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第一章 楓 (十二)

 慶長十二年五月三日。

 季節はすっかりと夏に移り変わっていた。五月雨とはよく言ったもので、朝な夕なにこうも毎日のように雨が降るのは、どうにも気鬱を招いてしかたがない。だが、珠姫の憂鬱の原因はそればかりではなかった。

 四月に入る前に、夫のための夏の袷と単衣とをなんとか仕上げたのだが、ひといきついたのもつかのま、すかさず、乳母の局が言いだしたのだ。次は冬物を学びましょうと。

 おかげで、五月に入ったいまも連日、珠姫は局から、みっちりと針の指南を受けている。

 今日も今日とて、珠姫のところへやってくるのに、針と糸とを準備してきた局だったが、どうやら、何か気がかりがあるのか、気もそぞろのようすだった。聞けば、本丸のあたりが騒々しいと言う。

「ひとをやって、聞いてこさせればよいわ」

 珠姫が言うと、局が指示するより先に、奥女中がひとり立ちあがり、むこうへ早足にむかっていった。その姿を見遣ってから、珠姫は乳母の局にむきなおった。局はそれでもなお、いつもより少し、ぼんやりとしたようすだった。

 珠姫は軽く嘆息した。

「めずらしいことね。かようなことで悩むなど、局らしくもない。他に何かあったの?」

「……いえ。お見苦しいところをお見せいたしまして、たいへん申し訳ありません」

 理由も言わずに深々と頭をさげる局のようすは気になったが、珠姫はそれ以上の追及は避けた。前例があったからだ。

 局の過去を知ろうとして、好奇心から問うてみたのは、二月ほど前のことか。局は、微笑むばかりで、何も答えなかった。

 ──話したくないのだ。

 さすがの珠姫にも、それくらいはわかった。心情を察して、それきりにした。以来、局には、こうしたことが多い。今日のように、ふとした拍子にぼうっとしているのだ。何かと尋ねてみても、理由は判然としない。局はやはり、珠姫には何も教えてはくれなかった。

「冬物の手本にと、御前さまのお衣装箱からこちらを持ってまいりました」

 局はそう言うと、真綿の入った珠姫の打掛を広げて見せた。縫い目を指でたどって見せ、どこから綿をどれくらい入れるのかなどと、よどみなく教えていく。ことばに耳を傾けながらも、珠姫は局の膝元にもうひとつ、色味の異なる布地があることに気がついた。

「局、それはなあに?」

 説明のあいまに指さして尋ねると、局はみずからの膝元に目をやって、まあ……と、口元に手を当てた。自分でも驚いたようだ

「こちらは……、御前さまのお輿入れの年にお作りした綿入れでございます」

 赤に薄桃や黄の牡丹が咲き乱れている。まるで、人形に着せかけるものようなごくごく小さな着物だった。

「お衣装をお探しする際に、偶然に手に触れて懐かしんでおりましたものを、そのまま持ちだしてしまったようでございます。お許しくださいませ」

「構わないわ。よく見せて」

 手をさしだすと、乳母の局はためらいつつも、珠姫に綿入れを手渡した。

「わたくし、三つのころはこんなに小さかったのね」

「さようでございますね」

 期待していた局の声音は、思ったほどには温かではなかった。いっそ、そっけないとも言えるものだった。それが悲しくて、珠姫はどうしたらいいのかわからなくなった。

「ねえ、局。近ごろ、あなた、おかしいわ。わたくしが何か悪いことをしたのね? 局の生い立ちなど、聞いてはならなかったのね? いけないことをしたのならば、謝ります。……ごめんなさい」

 思わず、ぺこっと頭を下げて謝罪をすると、局は動揺したように珠姫のからだを起こさせて、そのことばを否定した。

「なりません! さようなこと、なさってはなりませぬ。とんでもないことにございます。御前さまのためではございません。わたくしが至らぬばかりに、ご心配をおかけ申し上げました」

「でもっ、局……!」

「わたくしが口をつぐんだのが悪うございました。わたくしの素性など、御前さまのお耳に入れるべき話ではなかったものですから」

 言い置いて、乳母の局は姿勢を正して、珠姫とむきあった。それからひと呼吸おいて、局はとつとつと語りだした。

「わたくしは江戸の御船奉行、旗本の間宮(まみや)高則(たかのり)の娘として産まれました。父方の大伯母ひさは、大御所さまの御側室にございます。

 わたくしは、恐れ多くもその大伯母によく似た容儀をしておりますようで、十三、四のころより、たびたび多くの縁談をいただいておりました。そのうちのひとつと縁があり、十五で嫁いだのでございます。すぐに子宝を授かり、わたくしは男児を産みました」

