First episode
本作品は3つのエピソードで構成予定です。
First episode「幸せの形」
Second episode「夢の形」
Third episode「希望の形」
その日は突然やってきた。
輸入食品を扱う中規模の商社に勤めていた田辺恭介は、得意先への見積書を片手に頭を抱えた。
「こんな金額じゃOKもらえる訳ないでしょ!」
「水産物は値上げ傾向にある事ぐらい、君もわかっているだろう」
ロシア産のタラバガニは需要の拡大で値が上がっていた。
「それでも予定より二十パーセントも高いじゃないですか」
恭介は上司に詰め寄った。
「私だってモスクワ支社には再交渉を促したよ。それでも向こうは強気なんだ。いらなければ買うな、とな」
上司は眉間にしわを寄せた。
それ以上は話しても無駄だった。
長年取引のある丸本水産を担当して二年。それなりの信頼関係もできて、社長の丸本氏とも食事に行く間柄にまでなった。
しかし、この見積もりを持っていけば、その関係にもひびが入る事は明白だった。
恭介はモスクワ支社に電話した。
返ってきた答えは上司のそれと同じものだった。
どうやって切り抜けるかを考えたが、恭介にできる事と言ったら丸本社長に見積書を提出して詫びる事以外になかった。
営業車に乗り込み、エンジンをかけた。
いつも同じ車を使っていて、カーステレオにはお気に入りの曲を載せてあった。
ボリュームをいつもより大きくすると、はぎれの良いトランペットが車内に響いた。
車中は何も考えなかった。
考えた所で、見積書の金額が変わる事はありえないから。
数パーセントの値上げであれば、日頃の信頼関係で何とかできる自信はあったが、この金額では打つ手がなかった。
丸本物産の駐車場に車を停め、重い営業鞄を手にビルへ入った。
応接室には興奮気味の丸本がいた。
「田辺君、聞いたかね!」
恭介はたじろいだ。
(誰が漏らしたんだ!)
背筋を嫌な汗が流れた。
「それが…私の方ではどうにもなりませんもので…」
「そんな事はわかっているよ。しかし本当だとすると、私達はどうなってしまうのだろうか…」
恭介は返す言葉もなく、ただ立ち尽くした。
「とりあえず様子を見るしかないのだろうが、なぜこんな事になってしまったんだろうねぇ」
丸本は煙草に火を点け、大きく煙を吐き出した。
「本当に申し訳ございません」
恭介の言葉を聞いて、丸本は笑った。
「どうして君が謝るんだ。君の仕業なのかね?」
「いえ、そういう訳ではありませんが、弊社の努力不足と言われても過言ではないと申しますか…」
「君は何を言っているのかね?」
丸本は怪訝な表情を浮かべた。
恭介は鞄から見積書を出して丸本の目の前に差し出した。
「本当に申し訳ございません」
丸本は一瞥すると、意も返さない表情で言った。
「この際、仕事の話は後回しだろう。生きるか死ぬかの問題だよ」
「何の話でしょうか?」
恭介は丸本の言葉が全く理解できなかった。
「何だ、見ていないのか」
丸本はデスクの上にあるパソコンのディスプレイを恭介に見えるように動かした。
「地球滅亡だよ」
リアルタイムにニュースを掲載しているサイトには、
「隕石衝突の可能性、政府は会見せず」
と大きく書かれていた。
「なんですか、これは?」
丸本はため息をつき、真顔で答えた。
「地球に隕石が落ちてくるらしいんだ」
丸本はニュースの概要を話した。
数百の隕石群が地球に向かって来ている事。
大きいものでは直径で数十kmもある巨大なものも含まれている事。
そして、それらが地球に直撃する可能性がある事。
情報源は非公式となっているが、いくつかの天文観測所では隕石群を確認しているらしい。
NASAを要する米政府は沈黙を守り、日本政府も会見を開く予定はないとの話だった。
