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第二章 戦 (三)

 二か月後、七月初旬のこと。

 連日の暑さにやられたか、秋が訪れたとたん、珠姫が倒れた。金沢は盆地ゆえ、熱がこもりやすい土地だ。夏の暑さは格別で、珠姫も毎年、氷室から大きな氷を取りよせて涼をとり、目を楽しませているほどだ。暦のうえでは秋になったとはいえ、すぐには日差しの強さも引かないものである。

 知らせを聞いたとき、利光は城下にいた。康玄や役人とともに、検地がてら、収穫前の田畑のようすを見に赴いていたが、珠姫の側仕えのひとりがあわてて使いをよこしたため、急ぎ、城へと戻ることとなった。

「珠のようすは?」

 くわしく聞かせろと、道々に質問を投げかけた利光に対して、使いの返答は要領を得ない。聞けば、乳母の局が所用で不在のうちに起きたことであり、奥女中たちは統制がとれずに右往左往しているばかりであったと言う。

「まったく、何のための使いだ! 用向きはきちんと確かめて参れ!」

 頭ごなしに叱り飛ばして、利光はだれより先に馬を走らせた。

 情報が少なすぎた。とにかく体調が悪いことしかわからない。熱を出したか、吐き戻したか、はたまた昏倒したものか。使いが出発した時点では、医師もまだ手配しておらず、ただ珠姫の床が作られただけであったようだ。

 ──手遅れにならなければよいが。

 気ばかり焦る。取り乱した主を気遣ったか、康玄が他の者を遠ざけて、自分の馬だけを利光の馬の側に寄せた。

「……殿」

 呼ばれて、利光は目だけちらりとそちらを見遣った。

「なんだ。急ぎでなければ、あとにしろ」

「……次の御指示を」

「何?」

 主君の正室の一大事より、検地を優先しようと言うのか。いきりたった利光にも動じず、康玄は理路整然と言い放った。

「加賀国を支える実りより、奥方を重んじるのは、君主にあるまじきこと。代行のお役目を、どうか私めに。城には、どうぞ、殿おひとりで」

 代わって検地をするよう指示を出し、康玄をここに残していけと言うのだ。いつになく厳しく諫める調子に、利光は怒鳴ることも忘れて、我が身を省みた。だが、それも一瞬だ。

「よし、頼む」

「……承知いたしました」

 言うなり、康玄は馬の首を返す。見事な手綱さばきで田畑のほうへとってかえしながら、大音声で周囲に指示を出す。

「殿の御下命を賜った! 検地を続けるぞ! 皆の者、戻れ!」

 この声に従って、役人たちの隊列がきびすを返す。利光は、従者らの集団から飛びだすと、使者ひとりを引きつれて、道を急いだ。

 ──ふだんから、康玄のあの大声は出ないものか。ぼそぼそとしゃべりおって。

 こころのなかで呆れながらも、利光は康玄の忠誠に深く感謝した。

 新丸御殿の一部屋に、珠姫の床はあった。ふだんから、珠姫が寝所としている部屋だ。利光が駆けつけたころには、御殿の騒動はすっかりと収まっていた。

 頬を赤く染めなして、珠姫がうつろな目で利光を見上げる。床のなかから動くこともかなわぬようすだった。

「発熱か?」

 床のかたわらにある乳母の局の背に問いかけると、局は肩越しにふりかえった。「まあ、筑前守さま……」と、局は微笑み、ふだんと変わらぬ礼をしてみせた。主が倒れたというのに、動揺は衣の裾にも見せずに、端然としているようすに、いささか腹が立った。

