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第一章 楓 (十)

 二年が過ぎた。

 藩主となった利光は政務に忙しくなったか、珠姫のもとを訪れることはめっきりと少なくなった。富田邸に赴いたときのようにこっそりと城下に連れだされることも、近ごろではふっつりと絶えていた。

 三月ともなれば、春も終わりに近づいて、そろそろ夏の支度をしておく時期だ。金沢ではまだまだ暖かな日ばかりではない。庭を眺めていると、時折頬を撫でる風は肌寒いと感じるほどだ。

 しかしながら、珠姫の室からは遠く卯辰山のようすが臨める。先日まで卯辰山にかかっていた白や紅のかすみは失せ、山は青々としている。梅の花が散り、藤の花が咲きほころぶかというころあいなのだろう。

 それを見てとって、乳母の局に告げると、局はたいそううれしそうに顔をほころばせた。

「誠にうつくしい情景でございますね。まるで、源俊頼の歌のようでございます」

「としよりとは、何者なの」

 珠姫が尋ねかけると、局は端然と座ったまま、にっこりと微笑んだ。

「堀河帝の御代の歌人でございます」

 堀河帝がいつの時代の帝なのか、珠姫は思いだせなかった。だが、こうもさらりと局が口にするからには、きっと、いつか話のなかで教わっているのだろう。そう思うと、恥ずかしくて聞きかえすこともできなかった。

 乳母の局は、年を重ねるごとに麗しくなる。黒々と豊かな髪はつややかに流れ、うなじで束ねられている。化粧は薄付きだが、肌が恐ろしく白いためか、それでも白絹のように透きとおっている。白い肌に、目元と口元に差した紅がよく映えている。切れ長で涼やかな一重の目元には、いつもやわらかな笑みがたたえられている。局の優雅な所作、凛としたたたずまいは、菖蒲や百合の花を思わせた。

「どのような歌? 聞かせておくれ」

 珠姫はすっかり気後れして、うつむきがちに言った。

「『山桜咲きそめしより久かたの雲ゐに見ゆる滝の白糸』」

 山桜が咲くのをいまかいまかと待ちわびていたが、咲いてからは、まるで空から細く滝が落ちてきているように見える。

 乳母の局は、珠姫が梅の花を『白や紅のかすみ』に喩えたことから、山桜を滝の白糸に喩えた和歌を連想したのだろう。そして今度は、自身の口にした白糸の語から、この部屋に何をしにやってきたのかを思いだしたようだった。

 勉強の時間である。局は側に控えていた奥女中に声をかけ、勉強道具を持ってくるようにと言いつけ、珠姫にむきなおった。

「御前さま。本日は、先日の続きで針仕事をお教えいたします」

「ええー? わたくしは、針仕事など……」

 針仕事などしない。針は、下女にまかせておけばよいではないか。と、喉元まで出かかったが、すんでのところで、珠姫は続くことばを飲みこんだ。乳母の局の視線が険しくなったからだ。

「針仕事は、貴賤を問わず、女のたしなみにございます。御前さまは針も持てぬとなれば、御台(みだい)さまは、いかほどに嘆かれることでございましょう」

 御台所(みだいどころ)──母の名を持ちだされてはかなわない。珠姫はしぶしぶながら奥女中の持ってきた針箱と布を受けとり、膝元近くに置いた。

 乳母の局はこうして常々、将軍家の娘であることを自覚しろと、小うるさく言う。珠姫が不出来であれば、母たる御台所の恥、引いては征夷大将軍である父、秀忠の恥となると、こういうわけらしい。

 母がどう感じようと、珠姫には関わりのないことだ。母とは、伏見城で別れてのち、一度も会っていない。顔も声もおぼえていない相手に、恥ずかしさも申し訳なさもなかった。

 父母の恥となると言われても、いまひとつピンとこない。珠姫が彼らのもとで育てられたのは三つの夏まで、それもほとんどが乳母や女中の手によるもので、父母に直接育てられたという感覚は皆無だった。

 珠姫としては、御台所の恥と言われるよりは、乳母の局の恥と言われたほうが、よほど勉学に身が入るというものだった。このなにひとつ欠点のない女性が養育した姫が、針も持てない。そう陰口を叩かれるのを想像すると、珠姫は己の出来の悪さが申し訳なくてたまらなくなるのだ。

 乳母の局はあざやかな手つきで、端布に針を通し、先日の運針をおさらいしてみせた。

「御前さま、四月は衣替えの時期にございます。夫の着るものを調えるのは、妻のつとめでございます。こたびはぜひ、衣替えに合わせて、筑前守さまに小袖などさしあげてはいかがでございましょう」