「本当なんですか?」
「さあね。でも作り話だとしたら、ここまで大きく取り上げられる事もあるまい?」
恭介は絶句した。
「この後、会議が入ってるから」
そう言って丸本は立ち上がった。
恭介が退席する際、
「田辺君、その金額は受け入れられんよ」
と言った。
香織は勤め先であるサントウ食品の事務所を出た。サントウ食品は加工食品を卸している会社で、恭介とは仕事を通じて知り合った。
付き合い始めて一年が過ぎていた。
帰りの駅のホームで、いつものように携帯からメールを送った。
「今日も終わったよー。まだ仕事中?」
電車が滑るようにホームへ入ってきた。
携帯をマナーモードにして、いつもと同じ前から三両目に乗り、つり革の空いている場所を探した。
車両の真ん中辺りに立っていると、サラリーマン風の二人組みが話している声が耳に入ってきた。
「どうするよ?」
「どうって言っても、ガセじゃねぇの?」
「あのサイト、結構真面目なサイトらしいぜ。課長も毎日チェックしてるって言ってたからな」
「じゃあ本当にヤバイって事かよ?」
「そんなもん落ちてきたら、みんな死んじまうんじゃねぇ?」
「映画だよな、そんなの」
香織は何気なく聞いていたが、何の話しなのか少し気になっていた。
次の駅で二人組みは降りてしまい、話の続きはわからなかった。
(何が落ちてくるんだろう?)
改札を抜けて、駅前のスーパーで夕食の食材を選びながら、さっきの話を考えていた。
買い物袋を片手に携帯を開くと、恭介からメールが入っていた。
「まだ仕事中。終わったらTELする」
最近はメールでの会話が多く、恭介が電話をすると言ってくる事は珍しかった。
夕飯を食べ終え、湯船に少し温目のお湯を張った。
入浴は香織の毎日の楽しみの一つだった。
ラベンダーのエッセンスを湯船に数滴落としてかき混ぜると、ほのかにラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。
防水のCDプレイヤーでお気に入りの音楽を流し、半身浴で四十分ほど浸かるのが日課だった。
お湯を手ですくって肩にかけた。
香織は自分の胸があまり好きではない。
もう少し大きければ自信も持てるのだが、自分の性格と同じく、その膨らみは控えめな感じだった。
(牛乳飲めれば良かったのかなぁ)
胸を流れ落ちるお湯を見ながら、そんな事を思った。
その他にもコンプレックスがあった。
控えめな性格も起因しているのだろうが、自分の意見を主張できない事。
その日も同じ職場の先輩事務員に怒られていた。
原因はリサーチ結果の集計に誤りがあった事だった。
しかし計算ミスではなく、元データに誤りがあったのが原因で、香織は集計を頼まれただけだった。
(なんで私ばっかり怒られなきゃならないのよ!)
そう思っても、その場では謝るのが精一杯だった。
風呂から上がると携帯をチェックした。
着信はなかった。
時計を見ると二十一時になろうとしていた。
(そろそろかな)
そう思っていると、着信音が鳴った。
「恭介?」
「あぁ」
「TELして来るなんて珍しいね」
「そうかな?」
「そうだよ」
「そう。実はちょっと気になる話を聞いてさ」
恭介の話を聞いて二人組みを思い出した。
「本当なの?」
「さあね。俺も信じられないけど」
「本当だったら、もっと大騒ぎになってるんじゃないの?」
「かもね。だから隠してるのかもしれなくない?」
「そっか」
そのまま二人とも黙り込んだ。
沈黙を破ったのは恭介だった。
「でも、まだわかんないからさ」
「うん」
「じゃあ…お休み」
「お休み」
香織は携帯を充電器に戻し、ベッドに倒れこんだ。
(隕石が落ちてきたらどうなるの?)
