第2話 小さな勇者
揺れている感覚で目が覚めて、クモの背中に乗せられていることに気づいた。
背中に生えている毛のようなものが顔面にあたり、あまりの気持ち悪さに吐きそうになったので寝返りを打った。
全身を糸で縛られていてこれ以上は動けそうもない。
いっそ意識がないうちに食べてくれたらよかったのにな。
クモの背中にルカの姿がないことが不幸中の幸いか。
いや、もしかしたら先に食べられたのかも……。
「あのークモ女さん、すぐには食べないんですか?」
確か言葉が通じていた気がするので聞いてみる。
それにしても魔物に言葉が通じるなんてすごい世界だな。
それとも、もしかして人間なのかな。
瞬間移動装置の実験に伴う誤作動で分子レベルでクモと合体してしまったとか。
しかし、このサイズのクモがいることも十分恐ろしいことに思えたので考えないようにした。
頭の部分から美少女が生えているだけで気味の悪さは驚くほど緩和される。
しかも裸だ。
画面の中ならよかったのにな。
「目が覚めたのか。フハハ、それはよかった。よろこべ! 貴様を私の婿にすることにした。それから私の名はアリアだ」
ダメだ。言葉が通じていない。
同じ言語を使っているだけで意味は違うんだ。
おそらく「人間の釜茹で〜カエルの内臓を添えて〜か、野鳥の眼球香る蒸し人間かどっちがいい?」的な邪悪な質問でもしてきたに違いない。
野菜を食べろ、野菜を。
ああ、父さん母さん先立つ不幸をお許しください。
空を見上げるとそこに木々はなく夕焼けが広がっていた。
とっくにアレックスもローラも気づいて探しに出ている頃だろう。
普段から森にいるアレックスはこの化け物の事を知っているのだろうか?
もしかして浮気相手?
アレックスは生前の俺と同い年くらいに見えたから、若干幼いクモ女になびいても不思議はない、のか?
妄想が広がっていく。
「ついたぞ」
そう聞こえた。
これはクモ女の言葉では「さて飯にするか」だ。
乱暴に背中が揺すられ、俺は地面に転げ落ちた。
近くに木でできた小屋が立っていて、そのそばに小さな川がある。
これがクモ女の巣か。
中にはおそらくクモ男とクモ息子とクモ爺さん婆さんなどなどがいて、クモ的な儀式が行われていて――。
「さっきまでの威勢はどうした?」
これはクモ女の言葉では……、もう面倒だからいいか。
とりあえず邪な言葉を吐いている。
俺が黙っていると体を抱きかかえられた。
俗に言うお姫様抱っこだ。ちょうど俺の左手が胸の辺りに触れたが糸で包まれているせいか柔らかい感触はない。
そのまま抱えられて小屋に入った。
小屋の中は案外普通でクモファミリーたちは一人もいなかった。
ベッド一つと普通の机と椅子、あとは暖炉があるだけだった。
俺はベッドに寝かせられ、クモは暖炉に火をつけ始めた。
クモ女にも魔法は使えるのだ。
だが今は春である。暖炉は暑すぎるので必要ない。
やはりアヤシイ儀式か、俺を料理するに違いない。
そう思っていると、クモ女は暖炉のまきを一本取り俺に近づけた。
火の熱によってどろどろと糸が溶け始め俺は自由の身になった。
俺は糸を振り払って床に捨てた。
「名を聞かせてもらおうか」
クモ女はそう俺に言った。
「ニコル。ニコル・アスロンだ」
「そうか。私の名はさっき言った通りだ。小さな勇者よ、婚姻の契りを結ぼうではないか」
なんと意外! クモ女には言葉が通じるのか!
これは世紀の発見だ! 素晴らしい!
これで俺は億万長者だ! ヒャッホーイ!
と、言うのは冗談として。
「俺は婿になる気はないし、食われる気もない!」
せっかくのチャンス逃す手はない。
俺は一目散にクモ女、もといアリアの脇を抜けドアから出ようとした。
「今出てもエサになるだけだ」
そう言われて踏みとどまった。
嘘かもしれないのにね。
だが夜というものは基本的に危険なものだし仕方ないか。
俺は再びベッドに戻って座り込んだ。
眠い。今日は生まれて初めて走って走って走った。
危害を加えられることはなさそうだし少しくらい眠っても問題ないだろう。
「私の一撃を耐えたのは貴様が初めてだ。この森の主として三千余年この森を守ってきたが、まさかこのような幼子にこんな力があるとは……」
俺がウトウトしているとアリアが語りだした。
「殴っただけで倒してきたのか?」
「気がつかなかったのか? 私は体を変化させる魔法を使える」
そう言ってアリアは下半身をクモからヒトへと変化させた。
「ちょっと! やめてくれよ」
俺は顔を背ける。
ようやく気分は平静を取り戻し、女の裸体に気がついた。
「すまん。一人で暮らしていると気がきかなくなってな」
確かに一人暮らしだったら全裸だよね。
俺も昔はずっと裸だったよ。
そういえばアリアの裸体は直視できないほど美しい。
対峙しているときは気にも留めなかったが、不健康ではない程度に白い肌で草木のようなみずみずしい緑色の髪が際立っている。
アリアは掛け布団をまとってベッドに座った。
「それで、あの時なにしたんだ?」
「こういうことだ」
アリアが手刀の形を作ると、肘から先がだんだんと光沢を放つようになり、色も形も銀色の綺麗な刀のような形の何かに変わった。
「切ったのか」
「切れなかった」
そういってうなだれた。
俺は自分の背中を触ってみた。
が、特に傷跡はない。
「おぞましいほどの魔力だった。なにか特別な訓練でもしているのか?」
「それが…………」