「小袖? つとめと言われても、そんなもの、いままで送ったことがないけれど」

 困惑していると、さようであろうといわんばかりに、乳母の局は大きくうなずいた。

「筑前守さまは御家来ではございますが、翻って、御家来のお衣装も立派に調えられないとあっては、将軍家の名折れでございます。それゆえ、僭越ながら、これまではわたくしが御前さまの名代として、単衣なり袷なりと調え申し上げておりました」

 珠姫はこれを聞いて、頬に手をあて、はたと考えこんだ。新しく衣装をあつらえるとしたら、どのくらいの猶予が必要だろうか。どの店にどのようなものを何領頼めばよいのか、まるきり見当もつかない。それに、そのための銀子はどこから出せばよいのだろう。そう言うと、局はさらりと教えてくれた。

「御前さまには、加賀より三万石の化粧料をいただいております。いかなるご要望にも、じゅうぶん応えられるはずでございますよ」

 そうだったのか! 珠姫が納得していると、局はほんの少し、苦笑してみせた。

「……御前さまにおかれましては少々、お心得違いをなさっておいでのごようすで」

「──何を?」

 珠姫がきょとんとして小首をかしげる。局は呆れたように指摘してよこした。

「縫ってさしあげるのでございますよ! 御前さまが手ずから、筑前守さまに小袖を!」

「えっ……わわわ、わたくしがっ?」

「さようでございます!」

 もう! と、言いたげな強い口調で言い切って、乳母の局は反物をいくつか持ってこさせて、ひとつを珠姫の目の前に広げて見せた。

 赤や緑などの染色や、摺箔が鮮やかな布ばかりである。布地を糸で縫い縛り、細緻な菱紋を染め抜き、その爪の先程の菱紋に、ひとつひとつていねいに金箔をすりつけてある。それぞれに染め色を組み合わせ、翼を広げた鶴、枝振りのよい松、梅の花などの図柄まで、細かに配置されている。

 この梅は、加賀前田家の家紋である梅鉢を表しているのだろうか。図柄のあいだには、白い雲が長くたなびいていた。武運長久を願う縁起物ばかりが布地を埋めつくしている。

 これほど手のかかった品は、将軍家の娘、珠姫であっても目にする機会はあまりない。この布地だけで、美術品のようではないか! 感嘆しきりで声をもらして見とれていると、乳母の局は珠姫から布地を取りあげるように、広げた反物を巻きとってしまった。

「……あ」

 奪われた反物を目で追った珠姫に、局がむける視線は、いささか冷ややかだった。

「御前さま。柄に見入ってばかりではしかたありません。どのように縫い合わせて小袖に仕立ててゆくのかを、これよりくわしくご説明申し上げましょう」

 鏡台の前を示されて、座を移す。珠姫を鏡の前に立たせると、局は珠姫の肩から布地を垂らすようにして着せかけてみせた。

「よろしうございますか。このように……」

 説明のあいまに、珠姫は鏡越しに局のかんばせを見遣った。伏し目がちのうつくしい横顔と、自身の造作を見比べ、内心で嘆いた。十六も年かさの局と比べても栓ないこととは知りつつも、あまりに見劣りする自身の容貌に、珠姫はふたたび、足元に目を落とした。

 ふと、こころにわいた恐れがじわりじわりと身のうちを蝕んでいく。

 利光は近ごろ、とんと遊びに来てくれないが、ほんとうに政務が忙しいからなのだろうか。もしかして、自分がうつくしくないから、足が遠ざかっているのではなかろうか。

 局が主のふさいだようすに気づいて、ついっとこちらをむいた。鏡のうえで、視線が交わる。かたちのよい丹花のくちびるが笑みを刻む。

「いかがなされましたか? お加減でも」

「……心配なきように。筑前守どののお背はどのくらいであったかと考えていたの」

 すかさず言った珠姫に、局は考えこむように頬のあたりに手を当てた。

「さようでございますか……」

 局の視線が部屋のなかをぐるりとめぐる。それから、鏡のなかの珠姫のもとに戻ってきた。

「さきごろ、お目にかかったころは、わたくしより、こぶしひとつ高くていらっしゃいましたが、いまはいかがでございましょうね。伸び盛りでございますから」

「……殿方は、すぐに背がのびるのね」

 そっけなく応じた珠姫に、局は切なそうな顔になった。失礼申し上げます、言って、局の両腕が珠姫をやわらかに抱きよせた。

 乳母の局の衣装からは、よいかおりがした。抱きよせられるまま、胸元に顔を伏せかけたが、思いとどまる。紅が衣につくのを恐れて、顔をそむけた珠姫の頭を、局の繊手がそっと撫でた。くすぐったいような感覚がここちよくて、珠姫は局の衣装にすがった。