漠然とした不安が体を包み込んだ。
動きがあったのは二日後だった。
「政府の会見が本日十時より行われます」
恐らくほとんどの国民がテレビを見ていたに違いない。
フラッシュがたかれる中、神妙な面持ちで内閣総理大臣はマイクに向かった。
「国民の皆様に、大変重要なご報告をせざるを得ない状況になりました」
政府側の一方的な会見は二十分ほどで終わった。
恭介は会社の大会議室で中継を見た。
普段は朝礼などで使われているホールは騒然となった。
皆、誰に向けてなのかもわからない声を上げていた。
「どうなってるんだ!」
「隕石ってどういう事なのよ!」
「ふざけるな!」
「どうすれば良いの!」
恭介は声も出ずに呆然としていた。
誰もがその場を動けずにいた。
その時、誰かが叫んだ。
「でも政府は対策を講じていると言ってたから、きっと大丈夫だ!」
同意する者、悲観的になる者、泣き崩れる者、沢山の声が響き渡った。
しばらくして全員が自席に戻った。
恭介は携帯を手に取り、指が憶えているかのように短縮ボタンを押した。
しかし、考えている事は皆同じようで、回線がパンクしているのか掛からなかった。
メールを開き、香織のメールアドレスを呼び出した。
だが何を打てば良いのかわからなかった。
頭の中は真っ白で、本文のカーソルがリズム良く点滅しているのを眺めているだけだった。
香織は携帯のワンセグで会見を見ていた。
「どうして…こんな…」
心臓が大きな鼓動を繰り返していた。
香織の携帯を覗き込んでいた同僚が叫んだ。
「こんなの嘘に決まってる!」
誰もが半信半疑だった。
なぜこんな事になったのか、どうすれば良いのか、答えのない問題を解かされている気分だった。
香織はその場にしゃがみ込んでいた。
(どうしよう?どうすれば良いの?)
答えられる者は誰一人いない。
「でも、日本に落ちてくるとは限らないじゃない」
誰かがそう言った。
(そうだ!まだ終わりって決まった訳じゃない)
香織は座り込んでいる自分に気付き、立ち上がって隣を見た。
隣の席では後輩の紗江子がいつものように伝票を整理していた。
意にも返さないその態度に、香織は少し驚いた。
「紗江ちゃんは平気なの?」
紗江子は伝票をめくる手を止め、香織を見た。
「だって、成るように成るんじゃないですか?」
そのあっさりとした答えは、香織を勇気付けた。
「そうだね」
香織は椅子に座り、データ入力の続きを始めた。
しばらくして携帯が鳴った。
メールを開くと恭介からだった。
「仕事終わった後に会えないか?」
香織は自分の上がる時刻を返信して仕事を続けた。
鍋のお湯が沸騰しているのを確かめて、パスタを入れた。
香織の家は最寄り駅から徒歩十分の場所にあったから、恭介からの電話がパスタをゆで始める合図になっていた。
別の鍋にタコの刺身を入れて軽くボイルする。
ボイルしたタコを手早く冷水に浸すと、その身がキュッと引き締まった。
七分にセットしたタイマーが鳴り、パスタのゆで加減を確認した。
(もう少しかな)
フライパンにオリーブオイルと鷹の爪を入れ、タコをガーゼにくるんで水切りした。
鍋からパスタを取り出そうとサーバーを鍋に入れた時、玄関のチャイムが鳴った。
コンロの火を切り、慌てて玄関に向かった。
「いらっしゃい」
それだけ言って、すぐにキッチンに戻った。
「パスタ作ってたんだ」
恭介は覗き込んで言った。
「失敗したかも」
皿に盛られたタコのペペロンチーノは、少し元気のない感じで横たわっていた。
恭介は失敗とは思わずに食べたが、香織は自分のパスタに不満げだった。
「でも急にどうしたの?」
サラダをフォークで突付きながら、香織は尋ねた。
「ニュース、見ただろ?」
「ニュース?隕石の事?」
「ああ」
「見たよ。チョービックリだよね」
