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第一章 楓 (十三)

 案の定と言おうか、利光は少々、局のことばを気にしているようすだった。

「泣いたのか」

 いかにも利光らしい。飾り気も、まわりくどさもない直截的なことばだった。それゆえ、適当にごまかす隙など、どこにもなかった。

「兄さまに嫌われてしまったのだと思って、とても怖くて……」

 まっすぐに回答を投げかえすと、利光はあぐらをかいた膝元を叩いて示した。

 ここに来いと言うのだろうか。座れと? 珠姫が逡巡する間にも、腕がのびた。軽々と抱きあげられて、足の隙間に腰がおさまる。利光のからだに包まれたような心地がして、珠姫は身を小さく縮こまらせた。

「先ほど、父上にも叱られた。珠をもっと大事にしろと。あと、……子を設けろと」

「お子?」

 珠姫の裏返った声に、利光は喉から低く笑い声をもらした。

 子ども。利光との。

 珠姫がもじもじしていると、利光は珠姫の頭にてのひらを乗せ、ゆっくりと髪を撫でた。

「案ずるな。ちゃんと、珠はまだ九つだと、言いかえしてやった」

 まだ、という言いまわしが、ひっかかる。珠姫は利光の顔を振り仰いだ。

「お子は、いつになったらできるもの?」

「さあ、なあ。こればっかりは神仏の思し召し次第だろう」

 顔を赤くした利光にはぐらかされて、珠姫はむくれた。

「設けると言うくらいだから、何かやりようがあるんじゃないの? 教えてくれたっていいじゃない」

「……それは」

 口ごもった利光の胸元を、珠姫が子どものようにひっぱった。

「ねえねえ、どこにお参りすればいいの?」

 お参りと聞いて、利光は一瞬、目を点にして、それから、大きな声で笑った。

「そうだな、熱田大神宮にでも詣でたらよいかもしれないな」

「それはどこ?」

 首をかしげた珠姫の手をひきはがしながら、利光は説明する。

「尾張国だ。草薙神剣のゆかりだから、祀られているのは天照大神だろう。今度、駿府城の修築を命じられたから、見回りのついでに詣でておくさ」

「ほんとう? では、お願い申し上げます」

 頭をさげる珠姫にうなずきを返して、利光は少しだけ遠くに目を転じた。

「父上が焦り過ぎなのだ。隠居されたせいで、孫くらいしか楽しみがないのだろう。だが、珠が子を産むのは少し先でよい」

「どうして?」

 問われて、利光は庭のむこうに答えを探しているようだった。けれど、一拍おいて、こちらを見返ると、しっかりとことばを紡いだ。

「天下太平の世は近い。珠の産む子が徳川と前田の板挟みになるのは忍びないことゆえ、いま少し待つべきだ」

「天下、太平」

 たどたどしくもおうむ返しにした珠姫に、利光は微笑んだ。

「ああ。珠の祖父君、父君の理想のままにことが進めば、世に戦乱は少なくなろう。俺はな、珠。戦のために、珠と子を残して何度も加賀を離れるのは嫌だ。それに」

 言いさした利光の視線の先で、雨粒が庭の木々を叩いた。珠姫はうっとうしいとさえ思う雨空を、愛おしそうに利光は見遣る。

「穏やかな世になれば、民はきっと豊かになる。稲穂を実らせるのは、ひとの手ではない。雨が降り、川が流れ、山の豊かな土を運んできてくれる。お天道さまが差す。自然の流れを見守りつつ、時折、よりよく実るよう、ひとが手を加えてやる。俺は、そういう政をこそ手がけたい。父上はいい顔をされないが、俺は、珠の祖父君をすばらしいかただと思う」