それから俺がこの世界のことがなにもわからないこと、魔法はまだ使えないことを話した。
アリアは長生きしているということもあり、アレックスやローラでさえも知らないようなことも教えてくれた。
まず、魔物とはこの世界の人ならざるもの全般で、人に利益をもたらさないものを言うらしくアリアもそのうちに入るらしい。
ちなみにアリアはエンシェントフェアリーという種族でその数はこの世界中でも片手で数えるほどしかいないらしい。
クモの姿のフェアリーってなんだよ、とツッコもうと思ったが妖精ってそんなものらしい。
あと衝撃の事実も知った。
俺はこの世界に来てから、ここは中世レベルの文明と魔法で成り立っているものだとばかり思い込んでいた。
だがそれはここ数百年の話で、かつては科学文明が発達していたらしい。
まあ家から出たことのない俺には知る術はなかったけど。
それから異世界から転生してきたことは伏せておいた。
転生してきたことを言わないほうがいいことは相場で決まっているからね。
最後に魔法について聞いた。
「ならばとりあえず今は魔石を探すといい」
魔石って心踊る単語だなあ。
でもローラもアリアも使っているそぶりはなかったけど。
「それはどこにあるんだ?」
「どこにでもある。人間の子は学校に行くんだろう? そこにもおそらくあるはずだ」
「道具みたいな感じなのか?」
「まず魔法というものはどういうものか説明してやろう。まず人間に魔法を生み出す力はない」
いきなり絶望する言い方だなあ。
「しかし、人は魔法を使う。なぜか! 魔力は万物にある。ゆえに人にも存在する。貴様が私の攻撃から身を守ったのも魔力だ。魔石なしでも身を守る程度なら使えるがそれはもともと持っている体の力を増強しているに過ぎん。だが人は火を起こし、水を流し、草木を操作し、地形さえも作り変える。それが魔石の役割だ。
人が魔法を操るには魔石と自らの力をリンクさせねばならない」
「リンク?」
「そうだ。世界のいたるところには魔石がある。大きさはこの小屋くらいで、並みの生物では動かせない。人はそれに触れ力を感じることで、石の力に対応した力を離れても使えるようになるのだ。己の魔力を魔石に送りそれを何らかの現象の元に変換して魔石が送り返す、魔石から戻ってきた力を人が使うのだ」
つまりなんだろう。
サーバみたいな感じかな?
「なら、アリアは変身の魔石とリンクしているわけだな」
「私は違う。もともとそういう力がある」
なんか難しくなってきた。
「とどのつまり魔石を探せばいいんだな?」
「はじめに言っただろう?」
そうだった。
たぶん疲れているんだろう。
もう眠ろうか。
朝になれば助けが来るかもしれない。
そう思って睡魔に身を委ねた。
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助けが来たのは夜中だった。
鍵をかけたドアが蹴り倒されて俺は目が覚めた。
俺はベッドで眠っていて隣には裸のアリアがいた。
って、まだ裸だったのかよ。
「ニコル!」
ドアだった場所からまず見えたのは斧を持ったアレックスだった。
後ろに見えるのはあったことのない大人の男達だった。
ほとんどのものたちが腰に剣を挿しており、それとは別に各々武器を持っている。
アレックスのとは違った斧を持つものや杖を持つもの、身の丈ほどの大剣を持つものもいた。
俺はベッドから飛びおりて、ドアに走った。
「怖かっただろう? 早く逃げるぞ!」
アレックスと屈強な男達は連れてきた馬に飛び乗った。
俺はアレックスの前に乗せられた。
馬に乗るのは初めてだった。
出発して五分くらい経った時だった。
「レイシーが追ってきたぞ!」
しんがりを務めていた大剣を持った男が叫んだ。
「パパ、レイシーってなに?」
「ニコルを捕まえようとしていた化物だけど、もう大丈夫だ」
アレックスはさらに馬を速めた。
「私の夫を返せェェェ!」
アレックスで見えないが後ろでアリアが絶叫している。
いつ夫になったんだよ。
「アンタは子供を連れて逃げろ」
杖を持った男がアレックスにそう言った。
「協力してくれたあなた方を置いていくわけにはいかない」
「わしらは魔石を探しに来たんだ。森の掃除は仕事のうちだ」
「すまない」
アレックスと俺はそのまま男達を置いて走り抜けあっという間に森の入り口の家にたどり着いた。
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男たちが戻ってきたのがそれから数分後のことだった。
全員無傷でまるで芝刈りにでも行ってきたかのようにすっきりした顔をしていた。
そんな彼らにアレックスが尋ねた。
「ありがとうございました。なんとお礼を申し上げたらいいか」
リーダーらしき斧の男が答える。
「いや、この程度のことは仕事のうちにも入らんよ」
「いえ、あなた方がいなかったら今頃息子はレイシーに食われていたでしょう。あいにくしがない木こりの身ゆえ差し出せるものはありませんが夕飯はご馳走させてください」
「それは助かる」
もう夜中だったが、そのあと酒宴が開かれていたみたいだが三歳児の俺はすぐに眠ってしまった。
ルカも怪我なく家にたどり着いていたみたいで、こってり絞られた様子が見て取れた。
その日からルカが俺に悪態をつかなくなったのも大きな進歩だろう。
といった具合に俺の初めて外出は無事帰宅によって終わりを告げた。