表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

Second episode

物語としては短編ですが、3編の物語を同じ設定で書いていますので、背景を省略しています。その為、先にFirst episodeをご覧になってからお読み下さい

「よう、今日も早起きだな」

幸太郎は相棒の彦星に声を掛けた。

彦星は幸太郎の声を聞き、プールから上がると激しく身震いをした。

幸太郎は持っていたバケツからアジを1匹掴むと、プールに向かって投げ入れた。

待ってましたとばかりにプールに飛び込んだ彦星は、沈んでいくアジをパクリと口に入れた。

「美味いか、彦星」

幸太郎が彦星の担当になってから三年が過ぎた。

十五歳になるホッキョクグマは、七夕にやって来た事から彦星と名付けられ、それが自分の名前だと何となくわかっているらしい。

彦星はプールから顔をひょっこりと出し、次に投げ入れられるであろう餌を待っていた。

朝の食事を済ませてプールから上がり、お気に入りの場所でゴロンと横になる彦星を見て、幸太郎は事務所に戻った。

「彦星の様子はどうだい?」

園長の三沢が声を掛けた。

「今日もご機嫌ですよ」

「京子が死んでから三年かぁ。彦星も寂しいだろうなぁ」

幸太郎は三年前にツキノワグマの担当からホッキョクグマの担当に変えられた。

ホッキョクグマの京子が死んだ年、ニ十年以上担当していた前任者が退職した為だった。

ホッキョクグマは園内でも人気の動物なので、彦星の健康状態を気に掛ける者も多かった。

「我が物顔で泳いでますよ」

プールを悠々(ゆうゆう)と泳ぐ彦星を想像しながら、園長は嬉しそうに頷いた。

大体の飼育員はニ、三種の動物を担当していたが、幸太郎は彦星の担当だけだった。

代わりに園内の雑用や案内係などをこなさなければならなかった。

飼育日誌に朝の状態を書き込み、開園の準備を手伝う為に事務所を出ようとした時、先輩の溝口に声を掛けられた。

溝口は幸太郎の四つ先輩で、幸太郎が担当していたツキノワグマを初め、三種類の熊達を担当していた。

「幸太郎、テレビ見たか?」

「テレビですか?昨日は当直明けで爆睡してましたよ」

「何か、重要な放送が今日の十時からあるらしいぜ」

「十時って開園時間じゃないですか。そんなの見てる暇なんてないですよ」

幸太郎は肩をすくめて見せると、彦星の元へ向かった。


客の観覧スペースを竹ぼうきで丁寧に掃き、彦星のプロフィール板を雑巾で拭いた。

時計に目をやると九時半を回っていた。

慌てて掃除用具を元に戻し、ペンギンエリアへ走った。

ペンギンエリアは道を挟んだ隣にあった。

既に奥の檻の扉が開き、ペンギン達が展示スペースで思い思いに過ごしていた。

「ちょっと、遅いんじゃない?」

ペンギン担当の瑞希は幸太郎の二つ先輩で、キングペンギン、ケープペンギン合わせて三十五頭を担当している。

ホッキョクグマエリアの掃除が終わると、ペンギンエリアの掃除を手伝うのが日課となっていた。

「すいません」

幸太郎は用具ロッカーから竹ぼうきを取り出し、観覧スペースを掃きだした。

「こっちは良いから、あっち」

瑞希に怒られる幸太郎の姿を、ペンギン達は興味深そうに眺めていた。

「あんまり見るなよ」

ペンギン達の好奇の視線に、幸太郎は気まずい思いだった。

「もうすぐ開園ね」

一通り掃除が終わり、瑞希は掃除の終了を合図した。

「僕は彦星の所に戻りますね」

幸太郎は竹ぼうきを元の場所に戻すと、逃げるようにその場を去った。


彦星は相変わらずお気に入りの場所に寝転んでいたが、幸太郎の姿を目で追っていた。

「お前は気楽で良いよな」

幸太郎の言葉に、彦星はあくびで返した。

彦星にもバカにされて、幸太郎はため息をついた。

「おはようございます」

館内のスピーカーから開園放送が流れた。

入場ゲートから順番に見ていって、ホッキョクグマにたどり着くのは子供の足で二十分といった所だ。

幸太郎は朝一番に来る客達を、彦星と迎えるのが日課だった。

「今日は愛想良くしてくれよ」

お腹を満たして満足した彦星は、そんな幸太郎の願いと裏腹に、寝返りを打って壁の方を向いてしまった。

「全く、お前は…」

幸太郎は動物が好きという理由もあったが、動物を見て喜ぶ子供を見るのが好きでもあり、飼育員の道を選んだ。

彦星は子供の人気者で、機嫌良くプールで泳いでいる時は、子供達の歓声が辺りに響き渡る。

彦星もお調子者なので、子供の黄色い歓声に気を良くして、陸に上がってもゴロゴロと転がって見せたり、プールに勢い良く飛び込んで見せたりして、更に歓声を集めようと愛らしい姿を見せてくれる。

