第四部_だから、胸を張って
本編最終話になります。できるけどやらない魔女ノエル親子による「このセカイのことは、このセカイの者の手で」の方針に従い、最後の決め手はジークムントたちに委ねられます。
◇だから、胸を張って
何も、起こっていない――そう思ったのは俺一人だけだった。
正確には、そう思えたのが俺一人だけだった。
静かな沈黙がこの場を包んでいる。
俺の前方には拳を構えた魔女――創造主の姿。俺の両脇にはそんな彼女へと戦闘態勢を取りながらも戸惑いを隠せない仲間たち。その誰もが動きを止めている。
最初は錯覚だと思った。その状態が数秒続いたところで漸く気づいた。錯覚などではなく、この場にいる者が悉くその時間を停止させているのだ。俺と――それをした張本人である魔女ノエルを除いて。
創造主をも例外としない彼女の力によってこの場には静寂がもたらされた。驚きもあり、しかしどこかでそれに納得している自分がいた。恐らく相手が人間の身であるかどうかなど関係ないのだろう――俺の中には一つの確信めいた考えがあった。
心を読んだように彼女はゆっくり頷いた。そして言うことには、
「迷ってるのね」
俺は頷いた。魔女が既にこの世にない存在だと理解していても、あの姿と戦うことは辛い。創造主にも自分の力が抑制されるという不利益はある。だがそれを相殺できるだけの不利益が俺たちにも課せられた。言わばこれは創造主にとっての保険だ。それも、策略だとわかっていながらも剣を鈍らせてしまう程度には効果覿面の。
「それはリオンの遺志じゃないのよ」
彼女は少しだけ悲しげな表情を浮かべてみせる。そうして不謹慎に笑うばかりの人ではないことを意外に感じる俺に昔の話なの、と切り出した。
「四百年前に存在した古代エウノミアは、クローソーが理想としたような、武力を持たない国だった。武力なんて必要ともしない平和な環境の中に、それはあった。だから隣国から突然の宣戦布告を受けたとき、自分たちに勝算なんて万に一つもないことは誰の目にも明らかだった。
敵の侵攻を目前に控えてトレニアールは決断を迷わなかった。国民を悉く避難させ、エイレネの怒りの受け皿である自分は数少ない近衛の者たちとともに城に残ることを選んだ。ノエルもその場に残った。でもトレニアールはノエルに戦うことを許さなかった。この世界のことはこの世界の者の手で――トレニアールはそう言った。そしてネージュとの戦いの中で命を燃やし尽くした。彼女はエウノミアの誇りに殉じた本物の王様だった。
この話をしたとき、リオンはどんな反応をしたと思う? リオンは、すごく喜んだ。やっぱりお母さんはお母さんだったんだ――って嬉しそうにしてた。きっと彼女の誇り高い生き方に感銘を受けたんだと思う。古代戦争から四百年が経った今、リオンはやっぱりトレニアールの子だった。滅びの運命から目を逸らそうとはしなかった。リオンは聡いから、ノエルになら自分の宿命を変えることもできるだろうと、きっと気づいてた。でも何も訴えることなく、黙ってそれを受け入れた。迷うなら思い出すのよ。今こそリオンの言葉を、遺志を。今まで見てきたリオンがきっと力になってくれる」
俺が見てきた、魔女――記憶が巡る。
霧の森で出会った魔女。
魔女と呼ぶにはあまりにあどけない、儚げな少女だった。
南の森へ怪物退治にともに出掛けた魔女。
俺に本物と確信させるに足る力を見せてくれた。
夫婦花の群生地ではち合わせた魔女。
亡き幼なじみを俺に思い起こさせた。
戦いに迷った俺に喝を入れてくれた魔女。
独りよがりを窘めてくれた彼女が心強くもあり、恐ろしくもあった。
王都で、もう一人の魔女と戦った魔女。
何度倒されても挫けずに向かっていった。
ネージュに体を奪われた魔女。
あのときは本当に死を覚悟したものだ。
一命を取り留めたものの、眠り続けた魔女。
俺が誰かを助けるために行動したのは久しぶりのことだった。
ホウライ山で再会した魔女。
本当はこんなに明るい少女だったのかと、驚かされた。
祭りの空き時間に俺をからかった魔女。
俺は彼女の意外な一面を知った。
そして昨夜。
寂しいと言ったのは、本心だろう。
でもありがとうと言ってくれたのも、紛れもない本心だろう。
魔女は既に、思い出の中の存在だ。その思い出の数では、ユーリイにはかなわないかもしれないが、俺だってたくさんの魔女を見てきた。そしてその魔女の姿からたくさんのものを受け取っている。
