第四部_ここにいる理由
あくまで全年齢向けの作品です。連想させるも匂わすも狙ってもよかったのですが、私の未熟な技術では難しかったので、健全にいきました。「愛している」はおろか「好き」の一言さえ口にしないほどの健全です。家族として長く親しんできた二人ならではの暗黙の理解を大切にしました。ラストのスミ子の一言がすべてです。
◇ここにいる理由
こっそり部屋に戻るつもりだった俺は、中から聞こえてくる声に気づいた。お手伝いがまだ眠らずにいたことは勿論だが、話し声とも普段の声とも違う、その歌声に何より驚いた。
部屋に入ることが躊躇われる。俺は静かに耳を澄ました。
一人探した故郷の
水面移ろう世迷い月
いつか、睦みて涙拭けば
八千代、九重、永久の縁
人に習いて文、菖蒲
三日待たれず夜を越して
いつか、睦みの七竈
やつるこの身ぞ尊けれ
それは今まで耳にしたスミ子のどの歌とも違っていた。繊細に透き通る歌声も、どちらかというと能天気な部類のアイツがうたっているとは信じ難い。心に染み入る美しい調だ。
「まともな歌もうたえるんだな」
歌の終わりを待って戻り、俺は声をかけた。
「それが、明日うたう歌か?」
言いながら、ベッドに腰掛けているスミ子の隣に自然と腰を下ろす。漸く、普段通りに振る舞うことができた気がした。スミ子は俺が今までどこで何をしていたのか、尋ねることはせず小さく頷いた。
「数え歌なのです。お母さんが子守歌にうたってくれた」
「思い出の歌だな」
「はい」
それが自分の一番大切で、一番好きな歌であると言うとスミ子は目を閉じ、今しがた口ずさんでいた穏やかな旋律を繰り返した。
俺もまた自然とスミ子に合わせ目を閉じる。
再び聞いたそれは、憂いを帯びた独特の調のためか、数え歌というよりむしろ恋歌であるようにも感じられる。そこに表された孤独や再会の喜びは、俺の中ではスミ子自身を主人公として描かれていた。本当に優しい、物語だ。
「……スミは、スミですよね?」
穏やかな余韻に浸る中で、うたい終えたスミ子が微かな声で言った。俺は何も言わなかった。スミ子がそう尋ねてきた理由を俺は知っている気がした。多分、同じ理由なのだ。
俺が魔女ノエルとの対面に慎重な姿勢を取ったのには、スミ子に訪れ得る変化に対する恐れがあった。記憶を取り戻したときコイツが別人になってしまったら、この十年間のこと、俺たちのこともすべて忘れて別人になってしまったら――それを俺は恐れていた。だがその思いは今、俺以上にスミ子の心にこそ暗い影を落としていた。誰が何を言おうとどう励まそうと肩代わりはできない。当事者にしかわからない、使命感や責任感では抑えきれない感情がある。それをスミ子は涙を含んだ声で吐露したのだった。
「ワガママだってことはわかっています。そんなことを言っている場合じゃないってこともわかっています。でも」
でもスミは今のまま、スミのままで――。
最後まで言うことなく口を閉ざす。たとえ本心でも、自分がそれを口にしてはいけないことをスミ子はよく理解している。そうだ、承知したからこそここにいるのだ。
目当ての者に会ってもいない内から考え過ぎだと、人は笑うかもしれない。俺だってできるなら、そうやって笑い飛ばしたい。だがやはり、その通りのことが起きてしまったらという不安が残る。確証もないままに大丈夫などと言うのは無責任に思えてならない。
それは他でもない俺自身の信条に反する行動でもあった。結果を見るまで結論を定めない、その先に待つ希望を信じて突き進む行動原理を自ら否定することにもなる。その信条を無意識に曲げようとしている自分に俺は気づいた。かける言葉に僅か、迷う。
ここで「文句を言うな」と言えばこのお手伝いはきっと、逆らうことはしないだろう。「やめてもいい」と言っても多分、責任感がそれを許しはしない。求められている言葉が何であるかは瞭然だ。
記憶を取り戻すことなんて諦めろ――決定的な指示をスミ子は待っている。
それを理解したとき、どうして仙女が俺たちに二人だけの時間を与えたのかがわかった気がした。いたずら、悪ふざけ、傍迷惑……そう思っていた仙女の存在を俺は見直した。それがただの過大評価の深読みだとしても俺は彼女を信じる。きっと他の誰にもできない、コイツのために、俺にしかできない仕事をさせるためだったのだ。
俺は落ち着いていた。かつて戦うことに迷いを抱いた自分に対する魔女の心境が今ならわかる。ここで大切なのは何を言うかではなく、どう伝えるかだ。
長い沈黙を俺は費やし、やがて言う。
「お前のことはお前が決めるんだ」
普段通りの声で発したつもりのそれは、或いはスミ子にとって冷たい言葉だったかもしれない。だが薄情な気持ちからではなかった。スミ子を家族として大切に思うからこそ逃げ道をつくって甘やかすのではなく、コイツ自身の、尊重されるべき意思を聞きたかった。
例えば俺には国を変えたいという夢の果て、今は世界を救ってみせるという意志がある。魔女はそんな俺の剣となってくれた。ユーリイたちには守りたい人がある。
この戦いは皆がそれぞれに覚悟を決めて臨んだ戦いだ。これから先はどうあっても後味の悪さはつきまとうだろう。後悔するときもあるに違いない。だが最後まで自分たちの選択に、行動に責任を果たす、果たさなければならない、俺たちの旅はそれを承知の旅なのだ。
俺はその選択次第で世界がどうなるとか皆はどう考えているとか、そういったプレッシャーをかける言葉は使わなかった。そうしておいて誰に強要されるでもないスミ子自身の意思を問う。この世界のためにどうしたいのかについて。そしてこの世界のためにどう責任を果たしたいのかについて――。
「……坊っちゃまは、卑怯です」
俯いたまま、やがて俺以上に長い沈黙を挟んで答えはあった。スミ子はそれ以上を言わなかったが、その一言だけでもしっかり意思は伝わった。コイツは自分の力で決めたのだ、恐れず前に進むことを。
その覚悟を讃えて隣の少女の頭をそっと撫でてやった。そうとも、何があってもコイツはスミ子だ。部屋の隅、庭の隅、台所の隅で震えてばかりの、我が家の大事なお手伝いなのだ。記憶を取り戻してこの十年間のすべてを失おうと、俺たちがそれを忘れない。きっとまた今までと同じように受け入れる。家族だから、それができる。
心地よさそうにスミ子が身を預けてくる。その拍子に、どこに挟まっていたものか、俺の服から一枚の紙が落ちた。三つ折りされた上質なそれを開くと、そこにはかわいらしい文字でこう書かれていた。
『キスをする』
それは言わずと知れた仙女からの手紙だった。
「い、今更ないですよね、そんな――」
真っ赤になって狼狽えるスミ子を遮るように俺は、唇を重ねた。
確かに今更だ。だがこのときを逃したらもう、二度とそのときは訪れない。
長い長い、キスだった。
「一つだけ……自分がこの世界にやってきた理由が、思い出せた気がします」
やがて顔を離したスミ子が独り言のように言った。
そうして静かに語るのは山頂での話の続きだった。革命の結末を変えるためにやってきた二人の意思の相違についてだった。
「イヴさんは何をおいてもアミさんを助けたいと願った。そしてスミは」
もったいぶるように、一呼吸。
「きっと、こうして坊っちゃまと一緒にいられる世界が欲しかったのですね」
しみじみ言い終え、照れくさそうに笑った。