恭介は香織の簡単な感想に、驚きを超えて笑いがこぼれた。
「何?」
突然笑い出す恭介に、香織は意外な顔をした。
「チョービックリって、それだけかよ」
「他に何かある?」
「例えば…どうしよう、とか?」
「大丈夫だよ。頭良い人たちが何とかしてくれるよ」
「夕方のニュース、見てないのか?」
恭介は夕方に発表された最新情報を話した。
隕石を核で破壊して軌道を逸らすという作業が失敗したという話だった。
「うそ…」
「本当だよ。あと三日で地球に落ちてくるらしい」
香織は慌ててテレビをつけた。
「核で表面を破壊した所で、あのサイズの隕石には何の意味もありません」
「しかし、他に対策は考えられるのですか?」
「現段階ではお手上げという事です」
何かの専門家らしい人物が、当然という顔でコメントしていた。
「何コイツ。何かムカつく」
香織はコメンテーターに悪態をついた。
「このオッサンに文句言ってもしょうがないだろ」
「でもムカつくんだもん。偉そうな事言うならお前が何とかしろって思わない?」
恭介はさあね、と首を傾げた。
チャンネルを変えても、臨時番組ばかりだった。
中には隕石が衝突した後の地球をシュミレーションしている番組もあった。
「要はみんな死ぬって事だろ?」
恭介が呟いた。
「みんな死ぬの?」
香織はその呟きに驚いた。
「多分ね」
恭介は素っ気なく答えた。
「でも、何とかするって言ってたじゃん」
「何ともならなかったんじゃない?」
「そんな…そんなの困る!」
「困るって言われてもなぁ」
恭介はキッチンの換気扇のスイッチを入れ、煙草に火を点けた。
香織は食べ終わった皿を重ね、シンクに重ねて置いた。
「どうしよう?」
香織の問いに恭介は答えられなかった。
「何とかならないの?」
恭介に言ってもどうにもならない事はわかっていたが、不安な気持ちを抑えられなかった。
恭介は何も言わなかった。
仕方なく香織が皿を洗い出した時、恭介が口を開いた。
「明日さ、会社に有休届け出すから。香織も仕事休めよ」
「うん」
どうにもならないのなら、残された時間をどう過ごすかを考えるしかなかった。
「やっぱりお前もか」
ほとんどの人間が有休届けを出していた。
中には無断で欠勤している者もいた。
「まあ当然だな。俺だって家族と一緒にいたいからな」
上司は弱々しい笑みをこぼした。
九時過ぎに、臨時休業となる事が決定した。
人員不足だけではなく、電話やFAXも回線がパンクしていて通じず、とても営業できる状態ではなかった。
香織の会社も同じだった。
出勤すると、専務から休業の知らせがあった。
電話は相変わらずの状態で、仕方なく恭介宛にメールを入れた。
「休みが取れました。そっちは?」
一時間ほど過ぎて、やっと返事が返ってきた。
「大丈夫。十一時に花時計で」
時計に目をやると、十時半になろうとしていた。
香織は慌てて部屋を出た。
駅のホームで電車を待っていた。
ホームにはいつものように駅員が立っていた。
(この人は休まないのかな?)
変わらずに電車を迎え入れる駅員を見て、香織は後ろめたさを感じた。
車内では隕石の話があちらこちらから聞こえてきた。
「破壊に失敗したって話だろ?」
「まだ核攻撃続けるらしいよ」
「どうせなら世界中のミサイルぶち込んじゃえば良くない?」
「隕石ってどこから飛んできたんだろう?」
「学校だけ吹き飛ばしてくれないかなぁ」
「これで落ちてこなかったら笑えるよな」
電車を降りて待ち合わせの公園に向かって走った。
公園の入り口にある花壇には、大きな時計が設置されていた。
花壇の前に恭介が立っていた。
「ごめん。お待たせ」
荒れた息遣いを整えようと大きく息を吐いた。
「携帯使えないのがウゼーよな」
「ホント。直らないのかな?」
「しばらくはしょうがないかもな」