 くちびるから、こころのうちに籠めていたものが、ぽろりとこぼれていた。

「なぜ、筑前守どのは来ないの? わたくし、嫌われてしまったの?」

「御前さま」

 主の愚痴を聞きとがめて、局は腕をゆるめて膝を曲げ、珠姫と目の高さを合わせた。

「そのように弱気なことをゆめゆめ口にされてはなりませぬ。……子々さまを嫌うかたがこの世にあろうはずがございません!」

 強く断言して、局はふたたび珠姫を抱きしめて、背を撫でてくれた。『子々』の名を、局の口から数年ぶりに耳にして、珠姫は懐かしさに泣きたくなった。

 乳母の局は、自分が取り乱してしまったことに気がついたのだろう。うっかりと主の幼名を口にしてしまうほどだ。内心、よほどの動揺があったに違いないが、そのようなことなど、毛ほども気取らせぬようすで、局は力強い笑みを浮かべて珠姫に請け合った。

「──何故お渡りがないのか、局がきっと調べて参ります。御前さまにおかれましては、おこころ安らかにお過ごしくださいませ」

 局のことばに励まされ、珠姫ははにかむように笑った。

「局にまかせておけば、安泰ね」

「恐れ入ります」

 わずかに頭をたれて、乳母の局は取り落としてしまっていた布地を拾いあげ、きちんと巻きなおした。

「局。わたくし、自分の手で小袖を縫うわ。筑前守さまがいついらしてもお渡しできるように一所懸命にやるから、指南を頼みます」

「仰せのとおりにいたしましょう。ご立派なお志でございます。それでこそ、御前さまでいらっしゃいます」

 賞賛のことばが、珠姫にはいささか面映ゆかった。局の輝くばかりのかんばせが笑みをたたえているだけで、うれしいような、居心地の悪いような気持ちになる。

「局がわたくしのおたあさまであったら、どんなによいか」

「恐れ多いことでございます」

 やはり頭をたれた局だったが、しかし、面を上げたところをみれば、うれしそうに目を細めていた。

「御台さまは、それはそれは賢くおうつくしいかたでいらっしゃいますれば、わたくしなど、足元にも及びませぬ。けれど、御前さまのおこころは、たいへん有り難く存じます」

 照れたように、ほんのりと頬が上気していた。それを見とがめられたとでも思ったのであろう。局は強引に話題を変えた。

 さあ、布を裁つところまで、今日のうちに済ませてしまいましょう。

 言うなり、裁ち物包丁を取りだして、布の裁ち切りかたを指南しはじめる。

 その横顔の優美さに見とれて、珠姫はぼんやりと、このひとがほんとうに自分の母であったなら、多少なりともうつくしく生まれついただろうかと考え、小さくかぶりを振って、その考えをむこうへ追いやった。

 乳母の局は、当年二十五歳。珠姫が九つであるから、親子の年の差としては、まんざらあり得ないこともない。いや、むしろ十六歳も差があれば、ありふれていると言ってもよいくらいだ。世には、もっと年若い母親はごまんといる。

 自分が口にした『母』という単語が急に現実味を帯びて感じられた。だが、乳母の局はただの養育係であって、実際に赤子の時分の珠姫に乳を含ませたのは、また別の、もっと身分の低い女のはずだ。局からは、乳が出るはずもない。

 ──ほんとうにそうだろうか? 縁組も出産も一度もしていないとは、限らない。

 珠姫は、ここにきて、己が乳母の局のことをなにひとつ知らないのだと言うことに気がついた。局がだれのもとに産まれ、どこで育ち、どのように生きてきたのか。

 珠姫は、それこそ局の名すら、満足に出てこないことを理解して、悄然となった。

 尋ねてみようと思い立ったが、当の局は、裁ち物包丁を手にする珠姫の所作を真剣な表情で見守っている。さすがに、いまここで聞くべきことではなかろう。

 ──あとで、それとなく聞いてみよう。

 局の用意した裁ち物包丁は、よく手入れされていて切れ味がよい。万が一のことがないように、珠姫は局の過去への好奇心も、容貌への悩みといっしょに頭の隅へと追いやって、手元に集中することにした。

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