ありがとうを言おう。そしてサヨナラを
瞬くと、黒く濡れたアスファルトにガラス片が散乱していた。
僕は横転したバイクのヘッドライトに照らされたそれらを、夜空に散りばめられた星のように感じた。
細かく砕け散ったガラスはそれぞれに煌いた。
早く綾乃のところにいかなくては。
血を吸い鮮やかな赤に染まっていくそれらを見ながら、ぼんやりとそんなことを思った。
薄れゆく意識の中で。
★★★★★
自分に意識があることに長いこと気付かなかった。
人は寝て起きるとき、一体どのタイミングで意識が回復していると気づくのだろう。
僕は案外、能天気にそんなことを考える。
きっとそれは脳の目覚めに加え何かしらの感覚が喚起されたとき、例えば布団の温もりであったり、清々しい朝の日差しであったり、あるいは香ばしく焼けたパンの香りであったりが必要条件なのではないだろうか。
だから僕は長いこと自分が起きていることを認識できなかったのだ。
今の僕には、ありとあらゆる感覚が欠如しているから。
僕は自分が現状に至るまでの過程を覚束無い意識の中でゆっくりと思い出していった。
年が明けて間もなく、仕事始めでデパートに出社していた婚約者である綾乃を迎えにいった。
前の晩から雪が降って中途半端に凍結したアスファルトを避けつつ、慎重にバイクを走らせていた。
愛車のナナハンはデパートのある小高い丘に向かい快調に飛ばしていた。
ゆっくりと大きくカーブする坂道を登っていた時のことだった。
遠くの方から下ってくる四トントラックの車体が道路の中央線に跨りスライドしていく様に気づいた。
横倒しになって迫りくる車体の隙間をなんとか振り切ろうとしたが、あと数センチのところでバイクの後輪がトラックに触れ、凄まじい勢いで体が吹き飛ばされた。
そして気づいたときにはガラスが煌いていて、そこから意識が遠のいていった。
ありとあらゆる感覚を失った僕が意識を取り戻していると認識できたのは、綾乃のぬくもりのおかげだった。
どれくらい時間が流れたのだろう。
あるとき、ふと、左の頬が熱くなる感覚を覚えた。
綾乃だ。
僕はすぐにそう確信した。
ぬくもりだけでその人が綾乃であるとわかるとは、自分でも思っていなかった。
でもその人は間違いなく綾乃だった。
彼女は長いこと僕の頬に自分の頬を寄せていた。
一緒に眠るとき、彼女は必ずそうしていた。
僕はいつものように綾乃の頭を撫でたり肩を抱きたかったが、もちろんそれは叶わなかった。
当たり前のようにしていた行為が、何一つできなくなってしまっていた。
光も感じず、耳も聞こえない。
痛みもなく、ほとんど全身の感覚が欠如している。
でもどういうわけか、左頬の一部だけが感覚が残っていた。
だからといって、僕はどうすることもできない。
そこに触れられるのを待ち、たとえ触れてくれたとしても、それに応えることはできない。
それでも、意識を取り戻した僕は、そのぬくもりを四六時中待ち望むようになった。
それが唯一の、僕がこの世界にすがりつく理由になっていた。
時間の感覚がない僕は、再び意識を失うことを恐れた。
いつの間にか意識がなくなる。
それは自分がこの世からいなくなることと意味を同じくしていた。
だから僕はいろいろなことを考えた。
有り余る時間を考えることに費やし、その間中ずっとそのぬくもりが訪れるのを待っていた。
自分が生きていると認識できる一瞬を、混濁する意識の中で必死に待ち望んだ。
だから、僕は綾乃を望み、大体において焦がれた。
ふとした瞬間にぬくもりが左頬に伝わると、言い表せない安堵に包まれた。
そしてそれが失われると、彼女に憎悪を抱いた。
どうしてもっと居てくれない。
僕をなんだと思っている。
愛していないのか。
愛しているならもっとぼくにぬくもりを…。
その状況がどのくらい続いたのだろうか。
いつしか僕は、そのぬくもりから何かしらの意思を感じ取ることができるようになっていた。
それはもちろん自己解釈に過ぎないが、でもきっと間違ってはいなかった。
彼女は僕の頬にその頬を寄せるのに躊躇いを抱き始めたようだった。
ぬくもりに変化が見られ始めた。
僕はそれに激しく憤った。
気が狂いそうに憤怒した。
この世にすがりつく唯一の感覚が、失われつつある。
意識の中で僕は彼女を責め、汚い言葉を浴びせかけた。
何も表には顕れたりしない。
だから僕は自分の言いたいように彼女を罵る。
幸せになろうって言ったじゃないか。
一生、一緒にいるって約束したのに。
二人でいられればそれでいいって言ったじゃないか…。
でも、届くことのない罵声はぼくの意識の中に轟いて、いやらしい感情が蠢いて、僕の心を蝕んでいく。
あるとき僕は気がつくことになる。
自分が綾乃を縛り付けていることに。
彼女はきっと毎日、反応のない僕の体に語りかけているのだろう。
諦観が徐々に広がっても、僕の鼓動が終わらない限り、彼女はその場を離れられないのだろう。
僕は、この何もできない体で綾乃に出来ることがひとつだけあることに気がついた。
僕からの開放こそが、彼女にしてあげられる唯一最後の事柄だろう。
僕は悲しい。
彼女を失うことが、何より。
でも、彼女は生きている。
そして、これから今までの倍は生きるだろう。
だから、僕に縛られて自分の人生を棒に振って欲しくない。
だから、僕からお別れをしなくちゃいけない。
伝わらなくても良い。
最後に、そのぬくもりに一生分の感謝を。
ありがとうを言おう。
そして、さよならを。