妻同士も姉妹である。もっと言えば、珠姫と秀頼は母方の従兄弟同士にあたる。珠姫が利光に懇願すれば、どうだろう。いつ手を結んでもおかしくない縁続きである。
それゆえ、利光があらぬ行動を取らぬようによく見張っておけと、こう、家康は言ったのである。もしも、利光に何か不穏な動きのひとつもあれば、家康のこころひとつで加賀は総攻めされるかもしれない。呼びだされた家臣らは、家康のことばを聞いて、そう考えたに違いなかった。
さて、駿府にて、先のような会合がもたれたすぐあとのことである。利光のもとに、秀頼から書状が届いた。密謀に参加せよとの旨がそこにはしたためられていた。ほかでもない将軍に対するはかりごとだ。これについて、内密に周囲の重臣にはかった利光に、参加をと、うながす者などひとりもなかった。
こうして将軍や駿府の力も借りつつ、うまく内なる勢力を押さえこむと、ようやっと、利光は対外的な動きに乗りだした。今度は、外側から、しっかりと己の加賀藩主としての足元を固める番である。
利光は秀頼から届いた書状をふところに潜ませながら、忌み明け後の九月十六日、駿府の家康のもとへむかった。家康と対面し、利長の遺領相続の命を受けると、さっそくその書状を家康に渡した。
「八月に届いた書にございます」
床を滑らすようにさし渡された書を開き、一瞥して、家康は低くうなった。
「そうか、お手前にも来たか」
つぶやいて、家康はそれを破り捨てた。
お手前にも。その含むところは、利光にもすぐにわかった。養父利長のことだ。
三月上旬に大野治長から大坂挙兵に参加せよとの書を受けとったことがあった。もちろん、病床の利長は参加の意を唱えることなどない。そればかりか、加賀藩の実権はもうすでに己にはないことを示すかのように、利長はその三日後には将軍に願いを出し、所領を返上し、京へ移り住む手はずをととのえてしまった。そうして、きっぱりと挙兵しないと内外に示してよこしたのである。
外──その代表格である家康は、千々に破った書をもてあそぶように、てのひらから床へと落とした。
「いま少しだ。時期尚早。だが、かならず正体を現す日が来る。むこうが尻尾をみせたら、そのとたんに図体を叩っ斬って、息の根をとめてやろうものを」
はらり、はらはら……と、紙切れが舞うのを見て、利光はまるで自分がその一切れになったような心地がした。家康のてのひらのうえで、翻弄されて、意のままにも動けなくなるような。
相手が罠にかかるのを待つように、ゆったりと構える家康のようすに、あらためて怖気をおぼえ、利光はてのひらににじんだ汗を幾度もぬぐった。気づかれぬようにと配慮したつもりだったが、利光のしぐさなど、家康にはお見通しだったようだ。
家康は白いものの混じるひげを撫でおろしながら、利光のようすに目を細めた。
「お手前は胆の太いところがあるかと思えば、これしきのことで怯えるか。……大舅を疑うでない。何のために加賀へ孫娘をやったと思うておるのじゃ」
呵々と笑って、家康はふと、面から笑みを消した。
「前田家が豊臣の大老の職にあったのは、肥前どのまで。お手前はわしの孫も同然。孫をいたぶって、よろこぶじじぃはおらぬ」
──それを言うなら、秀頼もお立場は同じだろうに。
利光は即座に反応しそうになった己を押さえて、軽くうなずきを返し、頭をたれた。
九月二十三日、利光は今度は江戸に赴き、将軍より直々に加賀、越中、能登の三州を治めるようにと、朱印状を賜った。
これにて、利光が藩主としての役目を亡き養父より正式なかたちで引き継いだことが、世に広く示されたのである。
九月末。ひととおりの相続に関するやりとりを終え、利光ら一行は江戸を発ち、金沢城への帰途についた。
江戸と金沢とのあいだには、大きな山脈がつらなっている。これを直進する街道はない。金沢へ帰るには、江戸から北上し、北陸の沿岸を南下する道を採るか、東海道を行き、近江から北上する道を採るか、ふたつにひとつだ。どちらにせよ、長い長い旅路である。
利光はもう一月近く会っていない妻や娘のことばかりを思い描いて、気が急いていた。江戸への行きと同じく富士山を見たがる一行をなだめて、北上する道を採った。
こうして、国へ帰ろうと急ぐ一行の背を追ってきたのは、思いがけないものだった。
十月十日。あと一日で金沢に戻れると浮き足立っていた利光のもとにたどりついたのは、将軍からの大坂出師の令であった。