魔女が俺に望んでいるものが、わかった気がした――。
「アンタはいったい何者なんだ?」
俺はこれまでずっと「何でもできるすごい人」程度にしか考えていなかった魔女ノエルに、その正体をとうとう尋ねた。彼女は今まで通りに明るく破顔して、こう答える。
「ノエルはノエル。魔女であり仙女であり、吸血姫であり、そしてほのかの母親。それ以上は皆が決めればよいの」
その返答は俺の望んでいた答えとは遠くかけ離れたものだった。だがそれでいいのかもしれない。魔女とは元来、そういう掴み所のない謎めいた者であるべきなのだから。
俺は彼女へと頭を下げる。
魔女ノエルが再び指を鳴らした。
「何も起きないではありませんか」
やれやれといった様子で創造主が発したそれが、再び動き出した時間の中での一言目だった。
「つくづく不愉快な人ですね」
言葉に対して彼女は喜色ばんでいる。どうせ口だけで、実際には何もできやしないのだと魔女ノエルを嘲っているのだ。彼女は自分の時間が凍らされていたことにすら気づいていない。だからあの時間の中で俺が成長したこともまた、知らない。
俺は創造主に向けて一歩踏み出した。
「勝ち目などないとわかっていながら向かってくるのですか」
薄ら笑いを浮かべる相手に頷いてみせる。俺の中には確信があった。
「アンタこそ、止めなくていいのか?」
「フン。造作もない――」
余裕だと創造主は鼻で笑う。だが彼女が、俺を止めることはなかった。それどころか俺を止めるために体を動かすことさえ、できないでいる。
「……動かない? 何故、動こうとしないのです?」
そうこうしている間に俺は、彼女の前に立った。創造主である自分にあぐらをかいているから、彼女はそんなことにも気づかないのだ。
「自分の居場所に土足で踏みこまれて腹を立てるのが、アンタ一人だと思うなよ」
そうだ、忘れているだけ。己を完全無欠の存在だと信じて疑わないからこそ、彼女は足下をすくわれた。俺たちに苦痛を与えることしか考えなかったからこそ、自分が定めたルールすら忘れてしまっていたのだ。
「……屍人使い」
漸く気づいた創造主が苦々しく呟いた。
背後に俺は、魔女ノエルがにっこりと笑っているのを感じる。そう、最初から彼女が言った通り。その体を選んだのが運の尽きだったのだ。
「迂闊だったの。あのまま神らしく戦っていれば確実だったものを、調子に乗って人間なんて窮屈な器に入りこんだりするからこうなるのよ」
「あなたは最初からこれを狙っていたのですか……」
「ううん。願ってたの」
絞り出すように苦しく呟く創造主を、魔女ノエルは素早く否定した。
「お前は自滅したのよ」
その言葉はこれまで彼女が発してきたどの言葉より、その笑顔はこれまでに見せたどの笑顔より強く深く、創造主に響いたことだろう。自信満々の彼女がみるみる青ざめていく瞬間を俺は、目にすることとなった。
「まさか、本当に私を……?」
「最初からそのつもりだ」
俺は言った。
俺たちの背後には数え切れない生命がある。未来がある。敵として立つのが仲間の姿をしているからといってそれは、ここで戦うことでしか守れないものを見捨てるための言い訳であってはならない。
「ま、待ちなさい。私にはこの者を甦らせることもできるのです。この者の傷を癒し、魂を呼び戻すことも自由自在です。ここで私を斬れば、その機会は永遠に失われてしまいましょう。あなたは彼女に残された可能性すら奪うつもりですか。この者を傷つけることに心が痛まないのですか」
それは勿論、彼女は仲間だ。あまり長くはなかったが、同じ時間を生きた大切な家族だ、再び生きて会えるものなら是非にも会いたい。そう思えるだけの存在を傷つけるのにどうして、心が痛まないことなどあろうか。辛いに決まっている。
それでも――俺は首を振る。
「魔女はやっぱり、死んだんだ」
自分自身にも改めて言い聞かせるように俺は言った。
「穏やかな顔をしていたよ。俺はアイツの最期を知らないが、きっと自分の死に痛みも恐怖も感じていなかったんだと思う。きっと自分の一生に満足してそのときを迎えたんだと思う。古代王国の血を引く者として誇り高く逝ったんだと思う。