幸太郎が(こいつ、本当はわかってるんじゃないか?)と思う時があるほど愛嬌がある。

しかし、機嫌が悪いと寝たまま全く動かない時もある。

客に手を振れとまでは言わないが、全く動かない姿を子供達が眺めているのを見てしまうと心が痛い。

「もうすぐお前のファンが来るぞ。お客様あっての動物園なんだからな」

ピクッと耳を動かしただけで、彦星はそっぽを向いたままだった。

時計に目をやると十時半を過ぎていた。

いつもなら一番の客が来てもおかしくない時間だ。

しかしその日は客の姿どころか、声一つ聞こえない。

「お前がそんな態度だから、お客も来なくなったじゃないか」

幸太郎は捨てゼリフを残してゲートに足を向けた。


ゲートにたどり着くまで、お客の姿は一人も見なかった。

「お客、来てないんですか?」

ゲートの係員に声を掛けた。

「ええ。今日は一人も」

幸太郎は首を傾げた。

幸太郎の知る限り、例え平日といってもこんな事は初めてだった。

事務所に戻ると、職員達が皆深刻な顔をしていた。

「どうしたんですか?」

側にいた溝口に声を掛けた。

「大変だぞ」

溝口は血の気の引いた顔でそう呟いた。

事の次第を聞き、幸太郎は呆然と立ち尽くした。


その日の来場者数は、たったの三十六人。

動物園始まって以来の事だった。

夕方早々にゲートを閉め、職員全員が集められた。

「皆知っていると思いますが、大変な事態となっています」

沈痛な面持(おもも)ちで園長が話し始めた。

「私自身、かなり動揺しています。恐らく人類全てがそうだと思います」

園長の言葉を力なく聞いていた。

そして、園長は核心に触れた。

「明日以降、来場者数は極僅(ごくわず)かになる事が予想されます。その為、明日から三日間は閉園とします」

周囲がざわついた。

「役所にも伝えてあります。ただ、動物達は私達の手を必要です。だから、大変心苦しいのですが…」

園長の苦痛に歪んだ顔を見て、周囲は息を呑んだ。

「出勤のシフトを決めて、動物達の世話を続けたい」

再び周囲がざわめきたった。

「動物の世話なんて、私達じゃ無理です!」

「そうだ。閉園するなら俺達はいらないじゃないか!」

「じゃあ飼育員だけ出勤すれば良いって事か!」

「そういう訳じゃないけど、俺はただの清掃員だから…」

「自分だけ良ければそれで良いのか!」

喧々諤々(けんけんがくがく)の様相に、園長は苦悶の表情を浮かべた。

「わかりました。確かに私には強要できません」

園長は声を張り上げて叫び、周囲はやっと落ち着いた。

「明日以降、皆さんには出勤を強制しません。世話を買って出てくれる方のみ、出勤をお願いします」

そう言って深々と頭を下げた。

散会となり、皆は散り散りに別れていった。

幸太郎は園長の姿を横目で見た。

机に倒れこむようにして、頭を抱えていた。

「幸太郎。飲みに行こうぜ」

溝口が声を掛けた。

「今日は…」

「良いから行くぞ。瑞希ちゃんも誘ってあるから」


動物園の近所にある居酒屋は、幸太郎が住む寮からも近い。

瑞希も近所にある女性寮のアパートに住んでいる。