 珠姫は、利光の双眸に尊敬の念が宿っているのを見て取って、やるせない気持ちになった。祖父は祖父、珠姫は珠姫だ。

「──わたくしは、加賀前田家の者でございます。大御所さまのお考えは、珠には関わりございませぬ!」

 大好きな兄を、祖父に取られたような気がして、気分を害して、珠姫は多少声を荒げた。わざと、祖父のことを「大御所さま」などと呼ばわって、距離を取りさえした。

 そうしておいて、利光の足のあいだにもう一度、ちょこんと座りなおす。

 珠姫の内心を汲んだか、利光は幼い妻をあやすように、うしろから腕を回してからだをふたたび抱きすくめ、その手を取った。

「気にせずともよいのだ。珠は、徳川も前田も背負わずに居れ。代わりに俺が背負う。珠には、俺の……妻で、いてもらえれば、じゅうぶんだ」

 剣の稽古を積んでいるせいだろう。利光の手は節くれ立って、大きかった。珠姫の手は、利光と比べると、ひと節ぶんは小さかった。己の手を添わせながら、珠姫は尋ねかけた。

「兄さま。妻とは、何をしたらよいの?」

「そうだな。また小袖なりと縫ってくれ」

「それから? 他には?」

 他に仕事はないのかと、腕のなかから珠姫はふりかえる。新しい遊びを見つけたときのように興奮して、先をうながす。

 利光はそんな珠姫と目を合わせると、惚けたような表情になった。すぐには先を言わずに、少しだけ顔を近づけてくる。

 内緒ばなしか。珠姫が耳元に手を当てると、利光は一瞬、ハッとした顔をして、それから、自分も両手を筒のようにして口元を覆った。

 利光の低くひそめた声が耳をくすぐる。

「こうして、たまには乳母の局抜きで、俺の相手をしてほしい」

 これを聞いて、珠姫は自分もてのひらで筒を作った。今度は利光が聞き手である。

「局がいてはダメなの?」

 こそこそと問いかけると、利光は腕を組んでうなった。

「ダメではないが、局は礼儀にうるさいからな。俺が珠に触れると、嫌そうにする」

「あーっ!」

 内緒話にするのを忘れて返答した利光を、珠姫が指をさしてとがめる。内容は耳に残らなかったらしい。少し腹を立てたようなそぶりをしてみせながら、利光は言った。

「妬けてしまうぞ。近ごろの珠と乳母殿は、いままでにも増して姉妹のようにひっついているらしいではないか。俺も、珠とふたり、どこぞなりへと出かけたいものだ」

「姉妹……」

 予想外の表現に面食らって、珠姫はぽかんとした。

「兄さまったら、何をおっしゃるの? 局は、母さまよ。姉さまじゃないわ」

 だって、局はわたくしの乳母だもの。

 あたりまえのことと言ったふうに口にする珠姫に、利光はそうだな、と笑いながらうなずきかえし、けれど、ひとことだけ言い足した。

「局は見目のよい女だから、年より若く見えるのだろう」

 そのひとことがちくりとこころを刺激した。珠姫は胸を押さえて、うわめづかいに利光をまなざした。

「兄さまも、局のこと、きれいだと思う?」

「うむ? いまもそう言ったではないか」

 あっさりと肯定した利光がふしぎそうな表情をする。気遣わしそうにこちらをみている。自分が変な顔をしているのだ、気持ちが顔に出てしまっているのだと、すぐにわかった。

 珠姫は膝を抱えて、顔を膝元に寄せ、伏せ気味にした。

「急にどうした、気分が悪いのか? どれ、気付けを持ってこさせるか」

 そわそわと動いてひとを呼ぼうとする利光の服をつかまえて、珠姫は黙って首を横に振った。そうして、目だけは利光から外し、そっぽにむける。

 そのようすに、利光も何か感づいたらしい。虚をつかれたようすだった。ぽろりと、その考えが声に出る。

「──もしかして、妬いているのか?」

「ちっ、違うわ! ……兄さまは局の容儀はかんたんに褒めるのに、わたくしにはなんにも言ってくださらないなって」

 口に出してみて、この言いぐさでは、まるですねているみたいだと気づいたが、あとのまつりだった。かたわらに、利光が片膝をつく。てのひらが背に置かれる。声が耳のすぐ近くで響いた。

「どうしたのだ」

「……」

 きかれても、明瞭な答えなど出てこなかった。喉から胸のあたりがもやもやとして、なんだか不快なのである。

「うらやんでいるのか?」

 利光によってことばにされてはじめて、違うとわかる。肌が粟立った。怖くて、いられなかった。

 うらやましいわけではない。──そうだ、不安だったのだ。

 手探りで利光の胸を探して、珠姫はそのふところへしがみついた。涙がどっとあふれて、息がつまった。

「わたくしは局のようにはきれいじゃないけど、お願い、嫌いにならないで……」

 利光はやさしく慰めるでもなく、少し怒ったようなあわてたような強い声で言った。

「だれがそなたを嫌いになるものか……っ」

 言われて、珠姫は同じようなことばを先日、局の口から聞いたことを思いだした。

 ──局の言うことは正しかったんだわ。

 利光が抱きしめてくれる。安堵でからだの力がゆるむ。そこへ、利光は今度は一転してやわらかい調子で声をかけた。

「泣かせてしまったな。悪かった」

「……いいえ」

 珠姫が鼻声で応じると、利光は弱ったように笑い、小声でぼやいた。

「おなごは、難しいな。うつくしくありたい気持ちはわからなくもないが、丈夫なからだのほうが大切だし、明るく気立てがよければ、それで万事よかろうに」

「そういうもの?」

「ああ、そういうものだ。……珠は知らなかったか。俺の母は、芳春院さまの下女だった。賢くもうつくしくもないただの洗濯女だ。よく働き、よく笑い、よく気のつく女は、ひとのこころを安らがせる」

 自分は、働きもしないし、気のつくほうだとも思われない。珠姫が浮かない顔をしているのを見て、利光は笑いぶくみになった。

「珠は、奥としてきちんと働いている。俺の小袖は珠の手製だ。気のつくほうだから、気を回しすぎて辛くなる」

「……そう?」

「うむ。他に望むとしたら、珠の笑う姿が見たいと、それくらいだ」

 抱きしめられたまま、耳元で告げられたことばに、思わず涙が途切れた。

「ほんとうはな、針仕事をしなくともいいし、新丸にこもらせずに、好きに物見遊山に行かせてやれたらと思う。──珠が笑っていたら、それだけで俺は満足だ」

 視界に入る耳たぶが真っ赤に染まっていた。

「すまない、珠が局などに焼きもちをやいているのが、その、可愛くて、つい性無い言いかたをしてしまった。……頼む、どうしたら泣きやんでくれるのだ?」

 途方に暮れたようなようすに、珠姫はむくれてつぶやいた。

「難しいのは、殿方のほうだわ」

 どうして『可愛い』と意地悪になるのだ。

 ──可愛い、か。

 容姿に対する褒めことばでないのは承知しているが、利光の口から出た褒めことばなら、なんでもうれしいと思った。

 照れとうれしさから笑いがこみ上げてくる。先刻のつぶやきで利光が身を離し、顔をのぞきこんでくる。そのころには、珠姫の面にもはや涙のあとはなく、晴れやかな笑みばかりが浮かべられていた。

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