もう一つのプロローグ_暗転
出版社から自費出版の費用として100万円(ローン組み可)を提示されたとき、商業的な意味での自費出版を諦めた記憶があります。
◆一番はじめにあった物語~暗転
アメリア・リオン・エウノミア。
わたしの、名前。
わたしは、何者?
わたしは、どこから来たんだろう?
新たな疑問が押し寄せてきます。火事に気づき集まってきた人々の中を駆け抜け、アメリアは一人教会を目指して無我夢中で走りました。
今夜ならすべてわかる。ネージュが教えてくれる。爺様が言っていたことも、わたしの正体も、どうしてわたしが皆を手に掛けなくてはならないのかも――。
『久しぶりねアメリア。この姿で会うのは初めてだから一応言っておくわね、初めまして』
声をかけてきたのは一年中絶えることのない聖火の光が揺れる礼拝堂、中央の台座に安置されている『全知全能の書』の隣に腰掛けていた少女でした。
「あなたは、ネージュ?」
『ええ。本来の姿を保てるようになったのよ』
台から降り立ったネージュは、その身に纏うきらびやかな衣装を揺らしながら上品に頭を下げました。
『あなたが貴重な血を捧げてくれたおかげでね』
アメリアは年の頃も背格好も同じくらいに見えるこの少女を、容姿から動作の優雅さまで含めてきれいな子だと思いました。ただ、無理に口角をつり上げたような笑みと鋭い眼力を持った瞳を少しだけ恐ろしいと感じます。
『ところで今日は何の用かしら?』
「わたしの正体を聞きに来たの。自分がどこの誰で、どうしてここにいるのか」
まくし立てるように言うアメリアを彼女は「本当に、自分の好奇心に従順なのね」と笑いました。そしてくるりときびすを返し、再び台座に腰を落ち着けました。
『あなたの本当の名前はアメリア・リオン・エウノミア。エウノミア王国終の女王トレニアール・エウノミアの血を受け継ぐ、王家の忘れ形見よ』
「わたしは、それじゃあ王女ってこと?」
『いきなり信じろって言われても困るかもしれないけど』
「信じるかどうかは後で考えるわ」
アメリアは興奮のあまり相手を遮って言いました。
「それより続けて。王女って言ってもエウノミアはもう四百年も前に滅びているのよ?」
『そうね。あなたの言う通りエウノミアは戦争により滅びた。でもそのときが来るのを前もって知っていたとしたらどうかしら』
「前もって知る……」
アメリアは爺のことを思い出しました。彼は自身の予知した恐ろしい未来を変えるべくアメリアを手に掛けようとしました。そして変えられない未来に絶望し自ら命を絶ったのです。
『滅びの運命は変わらない。でも王の血筋だけは絶やしてはならない――そう考えた王族たちは、時渡りの秘術を用いて幼い王女を別の時代に逃がすことにした』
「それが……わたし?」
アメリアは困ってしまいました。以前ユーリイから聞かされた話もにわかには信じ難い話でしたが、それでも、そのときには両親を始めとする証人がありました。しかし今回は違います。誰がこの話を事実であると証明してくれるでしょうか。
「まるでお伽話ね」
アメリアは言いました。
『本当に。でき過ぎたお話ね』
ネージュは鼻で笑います。
『でも、事実なの。あなたにはエウノミア王族が女神より授かった奇跡の力がある。それにね、間違いない。同じ味がしたのよ』
「味?」
『ええ。あなたの血は、私が殺したトレニアールと』
胸の奥でトクン、と音がしました。途端にアメリアの目には今まで友達だと思っていたネージュがまったく別の存在に見え始めました。白々しい笑顔と、笑っていない目と、冷めた口調……それはどこかの物語で読んだ悪者の態度によく似ています。善人のフリをして他人の心に入りこみ、信頼させておいて最後の最後で平然とその心を踏み躙る希代の悪者に。
騙された――その事実を前に全身の力が抜け、アメリアはぺたりと尻もちをつきました。クモの巣に捕えられでもしたようにその体は動かず、いえ、そうしようという意思すらも挫かれていました。
『長かった鬼ごっこも、これでおしまい』
冷笑を浮かべるネージュの表情にアメリアは彼女の本質を見たと思いました。
「あなたは、誰なの?」
震える声でアメリアは言いました。あの「トクン」が、本能が危機を告げる音だったことはわかっていました。目の前の少女はもう様々な知識を披露してくれた友人のネージュではありません。もっと凶悪な害意を持った存在です。
『あなたが気づいていないだけよ』
皮肉ったように笑うネージュの手には小さなガラス片が握られています。ゆっくりと歩みすぅっと伸ばした手で、彼女はそれをアメリアの首筋に突きつけました。あと少しでも力を入れれば間違いなく、致命傷を与えることができるように。
アメリアは固く目を閉じました。
そのまま一秒、二秒、三秒……。
覚悟していた瞬間は訪れません。
更に四秒、五秒、六秒が過ぎました。
堪えきれずにアメリアは目を開けました。
え、と思わず声が出ました。
ネージュは変わらずそこに立っていました。凶器を突きつけ、氷の笑みを浮かべたまま。しかしそれだけでした。まばたきもせず微動だにせず、彼女は一つの像として立っているのです。周囲に目を向けると聖火の炎も星々の輝きも、目に映るものは悉くその動きを止めています。教会全体があたかも一枚の絵画になったような保存の瞬間。何の音も聞こえず、そこではすべての時間が止まっていました。
不意にどこからか風が駆け抜けます。春の香りとともにそれはアメリアを縛る不可視の糸を裁ち、そして澄んだ声が奏でる不思議な歌を運んできます。
汝、気高き心を示し美しき理想を体現する者
汝知るべし、己の力
血は宿命
翼は運命
命燃やして戦え乙女
命短し笑みせよ乙女
突如、教会の床が崩れ足下にぽっかりと巨大な闇が口を開けました。
短い悲鳴だけあげてアメリアはその闇の中へと落ちていきます。
『またあの女か!』
遙か頭上に置いてきた光の中でヒステリックな声がこだましました。
宇形安久里さんはお元気でしょうか。私にとってはちょっとした恩人です。