溝口は自転車で二十分ほどのアパートに住んでいたので、三人でよく飲みに行っていた。

「とりあえずビールね」

溝口は慣れた口ぶりで店員に言った。

「いやぁ、まいったなー」

冷たいおしぼりで顔を拭きながら、溝口が言った。

「溝口さん、それオヤジっぽいから止めた方が良いですよ」

「おれは立派なオヤジだよ。娘の写真見るか?」

そう言ってポケットから免許証入れを取り出して、愛娘の写真を瑞希に見せた。

「もう見飽きましたよ」

瑞希は溝口の手を押し返し、呆れ顔で携帯をチェックした。

「男から電話か?」

からかう溝口に、面倒臭そうに答えた。

「そんなんじゃありません」

「だったら目の前に手頃な奴がいるじゃないか」

溝口は幸太郎に視線をやった。

「えっ、僕ですか?」

「お断りします。私は白熊の次の存在なんて嫌ですから」

「はっはっはっ。幸太郎の恋人は彦星だもんな」

店員の持ってきたビアジョッキを片手で握ると、テーブルの中央に差し出した。

「お疲れ様でした」

簡単な乾杯を済ませ、思い思いに料理を注文した。

「でも、どうなるんでしょうか?」

オムレツを小皿に取り分けながら、瑞希が心配そうに言った。

「宇宙は専門外だからな」

溝口は頼んだ追加のビールに手を伸ばしながら答えた。

「宇宙に熊がいるなら、幸太郎が詳しいはずなんだけどな」

「いたとしても、僕は熊の事しかわかりませんよ」

幸太郎はビアジョッキから滴る水滴を何度もおしぼりで拭いていた。

「そうじゃなくて、動物園の方ですよ」

三人は黙り込んでしまった。

有志を募る。

言い方は良く聞こえるが、園長の本意ではないにせよ、試されている事に変わりはない。

「俺は…できれば家族と一緒にいたい」

溝口は家族と動物の間で揺れ動く思いを断ち切るかのように、力強い口調で言った。

「私も、彼といたい」

瑞希はテーブルに落ちた水滴をなぞりながら、小さく呟いた。

そんな二人の様子を見て、幸太郎は明るく振舞った。

「僕は家族も彼女もいないから、ゴン太もペンギン達も、僕がちゃんと面倒見ますよ」

「お前だって親御さんの所に帰りたいだろう?」

「いえ。うちの両親は大丈夫です。僕が帰省すると、いつも邪魔者扱いされてますから」

溝口はビアジョッキに口を付けで一気に傾け、喉を鳴らしながらビールを飲み干した。

「すまんな」

隣客の声でかき消されてしまいそうなほど、小さな声で言った。

瑞希は俯いていたが、ゆっくりと顔を上げて幸太郎を見た。

「やっぱり…私も…」

幸太郎は言葉の続きを察して、明るい声で瑞希の言葉を打ち消した。

「もう、大丈夫ですって。僕だってもう五年目なんですから。先輩達がいなくても、ちゃんと面倒見れますよ」

幸太郎は塩焼きそばを小皿に盛り、それを頬張って言った。

「それに、モグモグ、ゴン太は、ゴクン、元々僕の担当だったんですから。ペンギンだって瑞希さんが休みの日は僕が面倒見てるんですからね」

「お前、食いながら喋るなよ」

「ホント。汚いんだから」

二人の顔に笑顔が戻り、幸太郎は少しほっとした。

店を出て、各々の帰り道へと別れた。

幸太郎は夜道を歩きながら、彦星の事を考えた。

(お前と一緒にいるからな)