二人は駅に向かって歩き出した。
昼食を適当な店で採ろうと店を探したが、休業している店も目立つ。
「みんな休んでるね」
「しょうがないな」
開いていたそば屋に入った。
「天ぷらセット」
「すいません。今日はそばしかなくて」
「じゃあ、ざるで」
「私も」
連日の騒ぎで仕入れもままならないのだろう。
「ホント、どうなるのかな?」
香織は不安になった。
「とりあえず海老天は食べられそうもないな」
「帰りにスーパーで買い貯めしておいた方が良いよね?」
「海老を?」
「バカ」
そばで腹を満たして外に出ると、真夏の日差しが容赦なく照らしてきた。
「涼しい所に行こう」
「どこ?」
「映画でも見に行くか」
香織は辺りを見渡した。
カップル風の者や足早に歩いて行く者。
それほど普段と変わらない感じがした。
「香織?」
立ち止まったままの香織に恭介は声をかけた。
「こんな事してて良いのかな?」
香織は過ぎ行く人々を眺めながら、胸の奥でゆらつく不安を感じていた。
歩いている人々も、大きく背伸びしている街路樹も、荷下ろしの為に停められたトラックも、明後日には全てが消える。
もちろん自分達も。
「死にたくない」
香織が俯くと、溢れた涙の粒が一つ二つとアスファルトを叩いた。
「泣くなよ」
恭介は香織の肩にそっと腕を回した。
「何とかなるよ」
恭介は空を見上げた。
今は真夏の太陽と真っ白な雲しか見えない。
しかし、空の先には確実にそれはある。
こうしている間にも、確実に近付いてきている。
自分達の力ではどうする事もできない悪夢が、もう目の前まで来ているのだ。
恭介は自宅の郵便受けを開けた。
中は分譲マンションのチラシやピザ屋のデリバリーメニューなどの興味のないものばかりだった。
それらをエントランスに置かれたゴミ箱に投げ捨てると、エレベーターのボタンを押した。
階数を示す数字が一つずつ減っていくのを眺めていると、エントランスに知らない男性が入ってきた。
男性は恭介に軽く会釈をし、恭介も返した。
エレベーターが到着して乗り込むと、自分の部屋がある七階のボタンを押した。
男性は六階のボタンを押した。
同じマンションの住人と言っても、ほとんどの住人を恭介は知らない。
増えていく数字を見上げていると、突然男性が声を掛けてきた。
「大変な事になりましたね」
エレベーターには恭介と男性しかいない。
「そうですね」
恭介は男性を見ずに答えた。
「こんな事なら、もっと好きな事をやっておけば良かったと思いますよ」
男性は降り際にそう呟いた。
部屋に戻り、部屋の鍵と携帯をスチール棚に投げやった。
そのままソファーに座り、テーブルの上のリモコンに手を伸ばした。
相変わらず特別番組だった。
「タイムリミットは明日の午後三時です」
「それを過ぎると、軌道を変えても地球の引力に引き込まれてしまいます」
昨日とは違う人間が妙な模型を指差して言っていた。
煙草に火を点け、煙を一つ吐いた。
(ダメなのかもしれないな)
恭介はテレビを消して、ソファーに寄り掛かった。
終わりかもしれない、そう思っても、不思議と恐怖感はなかった。
煙草をもみ消すと、着ていた服を脱ぎ捨てて風呂場へ向かった。
勢い良く噴き出すシャワーのお湯を頭から被り、髪から流れ落ちるお湯の流れを見ていた。
男性の言葉を思い出していた。
(好きな事…か)
香織はスーパーでいつもより多めに食材を買い、自分の部屋に戻った。
そば屋を出てから、恭介と街をブラブラと歩き、コーヒーショップでコーヒーを飲んだ。
二人の交わした言葉は少なかった。
不安に押しつぶされそうな心に堪えるので精一杯だった。
買ってきた食材を冷蔵庫に一つ一つ収めると、その量の多さに文句を言っているかのように、ウーンと冷蔵庫が唸った。
