第一章 楓 (一)
母と離れた日のことを、珠姫はおぼえていない。
それは、慶長六年七月朔日のこと。珠姫の生まれは慶長四年三月だ。なるほど、たった三つでは、ものの道理もわかるまい。
珠姫が加賀国へ旅立ったのは、物見遊山のためではない。輿入れのためだった。重たく派手な衣装を着せかけられ、輿に乗り、狂言師や芸人を大勢引きつれた。珠姫の乗る輿と、舞台車とが並んでの嫁入り道中だったそうだ。
幼い珠姫を飽きさせまいと、芸人が舞台でおどける。珠姫は手を叩いて、きゃらきゃらとよろこび、時折騒ぎすぎて、まだ十九と年若い乳母の局にたしなめられる。そうして日に一里半ずつ、一行はのろのろと練り歩いた。
珠姫が加賀国に輿入れしたのは、京の伏見城を出でて二月ののち、九月晦日のことだったらしい。
乳母の局は、話をねだるたびに幾度となくこのときの利光と珠姫との邂逅について、大袈裟な口吻で語った。
「御前さまのたいそううつくしげなお姿に筑前守さまは目を奪われたようすでございました。そのおりの筑前守さまのご立派なこと! 壮健なからだつきも、威風堂々とした御振る舞いも、八つとはおよそ思えぬものでございましたよ」
最近では、ねだりもしないのに勝手に聞かせるものだから、耳にするたび、身びいきな口ぶりに苦笑がもれてしまう。乳母の局はいつも、自分と利光とを褒めそやして言うが、そのような形容は、当時のふたりにはさぞかし不似合いだったことだろう。夫が八つ、妻が三つ。ままごとのような祝言だ。
後に二代征夷大将軍となった徳川秀忠の次女珠姫は、加賀藩主前田肥前守利長の世子、弟の利光に嫁いだ。かわりに江戸へは利長の母、芳春院が証人──人質としてむかった。
加賀と江戸との生きた架け橋。己の存在がいかなる大義を負っているのか、三つの子がどうして気づけようか。珠姫は十四歳を迎えたいまになり、我が身にのしかかる重圧に気づき、うろたえていた。
──こうしたとき、おたあさまが傍にいらしたなら、なんと声をかけてくださるのだろう。
珠姫は、三つよりこちら、加賀で育った。伏見城で別れてから、母とは一度たりともまみえていない。生母の顔も声も、その腕のあたたかさも知らない。否、正しくは、おぼえていないと言うべきか。
首をめぐらせると、灯影に照らされた木戸に、女の影が揺れていた。それが己の影だと気づき、なおさら珠姫は落ち着かなかった。その合間にも、乳母の局の手で寝間の白い単衣に着替えさせられ、髪をととのえられる。
鏡に映る己は、迷い子のような表情をしていた。大きくぱっちりとした目元、肌も、乳母の局ほどは白くはない。背も高い。頬はほんのりと桜色をしているし、髪は赤茶けている。珠姫には、うつくしいと褒めそやされた祖母にも、母にも似たところがない。少しでも母の面影があれば、乳母の局は「まあ、目元が御台所さまにうり二つでございますね」などと賞賛するに決まっている。けれど、そうして母を引き合いに出して物を言うことがないのだから、似ていないに決まっているのだ。
ちらりと鏡ごしに乳母の局を見遣り、悄然とする。
局は美しい。十六歳も年上とは思えない。黒々として豊かな髪、雪のように白い肌はすきとおってさえ見える。目元も涼やかで、年を重ねていくにつれ、しぐさにはしっとりとした色気が出てきた。
比べて自分は、図体ばかり大きくなってしまった。単衣の下に膨らんできた胸元や、横へ張りだした腰を見て、不格好だと思った。ずっとずっと、華奢な妹でありたかったのに。こんな自分を、利光は気に入ってくれるのか。
──どうして、もっと美しく生まれつかなかったのだろう。
黙っていたのを、局は気にしたようだった。
「気がかりがございますか、御前さま」
問われ、珠姫はことばにもできず、助けを求めて手をさしのべた。はたと、さしだされた手を見つめ、躊躇いがちに捧げうけたとたん、乳母の局は血相を変えた。
「まあ、かように冷えて! 女はからだを冷やすものではございません。すぐに温石をご用意申し上げましょう。──これ、だれかある! 温石をこれに。寝間にも火鉢をご用意せよ」
高く手を打って、局が女中を呼び、せわしく立ち動く。残された手を空に浮かべたまま、ぼうっとそれを眺めて、珠姫は思った。
乳母の局が母がわりで、義兄の利長が父、利光が兄。だれひとりとして血のつながりがないというのに、いつわりの家族を思い描いては、ずっとこのままでいられるのだと、珠姫は手前勝手に思いこんでいた。
違ったのだ。局はやはり母ではないし、利長は五年以上前に隠居届を出して、いまは富山高岡城に移っている。そして、利光を兄と慕っていたのは己ばかりで、きっと利光は、珠姫を妹だなどとは、ちらとも思ったことがないのだ。
ひとの気配が近づいてくる。大柄な男の足音──利光だ。局はあわてたようすで温石を珠姫の腕に抱かせるや、その背を寝間のほうへと押しやった。
火鉢の用意は間に合わなかったらしい。寝間の空気はしんと冷えていた。寝間の中央に設えられた寝所、大きく袖を広げた派手な夜具が、いやでも目に入る。
胸がうるさく鳴った。利光に聞こえるのではないかと、珠姫は恥ずかしさに震え、胸を隠すように温石をしっかりと抱えた。
目を上げる。寝間のむこうの戸口に、利光が立っていた。所在なげにしている珠姫を、こちらへ来いと手招いている。
「どうした、珠」
問われて観念し、珠姫は足を踏みだした。
──ままごとは今宵でしまいだ。名実ともに夫婦となるときが、すぐそこまで来ていた。