大きな体を丸くして寝ているであろう彦星の姿が目に浮かんだ。


幸太郎はいつもよりも一時間前に着いた。

事務所に入ると、すでに明かりが点いていた。

「おぉ、早いな」

園長は飼育員と同じ作業服を着て、自席でお茶をすすっていた。

「どうしたんですか、その格好?」

年季の入った作業服を見て、幸太郎は少し驚いた。

「どうだ。まだ似合うだろう?私だって十年前までは現役だったんだからな」

「確か、ミミの世話をされていたんですよね?」

ミミとは二十年近く前から子供達に愛されているインドゾウの事だ。

「今でもミミは、ちゃーんと私を覚えていてくれているんだぞ」

「でも、ラパティから無視されたんですよね?」

「何だ、知ってるのか」

園長は大声で笑った。

「あいつが来た時は、もうこの席に座らされていたからな」

園長は自分の机をそっと撫でた。

「でも今日からは現役復帰だ」

「無理してぎっくり腰にならないで下さいよ」

幸太郎は笑いながらコーヒーメーカーにカップを置いた。

コーヒーを飲むと、足早に調理場へと向かった。

各動物達の餌は大きな冷蔵室に区分けして置いてあり、どの動物にどれだけの量を与えるかは決められていた。

幸太郎は彦星の朝食を準備して、他の動物達の朝食メニューにざっと目を通した。

「私も手伝うよ」

園長が腕まくりをしてやってきた。

「じゃあ、園長はミミ達をお願いします」

メニューを手渡すと、園長は足早に象舎へ向かっていった。

(二人だけだったら、朝食が終わる頃には昼食の準備だな)