香織は冷蔵庫に手を掛けたまま、その場にしゃがみ込んでいた。
「これで…お終い」
涙が溢れてきた。
未来が見えない恐怖に体が震えた。
「お願い。助けて」
冷蔵庫にもたれ掛かり、消え入りそうな声で呟いた。
その時、リビングで携帯が鳴った。
「海老は買いだめした?」
「バカ」
「お前さぁ、すぐにバカバカ言うの止めろよ」
「だってバカなんだからしょうがないじゃん」
「他に何かあるだろ?」
「例えば?」
「…おバカ様とか?」
「バカ」
恭介のふざけた声で、香織は少しだけ気が晴れた。
「明日さ、ちょっと用事ができちゃって。だから約束の時間、ずらしても良い?」
「用事って?」
「ちょっと。十二時に花時計で。良いだろ?」
「…うん」
「それとさ、頼みがあるんだ」
「何?」
「弁当作ってきてよ」
「お弁当?」
「そう、ランチボーックス!」
「バカ」
「だからさぁ」
「はいはい。でも何で?」
「食べるからに決まってるだろ」
恭介の急な願いに戸惑ったが、幸いにも冷蔵庫にはこれでもかというほど材料が入っている。
「わかった」
「おにぎりに梅干入れるなよ」
「全部入れてやる」
「梅干入れたらブログに[香織のバカ]って書いてやるからな」
「バカ」
「じゃあ、明日な」
「うん。お休み」
不安が消えた訳ではなかったが、棚からプラスチック容器を取り出す香織の顔には笑みがあった。
「悪い」
「もう、三十分も遅刻じゃない」
籐で編みこまれた手さげバックを恭介に押し付け、香織は怒った素振りを見せた。
「ごめんって」
「謝り方に誠意がない」
恭介は香織の前に立ち、深々と頭を下げた。
「この度は大変申し訳ございませんでした」
香織は少し考える振りをして、恭介の頭を軽く叩いた。
「良し。許す」
「じゃあ行こうか」
顔を上げて香織が笑っているのを確認すると、恭介は駅に向かって歩きだした。
「どこに行くの?」
「動物園」
「えっ?」
「Zoo」
「…」
「ドウブツエーン」
「バカ」
おどけて見せる恭介に、香織もつられて笑う。
「動物園も休みじゃない?」
「大丈夫。電話したらやってるって」
「電話したの?」
「香織様の為ですから」
いつも以上にふざける恭介に変な気分だったが、こんな時だからこそ逆に楽しかった。
動物園は人気が少なかったが、いつもと変わらずに営業している様子だった。
「よし、昼飯タイムだ」
「早っ!着いたばっかりだよ?」
「腹減ったんだからしょうがないじゃん」
売店で飲み物を買って、フリースペースにある木製の椅子に座った。
「うおっ、気合入ってんじゃん」
広げられた香織の弁当に、恭介は大げさに喜んで見せた。
丁寧に海苔で巻かれたおにぎりを一口ほおばると、醤油とかつおぶしの風味が口一杯に広がった。
「やっぱおにぎりはおかかだな」
無邪気にかぶりつく恭介を見て、香織は呆れ半分嬉しさ半分といった所だった。
「少し多く作っちゃったかも」
香織はそう言ったが、恭介がほとんど食べてしまい、結局容器は空になった。
「動物見に行こうよ」
「え〜、行くの?」
「何しに来たのよ」
「動物見に?」
「だったら行くよ!」
香織は恭介の腕を引っ張り、恭介はやれやれといった感じで立ち上がった。
動物園ではしゃぐなんて香織自身思ってもいなかったが、不安な気持ちに比例するように楽しさが込み上げてきた。
「ほら、恭介の仲間だよ」
「何でカバなんだよ」
「コビトカバだって。なんでコビトなのかな?」
「おじいさんが寝てる隙に小人が作ったから」
「絶対に嘘」
「中に小人が入って操縦してるから」
「バカ」
「カバだろ?」
「三大珍獣の一つって書いてあるよ。他は?」
「俺と香織」
「バカ」
「龍とペガサス」
「いないじゃん」
「ヤンバルクイナとイリオモテヤマネコ」
「本当?」
「嘘」
恭介はおどけて笑い、香織は呆れて笑った。
