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人生パンツ色――
だったらいいのにねぇ。
そう思わない?
パンツは平和の象徴だし、パンツが好きな人に悪い人はいないし。やっぱりパンツこそ至高。パンツこそが、ぼくの求め続けていた最高にして、人生のテーマなのさ。
なんでかって?
うーん。よし。教えよう。パンツを――。
ぼく。境心一はこの世に生を宿すや否や、「エロ」を知る異端児だった。
軽く例をあげれば、幼稚園生時代。
皆がお遊戯に熱をあげているあいだ、つねに寝っ転がり、スカートから覗く白い布地を観察することがぼくの日課だった。
外に出れば、ジャングルジムの下で待機し、女の子が上った真下でずっと見上げていた。
すべり台も悪くないね、と階段下とか、すべりの下で待機していたが、一度ケガしたから、やめたっけ。
だが。
パンツの宝箱――
ぼくはそう異名で呼んでいる。
数あるパンツの聖地で、群を抜いての「鉄棒」は、ぼくの中でも王道を走った。
眺めているだけで、パンツが見れて。目を開けていれば、あられもない姿が視界に飛びこんでくる。遊具界の英雄が現役で目の当たりできる。
至近距離から拝みたいときは、砂場が絶好のスポットだった。
お山やら蟻地獄を作っている最中に、さりげなく顔を近づけることが自然にできるのである。
そんなこんな自由奔放に振る舞っていた、ある日のお昼寝の時間。となりの可愛い女の子からの好意らしきものに気づいた。
ぼくは、恥をかかせまいと知識が豊富だったのもあり、当然ながら×××なことをした。
このときからそうだった。なにかが違う、と。ぼくが好きなのはパンツであって、それに相当する女性の身体であって、決してそっちに興味がそそらない。
それは今現在でも変わらない。
ぼくが小学校高学年になるころ。いまさら保健の授業――つまり性教育。
これにより、男女間に溝ができたのである。由々しき事態かもしれないが、幾分気にするような出来事でもない。
要は、はじまりなのである。
互いを気にすることで刺激し、高めあい。身だしなみを向上させる。結果。パンツに洒落っ気が出て、バリエーションが豊富になる。素っ気ないものから卒業し、色気や露出に磨きと手間をかけだしたのだ。
母親や姉が近くにいれば、真似て背伸びをしたくなるのが女子の性。
下に体操着を穿く女子も急増したけど、問題はなかった。
布面積の小さな、年相応の勝負パンツと呼べない過激なパンツを穿いてくる、おませな女子。それをめくるのが楽しい。反応もグーンと変わって、興奮した。顔を真っ赤にして、教室から出ていくんだもん。
心の成長と一緒に、恋なるものも自覚を新たになる。
恋愛初心者だから、いったいどこから仕入れてきたのか、ぎこちない。見よう見まねのやり方。雰囲気だけ一人前の誘惑をかもし、大人顔負けの行動力。
清水の舞台から飛び下りる気持ちで、告白するおませな女子。
鈍感な男どもでも、魚心あれば水心。そんな一歩踏みださせるイベント。性教育はすごい。素直に感心していた。
しかし女心と秋の空ということわざがあるみたいに、そこまで発展しないのが、いわゆる子ども。
流行のようなラッシュの波は、ぼくにも当然のごとく漂流してきた。が、前述したとおり、そっち方面に目も暮れず、パンツに興じるのだ。
いつもいつでも、一番近くでぼくを昂らせてくれるパンツ。
リズムに乗って、ステップを踏んで、チラリ覗かせて、こんにちは。
しゃがんで、煽って、めくって、センセーション。
それだけで、楽しかったし、嬉しさで胸が躍っていたぼくのパンツな日常。
とくに小学生最後のホワイトデーの日。
同級生の小学生パンツを見収めにしようと、ぼくも卒業パンツで終わりを締めくくった。
クラスでも目立って可愛い子四人に、全財産と卒業式とパーティーに出席しないことを条件で、四人同時に見上げアングルでパンツを拝ませてもらったときだ。
あれはよかった。
いまだに冷凍バナナになれる。
やはりいい、パンツは。幸せな気持ちになれる。
好きなものを好きで、一心不乱に追いかけた者が勝つ。そう信じられるね。
だからぼくは、パンツを信仰し続けます。いままでも、いまも、これからも――。