 一度ことばを切り、局は珠姫を見遣った。顔面は蒼白だった。

「もうよい。聞きとうない」

 必死に押しとどめたが、局は言うことを聞く気はないようだった。

「親の僻目ではございますが、かわゆらしい珠のようなお子でございました。慈しんで育てておりましたが、ある日、とつぜん高熱を出し、泡を吹いて死にました。二つになったばかりのころでございます」

 珠姫は、ひっ、と息をのんだ。局の顔には、もう表情はかけらもなかった。無感動に、先を続ける。

「わたくしは離縁され、実家に戻りましたが、行く先などありません。しかし、さいわいなことにわたくしは学問が得手でございました。大伯母の取りなしで、伏見城の奥女中として、おつとめにあがることとなり、その後、御前さまの御婚約が調ったころに、御勉学の御指南役として、乳母の任を拝命いたしました」

 淡々とした口調だったが、それがなおいっそう、痛ましかった。乳母の局のこころに刻まれた古傷を、この手で深くえぐってしまった。珠姫には、そう思えてならなかった。

「ごめんなさい。……ごめんなさい、局」

 泣きたくなって顔を歪めた珠姫に、局は穏やかに微笑み、畳に手をついた。

「わたくしがもったいぶったために、御前さまのおこころを乱してしまいました。いかようにも、お叱りは受ける所存でございます」

「──ひどいわ、局。わたくしには謝らせてもくれないの?」

 局は額を畳にすりつけんばかりに伏せたまま、身じろぎもしなかった。さらさらと音をたてて、局の背からつややかな髪がこぼれ、畳に落ちる。元結いから、長く豊かな髪が銀杏の葉のように広がった。毛先から、やわらかな香りが立ちのぼり、ふわ、と珠姫の鼻先でほどけた。

 珠姫はしばし、局の伏せた頭を見つめ、諦めた。局からは、決して頭を上げないだろうことくらい、これまでのつきあいのなかで、重々承知している。

「──許す。面を上げよ」

 ぞんざいに言い、珠姫は不満に頬をふくらませて、身を起こしてしおらしくしている局を軽くにらみつけた。まったくもって、無理やり言わされてしまったとしか思えない。

「綿入れの縫いかたを指南せよ。早う」

 珠姫が自分から針を持って急かすと、局は安堵したようすで先を教えにかかる。そうして、気持ちも新たに針仕事にむかいはじめたころあいだった。外へ様子見にやった使いの女中が戻ってきた。

「──お義父さまが?」

 報告を受けて、珠姫がすっとんきょうな声をあげる。富山城へ隠居したはずの前藩主利長が、急ぎの用とて、馬を駆ってやってきたと言うのである。

「何があったのかしら」

「……駿府城の修築の件でございましょう」

「その件はもう、終わった話ではないの? 局が話を聞いてきたのは、二月も前のことではないの」

 感じたいぶかしさを素直に口にすると、局は少し考え深そうにして、針を持ちなおした。

「修築に関わる者たちの出立はこれからでございます。何かあったのでございましょう」

「いったい、何が……」

 言いさして、珠姫は足音に気づき、局と目を見交わした。男の足音だ。──利光である。

 珠姫はあわてて膝のうえの布きれをよそへやり、針刺しへ針を戻した。局が手早く指示を飛ばし、利光の座を作らせる。

「なんだなんだ、大騒動だな」

 あわてふためく珠姫たちの姿を笑いながら、利光が顔を見せた。設けられたばかりの座に、当然と言ったようすで、あぐらをかいた。

 しばらくぶりの利光は、やさしげな表情を浮かべるばかりだ。だが、よく見れば、目の下には隈が浮かびあがっていた。いささか顔色も悪い。顔がむくんで、肌つやもよくないように思われた。やはり、疲れているのだ。