だからだよ。魔女は俺に『ありがとう』と言ってくれた。死にたくないでもさようならでもない、ありがとうだ。それがどれだけ勇気ある言葉か、アンタにはわかるか?」
答えはない。否でも応でもなしに沈黙を選んだ理由は一つ――創造主である彼女でさえも「死」に恐怖を抱いているのだ。自分がこの世界に、理不尽にもたらそうとしているものの恐ろしさを、自分が与えられるときになって漸く、彼女は悟ったのだ。
かつてネージュは言った――散々人を傷つけておきながら自分だけは無事でありたいなどという都合のいい話があるはずはないと。そうだ、そんな虫のいい話があっていいはずがない。そして創造主といえどもその例外であってはならない。
神も、管理者もこの世界にはもう必要ない。今こそ俺たちが望むのは「人間の」自由と平和だ。成功もある、過ちもある、試行錯誤を繰り返しながら進み続ける明日を俺たちは望んでいる。
それに――俺には守るべき約束がある。
『どうかあなたの手で、わたしを殺してください』
出会ったあの日の言葉が胸に甦る。そんな悲しい願いをこのような形で叶えることになろうとは、あのときは夢にも思わなかった。だがそれはユーリイにもイヴにも肩代わりはできない。魔女と、その魔女に助力を乞うた俺が交わした一つの契約だから。俺がやらなければならないことなのだ。
大きく深く呼吸しながら、心静かに刃の切っ先を相手へと向ける。
驚愕の表情を浮かべる相手を俺は、真っ直ぐに見据えた。
「見せてやるよ創造主。お前が虫ケラのようにしか見ていなかった人間の覚悟を。そして俺たちの誓いを。だが忘れるな、お前を倒すのは俺じゃない、自らの力で未来へ歩み始めたホウライだ。この剣はホウライに息づき、そしてホウライに散っていった者たちの魂だ!」
終わらせてください――。
どこからか聞こえた魔女の声に支えられながら俺は、創造主の胸を渾身の力で貫いた。
創造主は死にゆくその瞬間、果たして何と言ったのだろうか。俺には知る由もない。わかるのは力尽きた彼女の体が、ゆっくり横たわったことだけだった。
こうして最後の戦いは俺たちの、ホウライの勝利によって終幕した。
だがその勝利は俺にとって満足感とも達成感ともほど遠いものだった。いつだって人に助けられるか、その対価に何かを失ってばかりだった俺の勝利は、今回もまた同じだった。偉大な魔女に助けられ、かつての敵に助けられ、死した仲間に助けられて漸く手にすることができた、格好悪い勝利。後味の悪い勝利。だがそれで満足しなければならない、大きな勝利でもあった。
遠くにスミ子の声が聞こえる。二人が追いついてきたのだろう。ユーリイたちも俺を呼んでいる。
皆の元へ歩き出そうとしたそのとき、ふと背後に何者かの気配を感じ俺は足を止めた。懐かしい匂いがする、振り向きはしない。魔女と言いかけて、慌ててその言葉を打ち払う。俺はまだ呼んだことのない彼女の名前を初めて口にした。
「アメリア――」
はい、と答えが返ってくる。やはりそうかと納得する一方、俺はかける言葉に困る。
『謝るのは、ナシですよ。折角満足しているのが惨めになりますからね』
だから次に声を発したのは彼女だった。言おうとしていたことに釘を刺された体となった俺は苦笑いする。なら何を言えばいい、と尋ねる俺を相手も笑っているような気がした。
『バカですね。こういうときに相応しい言葉があるでしょう?』
「あぁ、そうだな」
たった一つ思い当たる。本来なら催促されて言うのは恥ずかしい言葉だが今は、今だけは違うと断言できる。それを言うのに何を躊躇う必要があるだろうか。いや、その必要はない。
「ありがとう」
俺は言った。知恵をもらったこと、力をもらったことを、勇気をもらったこと、最後まで助けられっぱなしになってしまったこと……ありのままを彼女に感謝する。そんな俺に彼女はよくできました、とまず言ってくれた。それから、
『こちらこそ、約束を守ってくれてありがとうございました。わたしが生きた世界を、わたしが愛した世界を守ってくれてありがとうございました。どうか、胸を張ってくださいね』
トン、と背中を押された。
堪えきれずに振り向いた俺の前に、彼女は横たわったままでいる。
ユーリイたちに呼ばれて俺は我に返る。我に返って今度こそ仲間たちの元へ駆け出した。
ありがとう――。
最後にもう一度呟いた声は彼女に届いただろうか?
俺は涙を拭った。