「何をのんきに笑っておるのだ。薬師(くすし)はどこにいる。もう、呼びにやったのだろうな?」

 利光の詰問にも局は笑みを絶やさず、珠姫をそっと目で示した。

「さように取り乱されますな。御前さまには大事ございませぬ」

「それが答えか。薬師はどこだと聞いておるのだ!」

 いらだって声を荒げた利光を、珠姫が床から手をのばして押さえようとする。それを見て、あわてて床へ近づき、珠姫の手を両手で取った利光に、局は脇から小声で言った。

「発熱と、少々の吐き気がございます。けれど、薬師は必要ございませぬ」

「何を根拠に申しておるのだ。局どのは、いったいいつから薬師になった」

 おまえは医者ではないだろう、いますぐ本職を呼べと言いたげに眉を寄せた利光に、局は動じず、すっと目を細めた。

「先ほどは大事ないと申しましたが、考えようによっては一大事でございますれば」

 局は言いさして、利光に膝を向けた。意味がわからず、ふたたび怒鳴りかけた利光を制するように、深々と頭をさげる。とつぜんのことにあっけにとられている隙をついて、局の声は朗々と告げた。

「此度は誠におめでとう存じます」

 ここまで言ってから、局は身を起こし、非礼を詫び、先を続けた。

「薬師のかわりに産婆を呼びにやりました。そろそろ、参るころでございましょう」

 うまく事態が飲みこめず、利光はただただ局のことばをくりかえした。

「産、婆……?」

 はい。短く答え、局は利光から目を外し、珠姫を見遣った。

「おそらく、御前さまのごようすはご懐妊のきざしにございましょう」

 懐妊。さらりと耳に入ってきた語を噛みしめて、利光は状況を理解しようと努めたが、なかなか頭は働かなかった。それを見て取ったのだろう。乳母の局は子どもに言いふくめるように噛みくだいて伝えた。

「御前さまの腹に、ややこが」

 言われて、つい、夜具の下の腹に目をむける。さすがに、珠姫が熱で火照った頬をさらに赤くする。これを目にして、じわじわと利光の理解が追いついてきていた。

「──珠と、ふたりきりにしてくれ」

 思わず口からこぼれたことばに、めずらしく素直に局がうなずく。控えていた奥女中たちを連れて、隣室へとさがっていく。それを待つのももどかしかった。

 覆い被さるように珠姫の頭を抱く。腕に力がこもりすぎたか、珠姫が苦しそうにもがく。

「殿!」

 抗議するように鋭く呼びかけられて、利光はハッとして身を離したが、それでも気持ちが収まらなかった。珠姫の手をふたたび取るや、両手でぶんぶんと上下にふる。

「よかったっ、よかった……っ!」

 腹の底から、よろこびがわき上がってくる。いますぐ庭に躍り出ていって、叫びまわりたいような気分だった。康玄や政重にも伝えたくてたまらなくなる。養父に書を送ろう。将軍のもとにも! 他には、他には。

 知り合いみんなに言いふらしたくなって、その考えで頭がいっぱいになり、利光は珠姫の手に口づけ、矢継ぎ早に尋ねた。

「いつ産まれるのだ? 男か、女か?」

 興奮した口調で問いを浴びせかけられて、珠姫はすっかりと萎縮したようすだった。

「ごめんなさい」

 脈絡もなくいきなり謝られて、利光は戸惑いを隠せなかった。

「いったい何を謝るのだ。至極めでたいことだというのに」

「わ、わたくし、なんだかまだ、よくわからなくって……」

 そう言う声は、いつになく弱々しい。らしくもない気弱な口ぶりは、体調が思わしくないからであろうか。

 ここにきてやっと、利光も気持ちが落ち着いてきて、珠姫の表情にも目が向いた。

 歓喜にわく周囲と、珠姫のそぶりとは一線を画している。ひどく不安そうな面持ちだった。よく見てみれば、利光の預かっている手も、指先は冷えきっており、小刻みにふるえているのだった。

「どうした、珠。具合が悪いか」

 腰をあげようとする利光に首を横に振って、珠姫は耐えきれぬようすで心中をこぼした。

「どうして、みな、そんなによろこぶの? まだ、産まれてもいないのに」

 これには、利光も口ごもった。女たちのことだ。珠姫の不調を見て、産婆に診せるより前に、敏い者は気づいただろう。珠姫が疑問に思うほど、きっと手放しによろこんで、口々に祝いのことばでも述べたに違いない。