自然と手を繋いでいた。
真夏の日差しが体を火照らせていたが、お互いの心が体の芯まで温かくしていた。
まるで元々一つの生き物だったかのように、恭介は香織を感じ、香織は恭介に寄り添った。
今まででもお互いを思い合っていたはずなのに、こんなにも相手を近くに感じられたのは初めてかもしれない。
幸せの形。
それはハートの形。
手を繋いだ恋人同士が作り出すMの形は、ハートの形の一歩手前。
二人の形もハートに変わる日が来る。
しかし、晴れ渡った高い空が絶望の色に染まる時は、刻一刻と迫っていた。
「三時、過ぎちゃったね」
「おやつ食べたかった?」
わかっていておどける恭介に、香織は何も言わなかった。
「夕飯は予約してあるからさ、そろそろ行くか」
「うん」
人気のない動物園は寂しすぎて、留まるには辛い場所に変わっていた。
電車も人気はまばらだった。
同じ車両に乗っている数人も、ただ黙って座っていた。
俯いていた香織が呟いた。
「どうなったのかな?」
「さあな。でもそんな事考えてもしょうがないじゃん」
恭介の顔を見上げると、反対側の窓から外を眺めていた。
「怖くないの?」
恭介は流れていく景色から視線を外そうとはせずに黙っていた。
香織は再び俯き、膝の上に置かれた自分の握りこぶしを見つめた。
「怖いけど、しょうがないじゃん」
恭介は相変わらず景色を眺めていた。
「恭介は何でもしょうがないって思えて良いね」
皮肉にもとれる言葉が自分の口からこぼれた事に、香織は嫌悪感を抱いた。
さすがに恭介も怒っただろう。
そう思ったが、恭介は意外な言葉を口にした。
「カバだからな」
そう言って香織に向き合い、大きく口を開けた。
自分への苛立ちから、香織は何も言わずに俯いた。
「ここ、どこ?」
電車を二回乗り継ぎ、初めて降りる駅のホームで恭介に尋ねた。
「夕飯、予約してあるって言っただろ?」
それだけ答えて恭介は先に歩き始めた。
無言で付いて行くと、一軒の家の前で立ち止まった。
「俺の実家」
恭介の言葉に驚き、香織は二度三度と瞬きを繰り返した。
「恭介の実家?」
「そう」
恭介は香織の様子を気にも留めない顔をしてチャイムを押した。
「はい」
恭介の母であろう声がドアフォンの向こうから聞こえた時、香織はみぞおち辺りが締めつけられる感覚がした。
居間には恭介の父の姿があった。
「おう、元気だったか」
恭介に声を掛けつつ、明らかに香織が気になる様子だった。
「一応ね。この子が三上香織さん」
簡単な紹介を受け、香織は勢い良くお辞儀した。
「初めまして。恭介の父です。まぁ何だから座って」
勧められるまま座布団に正座した。
「そんなに緊張しないで」
「親父だって緊張してるだろ」
「そりゃぁこんなに綺麗なお嬢さんが来たら緊張するさ」
「親子揃ってバカだろ?」
恭介の言葉に思わず頷き、慌てて首を横に振った。
「わざわざこんな所に来てくれてありがとね」
恭介の母がキッチンからやってきた。
「いえ、お邪魔します」
香織は声が震えるのを隠すように早口で答えた。
「大した物はないけど、ゆっくりしていってね」
恭介の母はビールと枝豆をテーブルに置くと、キッチンに戻っていった。
「あ、あの、手伝います」
立ち上がろうとする香織を恭介が制した。
「良いよ。香織は客なんだから」
そう言ってコップにビールを注いだ。
「何だ。せっかくなら香織さんにお酌してもらいたいのに」
「あっ、すいません」
恭介の父の言葉に香織は慌てたが、恭介は気にせずビールを注いだ。
その後も緊張の連続で、香織は食べた料理の味すらわからなかった。
「またいらしてね」
帰り際、玄関で見送られ、香織は深々とお辞儀した。
「驚いた?」
「もう、信じられない!」
帰りの道すがら、香織は恭介に非難を浴びせた。