自分の他にも飼育員が来てくれる事を祈りながら、アジの入ったバケツを片手に彦星の元へ急いだ。


彦星は展示スペースにはいなかった。

夜の間は展示スペースから小さな通路で結ばれている部屋で寝ていたのだろう。

鉄の扉を開いて窓越しに小部屋を覗くと、彦星が丸まって寝ている姿が見えた。

「おい、彦星。今日は忙しいから、ちょっと早いけど朝飯食べてくれ」

幸太郎の声に反応し、彦星は頭を上げた。

展示スペースに回って彦星を呼ぶと、のそのそと巨体を揺らしながら彦星がやってきた。

「悪いな。他の動物も朝飯を待ってるんだ」

彦星は辺りをニ、三度見回し、大きく身震いをした。

幸太郎がアジをブラブラと揺らして見せると、ゆっくりとプールに近付いてきた。

飛んでくるアジを見て、転げ落ちるようにプールへ飛び込んだ彦星は、ゆっくりとした泳ぎでアジを口にした。

続けざまにアジを投げ入れて行き、バケツが空になると全速力で調理場に戻った。

彦星はしばらく泳いだ後、陸地に上がってお気に入りの場所でゴロンと寝転がった。


幸太郎が調理場に戻ると、そこには数人の飼育員が各々の餌を準備していた。

「みんな、来てくれたんですか!」

「別にお前の為に来た訳じゃないさ」

「お前にフラミンゴの世話なんて無理だからな」

「ぼやっとするな。みんなが待ってるぞ」

忙しなく準備を進める職員達は、皆充実した笑みを浮かべていた。

「僕、ゴン太の餌を準備しますね」

幸太郎が冷蔵室に生肉を取りに行こうとした時、冷蔵室の扉が開き、奥から肉のブロックを抱えた溝口が出てきた。

「お前にゴン太は任せられないさ」

「ペンギンも、ね」

小アジが山のように入ったバケツをさげて、瑞希も奥から出てきた。

「溝口さん…、瑞希さん…」

「邪魔だ、どいたどいた」

溝口は幸太郎の脇をすり抜けて、肉のブロックを調理台に乗せた。

「まぁ、そういう事」

瑞希は軽くウインクすると、ペンギン達の元へ向かっていった。


全ての動物達の朝食が終わり、事務所に集まってみるとかなりの数の飼育員が来ていた。

「皆さん、本当にありがとう」

園長は深々と頭を下げた。

「止めて下さいよ。園長の為に来た訳じゃありませんよ」

「わかってる。わかってるよ」

園長はそれでも目頭を抑えたまま、顔を上げようとはしなかった。

「結局半分は集まった訳だな」

「家族よりツキノワグマ選ぶなんてサイテーよね。そんな人と絶対結婚したくない」

瑞希は溝口を横目で見ながら、クスッと笑った。

その光景を見て、一同が笑った。

誰しもが家族なり恋人なり友人なり、大切な人がいるはずだった。

しかし、集まった顔には後悔がない、スッキリとした表情が浮かんでいた。

「溝口さん…本当に良いんですか?」

幸太郎は隣の席で日誌を書いている溝口に声を掛けた。

「良いも悪いも、ゴン太達は俺達がいなきゃ生きて行けないんだぜ」

溝口は持っていたボールペンをクルッと回すと、ニヤリと自虐的に笑って言った。

「でも、出てくる時にかみさんに「人でなしっ!」って言われたけどな」

愛する者を残してまで仕事を選ぶ事が、はたして正しいのかは誰にもわからない。

ここにいる人々は、皆同じ気持ちで集まったのだ。

「ゴン太だって、俺の家族さ」

その日、幸太郎は日誌の先頭にこう記した。

「朝食の時間を一時間早めた為、多少寝ぼけていた。それでもアジ三十匹を一匹も食べこぼす事なく食べる。彦星は食べる事に関しては優秀な僕の弟だ」


日誌を閉じて時計に目をやると、十時五分前だった。

いつもなら観覧スペースを掃き、彦星と客を待っている時間だ。

彦星の元へ向かおうと席を立った時、一人の事務員が言った。

「園長、これだけスタッフが集まったんですから、開園する事はできないでしょうか?」

園長は動物園のパンフレットを眺めていたが、事務員の声に顔を上げた。

職員を見渡すと、誰もが頷いた。

園長は少し考えると、力強く叫んだ。

「よし、やろう!」

職員は歓声を上げた。

幸太郎達は園内の掃除の為に走って事務所を出て行った。

園長は紙を取り出すと、力を込めて筆を握った。

そして入場ゲートへと足早に向かい、張られていた「本日は臨時休園させて頂きます」と書かれた紙を引き剥がし、新しい紙を貼り付けた。

「本日、入場料無料」

園長は腕組みをしながら、その文字を見て何度も頷いた。

「私はね、沢山の人達に、ここの動物達を見てもらいたいんだ。そして、動物達の命を感じて欲しいんだ」

目を潤ませる園長の姿に、事務員は優しく微笑んだ。

「園長、ここは私がお引き受けします。園長は園内をお願いします」

事務所では、他の事務員が慌しく動いていた。

「ええ。本日も開園致します。…はい、職員は揃っています。…はい、園長もご了承されています」

「あの、そちらのラジオ番組でお知らせして頂く事はできませんでしょうか?」