 利光のよろこびは男として、夫としてのものだが、乳母の局や奥女中たちのよろこびはどうだっただろうか。思いながらも、利光はあえて、そのことは言わずにおいた。

「父になるのをよろこぶのは、それほどおかしなことか?」

「そうじゃないけど……。でも、」

 納得がいかないらしい。利光はどう説明しようかと考えをめぐらせた。

「俺が己の父と会ったのは、おぼえているかぎり、一度きりだ」

 養父、利長ではない。血縁の父の話だ。

 利家は草津に湯治へ行く道すがら、越中守山城に立ちよったのだ。そのとき、利光は利家の姪の嫁ぎ先であるその守山城で養育されていた。守山城へ預けられていたほんとうの理由は聞いたことがないが、利家の正室、芳春院が悋気もちで、目のつくところに側室の子を置きたくなかったからだと、小耳に挟んだことがある。それとて、下女の立ち話だ。真偽のほどはわからない。

 利家と面会したとき、利光はまだ六つだったが、父ははじめて対面した息子をいたく気に入り、持ってきていた刀と脇差とを与えてよこしたらしい。

 当の利光はと言えば、相手が父とは知らなかった。育ての両親が利家の来訪に恐縮し、たいそうなご馳走でもてなしているのを見て、相手が雲上人であろうと悟った。だから、両親のためにも面前で下手を打つまいと、ひたすらにかしこまっていた記憶しかない。

「我が子には俺のような思いはさせたくない。子をよそへ預けるのが世の習いだとしても、俺はいっしょにいてやりたい。そう思っていたからな」

 血縁に恵まれなかった自分に子が生まれる。そのこと自体がうれしい。よろこばしい。本心だったが、珠姫の表情は晴れなかった。

「ほんとうにそれだけ? 他に何かあるのではない?」

 疑り深い珠姫に、利光はどうしたものかと考えた。政略的な話ならばあるにはあるが、こちらはあまり耳に入れたくない。かと言って、珠姫に多くの祝いのことばを述べて、このように不安にさせた奥女中たちの内心を、この場で解説してやる気にはなれなかった。

 珠姫に親身に接する乳母の局だけならばともかく、奥女中たちの考えはきっと浅はかなものであろう。仕えている珠姫に子が生まれれば、自分たちの待遇がいくらか改善されるはずだ。そう考えていることは、想像に難くない。

 なにしろ、珠姫の腹で育つのは、徳川・前田両家の血を受け継ぐ子である。珠姫に付き従って加賀にやってきてこのかた、奥女中たちは肩身の狭い思いをしてきたに違いない。珠姫が懐妊、出産となれば、正室としてのお役目を果たした、主人が晴れて加賀のひととなったと思うだろう。

 血のつながりより、強いものなどない。これで男児でも産まれ出ようものなら、珠姫の加賀での地位は盤石だ。ひいては、自分たちの立場もよくなるだろう、と。

 珠姫を祝うのではなく、自分たちの境遇の変化をこそ祝っているのだ。その態度には、反吐が出る。しかし、しかたのないことだ。先日、本多政重が利光に告げたように、だれしもが自己中心的であるものだし、沈む船には決して乗りたくないものなのである。

 利光は腹を決め、珠姫を安心させるため、ひとつの秘密を明かすことにした。

「黙っていて悪かった。──養父の病が篤く、もう、治る見込みがないようなのだ」

「お義父さまが……?」

 予想どおりびっくりしている珠姫に、利光は渋い顔をしながら、ことばを繋いだ。

「もう五、六年も、しきりと孫をせっつかれていてな。……昨年の二月に満姫(まんひめ)が亡くなったろう。もともと一昨年から病を得てはいたが、あの一件でずいぶんと気落ちして、ぐっとからだを悪くしたらしい」

 利長の実子は長らくなかったが、隠居と相前後して産まれた姫がひとりだけいた。それが満姫だ。利長は遅く産まれた満姫をそれはそれはかわいがっていた。だが、その姫が、たった六つで短い生涯を閉じたのだ。