「本当に緊張したんだからね!」
恭介はただ笑って聞いていた。
手を繋ごうとする恭介を振り払い、香織は緊張でしゃべれなかった時間を取り返すような勢いでしゃべり続けた。
香織の降りる駅が近付いて来た時、恭介は明日の約束を持ちかけた。
「泊まっていかないの?」
「ちょっとやる事が残ってて」
翌朝八時に約束して別れた。
走り出す電車を見送りながら、香織は少し寂しさを感じていた。
最後の夜かもしれないのに、恭介は自分と一緒にいるよりも大切な事があるのだという思いが頭をよぎった。
八時五分前に花時計にやってくると、恭介は先に着ていた。
「珍しいね」
「そうかな?」
「そうだよ」
「たまには…な」
そう言って歩き始めた。
「今日はどこに行くの?」
「公園」
「何それ?」
「良いから」
電車に乗って連れてこられた場所は、どこにでもありそうな小さな公園だった。
「何ここ?」
「ただの公園」
「ここで何するの?」
香織の質問に恭介は答えず、ブランコに乗ってはしゃいでいた。
香織は呆れてベンチに座り、恭介の姿を眺めていた。
「香織も乗れよ」
大きな声で恭介が叫んだ。
香織は無視したが、何度も大声で叫ぶので、恥ずかしくなって恭介の元へ行った。
「もう、止めてよ。子供が見てるでしょ」
「俺が押してやるよ」
香織は仕方なくブランコに座った。
恭介は香織の背中をゆっくり押すと、ブランコは錆びた金属音を出しながらゆっくりと揺れた。
「懐かしいな」
乗る前は嫌だったのに、いざ乗ってみるとまんざらでもなかった。
ゆっくりと揺れるブランコは重力に従い、やがてその動きを止めた。
香織が立ち上がろうとした時、恭介が香織の肩に手を置いた。
「えっ?」
反対側の砂場ではしゃぐ子供の声で、恭介の言葉が聞き取れなかった。
「結婚してくれ」
恭介は同じ言葉を呟いた。
香織は振り向こうとしたが、恭介は香織に寄り添うように立っていたので、恭介の顔を見る事ができなかった。
「俺と結婚して欲しい」
呟くような声は、ふざけている恭介の声ではなく、温もりを感じる優しい声だった。
香織は言葉が出てこなかった。
地球の最後の日となるかもしれないこの時に、突然のプロポーズで頭の中はグチャグチャだった。
恭介はその後は何も言わず、香織の言葉を待っていた。
「隕石、落ちてくるかもしれないよ?」
「ああ」
「死んじゃうかもしれないよ?」
「そうだな」
香織は言うべき言葉を捜した。
しかし、頭に浮かぶのは明日の来ない運命の事ばかりだった。
「未来なんて、あるかどうかもわからないじゃない」
恭介は大きく息を吸い込み、そして吐いた。
「未来はどうでも良い。…香織と結婚したい。それだけ」
肩に置かれた恭介の手に、香織はそっと手を重ねた。
「あっ、チューしてる!」
砂場で遊んでいた子供の声が響いた。
「本当はさ、さっき「今が欲しい」って言おうとしたんだけど、クサい?」
「クサ過ぎてドン引き」
二人はもう一度笑顔を重ねて、お互いの存在を確かめ合った。
恭介はジーンズのポケットから用意した指輪を取り出すと、香織の薬指にそっとはめた。
「いつもの恭介なら右手にしてくれると思ったのに」
「ブランコの所からやり直す?」
「そうね」
「バカ。冗談だよ」
ブランコに座りなおした香織は、恥ずかしそうに横を向く恭介を見て笑った。
「でも、なんでこの公園なの?」
恭介は公園の反対側を指差した。
その先には、真っ白な十字架が見えた。
「あの教会の神父、良い人なんだよ。電話したら「いつでも来なさい」って」
恭介は香織の手を握った。
「その前に、香織のご両親に挨拶しなきゃ」
香織は恭介を引っ張るように教会へ向かって走り出した。
「そんなの、明日でも良いじゃない」
繋がれた手の指輪は、太陽の日差しを浴びて、いつまでもキラキラと輝いていた。