電話以外にも、インターネットの掲示板などにどんどん書き込んでいた。


夕方になり、事務所に職員が集まった。

その日の来場者数は八人。

「いやぁ、このままじゃ赤字で閉園だなぁ」

園長は大声で笑った。

「でも、私達の貸切みたいで楽しかったですよ」

「私も!こんなに動物達を見て回れたのは初めてです!」

「俺も、担当以外の動物をじっくり見た事なんてなかったからなぁ」

その日に集まった事が無駄だったと思うものは一人もいなかった。

「今日来てくれた方々は、きっとまたいつか来て下さると思います」

園長は嬉しそうに言った。

「来られたお客様が、帰り際に「ありがとう」とおっしゃってくれました!」

ゲートにいた事務員は、その時の興奮冷めやらぬ様子だった。

「例え八人でも、ここの動物達はみんな幸せだよね」

瑞希の言葉に、幸太郎は頷いた。

数名の当直を残し、職員達は帰路に着いた。

誰も明日の事は口にしなかった。

言葉にしなくても、また皆が集まってくる。

例え集まらなくても、自分は明日も来よう。

一人一人がそう思っていた。


明くる日も、前日と同じ職員が顔を合わせた。

開園の知らせを耳にしてやってきた職員もいて、前日よりも人数が増えていた。

いつものように準備をして、いつも通り開園した。

昼食も終わり、幸太郎は彦星が泳ぐ姿を眺めていた。

真夏の日差しが展示スペースにも容赦なく降り注ぎ、彦星は日陰とプールの往復を繰り返していた。

幸太郎が小部屋の掃除をして観覧スペースに戻ってくると、一組のカップルが彦星を見ていた。

「この白熊、彦星っていうんだって」

「へぇ」

「あっ、ゴロゴロしてる。可愛いね」

「俺がゴロゴロしたら邪魔で、白熊なら可愛いのかよ」

「当然」

彦星の仕草を見て笑っているカップルを見て、幸太郎は嬉しくなった。

その時、男性と目が合った。

男性は幸太郎に声を掛けてきた。

「あの、この白熊、何で彦星って名前なんですか?」

幸太郎は声が届きやすいように、少し近付いて答えた。

「こいつがやってきたのが七夕の日だったんです。それで彦星って名付けられました」

「なるほどね」

男性は彦星に目をやった。

今度は女性が話しかけてきた。

「織姫はいないんですか?」

「以前は京子というメスがいたんですが、三年前に死んでしまって」

「そうなんですか」

女性は悲しそうに彦星を見た。

「天の川の向こうに行っちゃったんだね」

今の現実が、死という結果を更に深い悲しみの色に染めていた。

「寂しくない?」

女性は彦星に語りかけた。

彦星は聞いていないのか、起き上がるとプールに飛び込んだ。

カップルは泳いでいる彦星を眺めていた。

幸太郎は少しでも楽しく見て欲しいと思って、彦星の話をした。

「こいつ、京子に頭が上がらなかったらしくて、しょっちゅうエサを取られてはイジけてたらしいです」

「へぇ。白熊でも尻に敷かれるんですね」

男性は女性の方を見て笑った。

「何よ」

女性は少し怒った振りをしたが、彦星を見ながら微笑んだ。

「彦星は僕の弟みたいなものなんです。なっ、彦星」

幸太郎が彦星の名を叫ぶと、水面から顔を出して幸太郎を見た。

しかし、プイッと横を向き、再び泳ぎだした。

「俺の方がお兄ちゃんだ、って言ってるみたい」

女性は楽しそうに笑った。

幸太郎は頭を掻いた。

カップルを見送り、彦星に話しかけた。

「お前、僕を弟だと思ってるのか?」

彦星はお気に入りの場所に寝転ぶと、大きくあくびをした。

幸太郎は微笑みながら、彦星の姿を眺めていた。


前日は告知の成果もあったのか、百人近い客が来園した。

幸太郎は前日から当直として泊り込んでいて、寝癖の付いた後ろ髪を押さえていた。

「おはよう。変わった事はなかったかい?」

園長が一番でやってきて、近所のコンビニで買ったであろうおにぎりを手渡してくれた。

「はい。いつもと変わらずって感じです」

園長は二人分のお茶をいれ、一つを幸太郎の前に差し出した。

幸太郎はおにぎりを口にくわえ、お茶を受け取った。

園長は自分の席に座り、窓から外の様子を眺めた。

「動物達は何も知らないからね」

顔は見えなかったが、声からは園長の顔が切なさで曇っている事を察する事ができた。

続々とスタッフが集まってきて、いつものように開園の準備を進めた。

幸太郎はいつものように彦星と来客を待っていた。

すると、開園放送の前にスピーカーから園長の声が響いてきた。

「皆さん、本日はお客様がいらっしゃらないかもしれません。ですから、職員の皆さんが、しっかりと動物達を見てあげて下さい」

園長の声は少し震えていた。

「ここにいる動物達は、遠い故郷を離れ、多くの人達に命の素晴らしさを伝える為にやってきてくれました。だから、最後まで精一杯生きる彼らを、あなた方のまぶたにしっかりと焼き付けて下さい」