 珠姫は神妙そうな顔つきとなり、ゆったりとうなずいた。

「そういうことだったのね。ややこが産まれれば、お義父さまもいくらか、お気を持ちなおされるかもしれないものね」

「──ああ、そうだな」

 騙したような気がして、少しばかり罪悪感が胸をかすめたが、利光は見ないふりをした。その胸中に、珠姫は大きく石を投げ入れる。

「それで、すぐに初夜を」

 つぶやきに、利光は目を白黒させた。

「珠、それは──」

 『違う』と言おうとして、脳裏で自分自身が否やを唱える。何も違わない。そのとおりだ。気を持ちなおさせるためなどと、外面のよいことではなかったが、養父が存命のうちにと急いだのは確かだ。

 気をもんだが、心配は無用であった。言いさしたのを、照れたとでも思ったのだろう。珠姫はいっしょになって、また頬を染めた。そっぽを向いて、すねたように言う。

「わたくしだって、いつまでも子どもではないのよ? 熱田大神宮に詣でれば、きっとお子を授かるのだなどと、前のようにだまくらかされたりなんて、しないんだから!」

「……そんなこともあったな」

 言われてはじめて思いだして、利光は薄く笑った。

 あのときはひどい目に遭った。利光から聞かされたことをすっかりと信じこんだ珠姫は、乳母の局にありのままに報告してしまったのだ。奥女中たちの物笑いのタネになった挙げ句、利光はその後、こってりと局にしぼられた。

 ──お戯れもたいがいになさいませ!

 顔を真っ赤にして利光を叱った局の姿は、いまもおぼえている。これもまた、面白おかしく語り伝えられてしまっているようだ。

「これでやっと世のひとはわたくしたちを仲睦まじい夫婦だと言ってくれるかしら」

「いまだって、仲が悪いなどとは言われておらなんだろうに」

 背伸びしたふうの珠姫の発言に、すかさず茶々を入れる。珠姫は床から起きあがって、ぷぅ、と頬をふくらませた。

「わたくしたちは、ひときわ睦まじくないといけないのよ。殿の御子を産んで、それこそ何人も産んで、市井の者が『まあ、お殿さまと御前さまは睦まじいこと』と、あたりまえのようにうわさするくらいでなければ」

 『睦む』の意味が違う。思ったが、恥じらいなく言い切る珠姫のようすが面白くて、利光はからかってみたくなった。

「珠。それは、局どのが教えたのか?」

 よく意味もわからず言ったものかと聞かれて、珠姫は真面目に否定を返した。

「自分で考えたことよ。わたくしが加賀国のためにできる唯一のことなの。この国を守るにはね、わたくしが御子を産み参らせるのがいちばんだわ」

「珠、そなたは……」

 ことばを失って、利光は幼い妻を見つめた。

 何も言わずとも、わかっていたのだ。取りのいてやろうと幾度となく手をのばしているのに、この姫はみずから重荷を負ってしまう。

 ──ならば、せめて、そのように堅苦しい顔をする時間を短くしよう。

「そうかそうか。何人も産んでくれるとはまことに頼もしい。どれ、産婆より先に、俺もややこに挨拶しておくか」

 利光は珠姫の腹に耳をあてようと屈みこんだ。珠姫は小さな声をあげ、真っ赤になって恥ずかしがった。肩を両手で押しやろうとするのをいなし、利光は耳をそばだてるふりをした。そこまで来れば、珠姫も観念したようだった。

 ──ややこよ、おまえの育つ世が、平和であるように。

 こころのなかで祈る。珠姫に見えぬよう、屈みこんだまま、目を伏せる。

「──お殿さま、御前さま。失礼いたします。産婆が参りました」

 外から、女中の声がかかる。機に乗じて、珠姫が利光にささやいた。

「ほら、殿、産婆と交代しなければ。しばし、隣室でお待ちくださいませ」

「珠、さように急かすでないぞ。……すぐに戻るからな」

 利光は声高く笑い、後半は腹の子にむかって言うふりをした。産婆と、乳母の局がつれだってきたのと入れ替わりに部屋を出て、隣室に腰をおろして、ひといきつく。

 ──他人まかせにはしておれぬ。俺の手で、穏やかな世を作らねば。

 決意を新たにしながらも、利光は、養父に送る書の文面をつらつらと考え、産婆の見立てが出るのをじりじりと待った。

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