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第二章 戦 (二)

 利光との初夜をむかえたのは、春先のまだ少し肌寒いうちのことだった。

 珠姫の目が覚めたとき、あたりは薄暗かった。

 身につける衣を手探りしてつかみよせ、すばやく身にまとう。単衣だけでは少し肌寒い。もう一度、夜着のなかにもぐるようにして、珠姫は身を縮こまらせた。

「……どうした」

 寝言のような声に上向くと、隣で寝ていた利光が薄目を開けた。

「あ……、ち」

 いままでどおり『兄さま』と呼ぼうとして、途中でおかしいと気がついて、『筑前守さま』と呼ぼうとして、それもなんだか変だと思った。黙っていると、利光が寝ぼけまなこのまま、手をのばした。

「珠」

 寝転がった状態で抱きよせられる。顎に手がかかって、あらがう間もなく口を吸われた。

 離れていく利光の顔を見ながら、珠姫は両手で頬を押さえた。

 やはり、昨晩のことは夢でなかったのだ。

 恥ずかしさでめまいがしそうだった。そのようすに気づいたのだろう。眠たそうなようすだった利光が急に気遣わしげにした。

「どこか、辛いか?」

 頭を振る。背をさすられて、もっと強くかぶりを振った。

「あの、もう『兄さま』とは呼べないでしょう? なんと呼べばよいのかしら……?」

 珠姫の質問に、なんだそんなことかと利光は破顔した。

「なんでもよい。こころが決まるまでは、『殿』とでも呼べばよい」

 あっさりと答えが返って、珠姫はいっそう困惑した。ふしぎだ。あんなことがあったのに、利光は珠姫と面とむかって話すことにも、夫婦として振る舞うことにも、何のてらいもないようだった。

 どうしてそんなに泰然としていられるのだろう。どうして、どうして。一度考えはじめると、疑問は次から次へと胸のうちからわき出してくる。そのうちひとつを選りだして、珠姫は思いきって口に出してみた。

「殿、どうしてとつぜん、その、初夜なんて……?」

 珠姫の問いかけに、利光はさすがに口ごもった。目が揺れる。言いよどんでいるのが、外から見てもはっきりとわかった。

「何か月も前から準備して、ようやくその日を迎えるような事柄とはわかっている。そうやってこころ構えをする暇を珠に与えられなかったのは、悪かった。だが──」

 いったんことばを切り、利光はぴたりと口を閉ざした。目元を片手で覆い、悩むようなしぐさを見せ、それから、その手を外した。珠姫と目を見交わして、苦しそうな声で言った。

「頼む。この先は、どうか聞かずにおいてはくれないか」

 珠姫は利光の瞳をじっと見つめてから、下くちびるをきゅっと噛んでうつむいた。利光の手を両手に取って、その甲をやさしく撫でさする。眉根が寄ってしまいそうになるのをこらえて、なんとかことばをしぼりだす。

「……わかりました。殿がそのようにおっしゃるのならば、聞きません」

 他人行儀な言いかたに、利光のほうも胸をつかれたようすだった。だが、珠姫は利光の感傷につきあう気にはなれなかった。先に夜具から身を起こすと、利光に背を向け、手早く身支度を調えた。

「今朝は冷えておりますゆえ、火鉢の用意をさせましょう」

 あくまで淡々と述べ、外に声をかけようとするのを、利光が立ちあがって引きとめる。うしろから握られた手首を見返って、珠姫は泣きたくなった。

「怒っているのか……?」

 弱ったような顔で問う利光に、ほんとうに涙がこぼれそうだった。

 なぜわざわざそんなことを聞くのだろう。怒っているのか? あたりまえではないか!

「俺が理由を教えなかったからか」

「いいえっ!」

 きっぱりと否定して、珠姫は利光をにらんだ。

「わたくしも、もう幼子ではございません。殿の夜伽をつとめるのは、妻の大事なお役目と存じております。……なれども」

 ことばがくちびるから、ほとばしる。音として、己のこころが耳から流れこんでくる。からだのなかで増幅する。

 しまった。そう思ったときには、涙が頬を伝っていた。こちらを見ている利光の顔から、表情が失われる。

「頭ではわかっていても、こころが追いつかないの。……殿がっ、わたくしを妻だと言うとき、こういう意味で言っていたんだってわかったら、恥ずかしくて。まるで、わたくしだけずっと、裸でいたみたいに恥ずかしくて、だからっ!」

 物語で読むような甘やかな気持ちなど、昨晩の珠姫のなかにはかけらもなかった。こういうことをする相手として見られていたのだというのが言いようもなく羞恥心をあおった。

 だって、利光はいつもと変わらないようすだったのだ。いつもと同じように微笑んでいて、頭を撫でてくれて、抱きしめてくれた。これが違う態度であればよかったのにと思った。この利光を、兄と慕っていた自分がいかに愚かであったことか。

 だが、ふしぎと、不快感や嫌悪感はないのだった。嫌だったわけではない。そう、適切なことばは見つからないが、『照れくさい』というのがもっとも近い感情だった。

 どうして、兄とは呼ぶなと言ってくれなかったのだ。どうして、いついつが初夜だからと前もって教えてくれなかったのだ。

 そうしたら、きっとこんなに戸惑うことはなかっただろうに!