ほどなくして開園放送が流れた。

しばらくして最初に訪れたのは園長だった。

「彦星、元気にしてるか?」

園長は彦星に手を振った。

彦星は寝返りで答えた。

「ははは。相変わらず男には興味がなさそうだな」

園長はしばらく彦星を眺めていた。

「君も今日はここにいるんじゃなく、他の動物達も見てあげてくれ」

そう言うと、次の動物を見るべく去って行った。

その後、職員達が次々とやってきた。

彦星も調子が上がってきたようで、元気良くプールで泳ぐ姿を披露していた。

幸太郎も見て回ろうとした時、見た事のある人影に目が止まった。

溝口の妻は愛娘の手を引いていた。

「こんにちは」

夫人は軽くお辞儀をした。

溝口家は寮の近所だったので、幸太郎はよくお邪魔しては食事をご馳走になっていた。

「ほら、白熊さんよ」

愛娘は母に抱え上げてもらい、泳ぐ彦星を見てはしゃいだ。

幸太郎が何も言わずに横にいると、夫人から話始めた。

「今朝も喧嘩したんです」

幸太郎は夫人を見た。

「あの人、こんな時でも仕事に行くって。だから私、「家族よりも動物が大切なの」って言っちゃったんです」

幸太郎は何と答えて良いのかわからず、彦星に顔を戻した。

夫人も彦星を眺めながら、話を続けた。

「そうしたら、あの人何て言ったと思います?「あいつらだって、俺の家族だ」ですって」

夫人はクスッと笑うと、抱えていた愛娘を降ろして言った。

「私は熊を生んだ憶えはないんですけどね」

降ろされた娘は、もっと彦星を見ようと背伸びをして手すりにしがみついていた。

「ほら、パパの熊さんを見に行くわよ」

夫人は娘の手を取った。

「良かったら、案内しますよ」

幸太郎は二人を熊舎へと連れて行った。

その姿を見た溝口は、大きく両手を振った。

「パパだ!」

娘は母の手を振り切り、父の元へ走っていった。

「来てくれたのか」

溝口は愛娘を抱き上げた。

「私達の家族なんでしょ?会いに来ない訳ないじゃない」

妻の言葉に夫は照れたように笑った。

「ほら、コイツがお兄ちゃんのゴン太だ」

「おっきいね」

「溝口ゴン太って、おかしな名前ね」

家族に会えて、ゴン太も嬉しそうに檻の前を行ったり来たりしていた。


幸太郎はそのまま園内を見て回った。

普段は他の動物達を見て回る事などなく、自分の職場なのに初めて来たような感覚だった。

象舎に差し掛かった時、園長の姿が見えた。

園長は、一頭の象を眺めていた。

「ミミは元気そうですね」

幸太郎が声を掛けると、園長は慌てて目を擦った。

幸太郎は気付かない振りをしてミミを眺めた。

「私には夢があってね」

園長もミミを眺めながら語り始めた。

「定年したら、どこかに土地を買って、私の動物園を作るんだ」

「園長の、ですか?」

「あぁ。小さくても良いんだ。ヤギやロバ、ウサギやネズミを飼って、自由に見てもらうのさ」

「ふれあい広場みたいなものですか?」

「ちょっと違うな。園内の広場は、子供達に動物に触れ合ってもらう場所だろう?」

「そうですね」

「あれはあれで素晴らしいと思うよ。子供達に命に触れ合ってもらう大切な場所だ」

「えぇ」

「でもね。私が作りたいのは、動物達と共に生きる動物園なんだ」

「共に生きる?」

「あぁ。動物に餌を与え、寝床の掃除をして、動物に語りかける。一時のアトラクションとしてではなくてね」

「飼育員になってもらうって事ですか?」

園長は答えなかった。

「犬や猫、人間のペットとして飼われている動物達は、それはそれで幸せかもしれない。でもね」

園長は幸太郎に顔を向けた。

「私達人間は、動物達にちゃんと尊敬の念を抱いていなければならないんじゃないだろうか?」

幸太郎は答えに窮した。

しかし、園長は幸太郎に問いかけたというより、自分自身に問いかけているようだった。