「……近ごろはお忙しいの?」

「ああ、少々。無沙汰をしてすまなかった」

 利光は両膝に手をついて、頭をさげてよこす。利光のからだを案じてのことばであったのに、当の本人からは遠回しな嫌みと取られてしまったらしいのが、もどかしくも腹立たしい。

 珠姫は不満も露わに首を横に振った。

「そんなことはいいの! わたくしはただ、兄さまがお疲れのごようすだったから、心配で」

 言いつのると、利光は力の抜けた笑みを浮かべて、ちょいちょいっと、指先で珠姫を近くに招き寄せた。

「珠、手を貸してくれ」

「? はい……」

 すぐ側に立って、手をさしだすと、利光は大事なものでもいただくように、珠姫の手を両手で捧げもった。そして、甲を額につける。

 目を伏せたようすに戸惑った。めまいか頭痛でも起こしたのだろうか。

「兄さま、だいじょうぶ?」

 尋ねかけると、利光はほんの少しだけ、指先に力をこめた。

「──少し、このままで」

 言われるがまま、珠姫はその場にしばし、たたずんだ。「少し」とは、どれくらいの時間をさすのだろう。珠姫の「少し」をだいぶ超えても、利光は目を伏せたきり身じろぎひとつしなかった。

 明らかな発熱こそ無いものの、利光の額は温かく、生え際の後れ毛が手の甲に触れるたび、くすぐったくなる。

 ──眠って、しまったのだろうか。

 珠姫は助けを求めて、乳母の局を顧みた。局は弱ったように目をそらし、珠姫の救援信号を見なかったふりをする。

 しかたあるまい。これは、自分でどうにかするしかないらしい。

「兄さま……?」

 困惑しきりの声音で呼びかけると、利光はようやっと顔をあげた。寝起きのようなまぶしそうな眼で珠姫を見上げ、微笑んで、それから、さっと盗むように指先にくちづけした。

「……ッッ!」

 手が解放されるや否や、思わず両手を胸に抱きしめた珠姫に対し、利光はうっすらと目元を染め、ふいっと顔をそむけた。

「珠の縫うた袷は着心地がよいぞ。また縫ってくれ。次はもっと上達して、指に針を刺すことも少なくなろう」

 言われて、はじめて気がついた。指先を見てみれば、たったいまくちづけられたところに、小さく血がにじんでいた。

 はじめのころは、一度刺さるたびに声をあげたものだ。だが、針仕事に不慣れなうちは手元が狂って針が刺さることなど、あたりまえのことだと局に言われたので、近ごろはいちいち騒がないように気をつけていたのだ。

 そういえば、先程、ちくりとやったばかりだった。思いいたると、とたんに恥ずかしさがこみ上げた。

 ──接吻と、勘違いしてしまった。

「そ、それは、よかったこと」

 顔が熱い。舌をもつれさせながらも返答し、珠姫はその場にすとんと腰をおろし、片膝を立てた。

「次は是非、珠にもお召しになった姿を見せてくださいませ。励みになります」

「どうした、いきなり他人行儀な」

 急にていねいなことば遣いになったことを揶揄されて、珠姫はむくれた。

「だって……っ。兄さまがいけないのよ!」

 両手で頬を包んで言いかえす。接吻なんかされたと思ったから、困惑して、混乱してしまったのだ。そう言いたかったのに、利光は珠姫のことばを違う意味に取ったようだった。

「……そうだな。次からはなるべく時間を見つけて、日をおかずに通うようにする。珠によそよそしくされては、かなわんからな」

 悪かった。勘違いしたまま謝られて、珠姫が反応できないでいると、ふたりのあいだを取りなそうというのか、それとも利光に嫌みを言いたかったか、乳母の局が口を挟んだ。

「筑前守さまにいらしていただければ、御前さまのおこころも晴れようものでございます。先日などは、あまりに長いことお渡りがないと、お泣きになっておりましたものを」

「局!」

 不用意な口出しを珠姫がたしなめると、局はあっさりと、非を詫びた。だが、反省しているようには見受けられない。

 局は局で、利光の仕打ちに憤っているのだろう。だが、これでは、利光とろくに話もできないではないか。たまの訪れにわざわざケンカをしたいわけではないのである。

 珠姫は、しばらくふたりきりにしてくれるように頼んで、局や女中をさがらせた。乳母の局が不承不承といった体で針仕事の荷物とともに出て行くのを見届けて、利光の表情をうかがった。

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