「……俺だって、もう少し待ちたかった」

 つぶやくような声に、顔をあげる。利光は辛そうに顔を歪めて、珠姫の頬を手でぬぐった。片手では涙をぬぐいきれずに、両手で包むようにする。

「珠が、己が身を『女』と、ほんとうに理解するまで、待ってやりたかった」

「わたくしは、女でございます。それくらい、存じております」

「俺のことを男だとわかっていたか? 俺が『兄』などではないと、心底理解していたか? 否。昨日、はじめて知ったはずだ」

 即座に断じられて、珠姫は首をかしげた。

「わたくしは、ずっと女だわ」

 このひとは何を言うのだろう。いぶかしく思ううちに、涙は止まっていた。利光はそれでも、珠姫の頬から手を離さず、引き寄せるようにして、額をつきあわせた。

「楓を見に行ったのを、おぼえているか」

「治部左衛門どののお屋敷に参ったときでございますか?」

 珠姫の返事に満足したように小さく顎を引き、利光は微笑んだ。

「あのときだった、自分が男で、珠が女だと言うことを俺がやっと理解したのは」

 あまりに近すぎて、目は合わせられない。伏せがちの目と、鼻筋とをぼんやりと認識しながら、珠姫は続きを待った。

「からだはくにゃくにゃとやわらかくてつかみどころがなかったし、馬にも弱かった。珠は、俺とは、男とは違う生き物だ。そう、わかったらな、──いとしくなった」

「……っ!」

 利光の鼻の頭が、目尻が赤くなる。利光が照れているのを間近に見ているうちに、頑なだった気持ちがやわらいできていた。珠姫の胸中になど気がつかずに、利光は先を続ける。

「それまでの俺は珠のことを、思うままに動かせる片腕のように感じておったのだ。自分にくっついていて、決してなくならぬものなのだと。……違った。珠は珠で物を考えておるし、祝言をあげているからと言って、それだけでは俺のものにはならぬ」

 ぱっと、利光は両手を離し、珠姫を解放した。離れがたく思って、珠姫が動かずにいると、利光は顔を赤くしたまま言った。

「事情が許せば、珠が俺を好いてくれるまで待とうと思っていた」

 このことばが耳に入ってきたとたん、すとん、と、胸に落ちるものがあった。

 珠姫はじぃっと聞き入っていたが、ゆっくりとまばたきをして、それから、口を開いた。

「……ております」

「何?」

 明瞭なことばにならなかったのを、利光が聞きかえす。今度ははっきりと、珠姫は思いの丈を音にした。

「お慕いしております」

 利光が瞠目する。

 短いことばだった。けれど、まっすぐに放って、珠姫は利光を見据えた。

「自分の気持ちがどういうものなのか、よくわからないでいたみたい。だから、兄妹の情のようなものだと決めつけてしまったのだわ。……殿は、わたくしの気持ちにお気づきだったのではなくて?」

 詰問するような調子に、利光はじっくりと考える風を見せた。頭のなかを整理するように右手の指を遊ばせ、その手元に見入る。そうして、ぎゅっとこぶしを握った。

「そうではないかと感じる節はあった。だが、うぬぼれだと思っていた。俺に都合のよいように、勝手に事実をねじ曲げてしまいたくなかったのだ」

「その場で言ってくださればよかったのに。お陰様で、わたくし、ずいぶんと遠回りをしたわ」

 自嘲気味に言い、珠姫は笑った。

「……違いない。俺もだ」

 いっしょになって笑いながら、利光は顔を近づけた。ふ、と、珠姫が緊張したようすで笑い止む。その目を間近にとらえ、利光は一転して真剣な顔つきで伝えた。

「この場で改めて言おう。──珠。俺の(さい)であってほしい」

 この問いに返す答えは、とうに決まっていた。珠姫は目元を微笑ませた。

「……はい」

 答えた声ごと飲みこむように口づけられて、珠姫は幸福のなか、目を閉じた。

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