「私達が動物を見守っているのではない。ただ共に地球という場所に生かされているだけなんじゃないのかと思うんだよ」

再びミミに目を向けた。

「確かにこの子達は私達の手がなければ生きてはいけない。でも、そうしたのは人間だ。ペット達だって、人間の飼われる前は野生の動物だったんだ」

ミミを見る園長の目が潤んでいた。

「それなのに、この子達はどうだい?こんなにも誇りに満ち、命を燃やしている。輝いているじゃないか」

園長の頬を一筋の涙が流れた。

「人間が動物の世話をしているなんて、ただの(おご)りだ。私達は同じ星に生きる生命として、助け合っているに過ぎないんだから」

園長は服の袖で涙を拭うと、幸太郎と向かい合った。

「君だって、責任感だけでここにいる訳じゃないだろう?」

幸太郎は頷いた。

「ここにいる皆は、動物の美しさに惹かれ、ただ愛し、共に生きる事の素晴らしさを知っている者ばかりだよ」

「はい」

「その事を多くの人に感じてもらう。それが私の夢なんだよ」

幸太郎は園長とミミの会話を邪魔しないように、そっとその場から離れた。


生肉を投げ入れると、彦星は前足で生肉を押さえながらかぶりついた。

飼育員達は自分の担当の動物達と過ごしているのだろう。

辺りには幸太郎の他に誰もいなかった。

幸太郎は手すりから身を乗り出すように寄り掛かると、美味しそうに肉を食べる彦星に語りかけた。

「園長の夢の話を聞いたんだ」

彦星は肉に夢中で、幸太郎の話など聞こうともしない。

しかし、幸太郎は気にせず続けた。

「僕は小学生の時から動物園で働くのが夢だった。動物が好きだったからね。でも一番の理由は…」

幸太郎は人気のない園内を見回した。

「動物園が好きなんだ」

短い夏を精一杯生きようと力の限りに鳴くアブラゼミが、人気のない動物園を更に寂しく感じさせる。

「ここには遊園地みたいに興奮するアトラクションもなければ、夢中にさせてくれる遊具もない。でも、みんな楽しそうに動物を見てる」

幸太郎が彦星を見ると、既に食べ終わってお気に入りの場所に寝転んでいた。

「僕には園長みたいに難しい事はわからない。でも、子供達がお前を見て喜んでくれる姿を眺めるのが好きなんだ」

幸太郎は彦星を見つめた。

彦星は眠そうな顔で幸太郎を見ていた。

そんな彦星の顔を見て、思わず笑みがこぼれた。

「動物園は、みんなに笑顔になってもらう為にあるって信じてる。だから僕は、最後までここでお客様を迎えるって決めたんだ。みんなに笑顔になってもらう。それが僕の夢だから」

彦星は大きなアクビをした。

「本当は怖くて逃げ出したい。でも、お前と一緒だから、こうして落ち着いていられるんだろうな」

耳をピクピクさせていたが、眠気に負けて目を閉じた。

そんな姿を見ていると、幸太郎まで眠りに落ちそうだった。

「もし僕達が死んで、いつか生まれ変わる日が来たら、また僕の弟になってくれるかい?」

彦星は体を揺らすと、ゴロンと寝返りを打った。

「わかったよ。僕が弟で良い」

幸太郎は苦笑いしてそう言った。

彦星は大きな背中を上下させて、深い呼吸を繰り返していた。

「いつかお前の故郷に行って、一緒にオーロラを見れたら良いな」

手すりから起き上がると、入場ゲートに向き直した。

視線の先には人影がなかった。

それでも姿勢を正して、帽子を被り直した。

真夏の暑さが、陽炎のように辺りを滲ませていた。

幸太郎が目を閉じると、一面真っ白な雪に覆われた世界が浮かんできた。

吹き付ける冷たい雪と風は、やがて収まり静寂が辺りを包んだ。

空を見上げると、淡く輝く光のカーテンが広がっていた。

「兄ちゃん、オーロラだよ」

「オーロラ?それ、美味いのか?」

空に浮かぶ大自然の芸術を、二頭の白熊は不思議そうに見上げていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