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人生は楽しい

作者: 竹仲法順

     *

 山の朝は清々しい。ここは中部地方にある某県の山の中だ。俺もずっと身を潜めるようにして暮らしている。朝起き出してから、家政婦の岩本に頼んで朝食を用意してもらう。待つまでの時間に洗顔して髭を剃り落とし、淹れてもらっていた気付けのコーヒーを一杯飲みながらゆっくりと外の景色を見始める。さすがに山中はこの季節、霧がかっているのだ。自室の窓を開いて眺め続けた。

「先生、朝食の支度が出来ましたよ」

「ああ、すまんね。今行くから」

 家政婦を雇えるぐらいの金は持っている。作家として昔からずっと原稿を書き続けてきた。複数の出版社と契約し、作品を書いては送り続けている。別に贅沢などをする気はない。最低限、糊口が凌げればそれでよかった。現に岩本が作った朝食も冷蔵庫の中にある食材を利用している。今、こうやって倹しい生活をしていると、東京に住んでいた頃の派手な時代を忘れてしまいそうだ。

     *

 朝食を取り終わり、洗面所で歯を磨いて自室へ向かう。コーヒーの入ったカップを持って書斎に入り、扉を閉めた。そしてパソコンを立ち上げる。最近新しいマシーンを買って使い始め、慣れているところだった。デビューしたのが今から三十年以上前で、まだ手書きで原稿を書いていたのである。

 あの頃は確か新宿のワンルームの風呂無しアパートにいた。貧乏していたのである。作家を目指すと決めて、入っていた大学の文学部を中退し、日雇いなどをしながら合間に原稿を書いていた。原稿用紙にボールペンで書き綴っていたのである。当時、まだ旧型のワープロが出始めた頃で、ほとんどの作家が手書きだった。部屋に静かなクラシックのレコードを掛けながら、作品を書いていたのである。二十代でエネルギーがあった。今はもうないような。

 マシーンのキーを叩き、原稿を打つ。俺も昔の人間だが、ワープロソフトには慣れてしまっていた。手書きの原稿など書かない。それに手書きする機会もない。あるとすれば、首都圏の書店などで行われるサイン会の時ぐらいだろうか。最近はめっきり街中に行かなくなって、年に一度か二度ぐらい、作家の集まりなどで会場であるホテルなどに行く程度だ。

     *

 午前中に十枚程度原稿を打ち、いったん保存を掛けてから昼食を取る。岩本が昼食にカレーを鍋一杯作ってくれていた。キッチンに入っていくと、カレーの匂いがする。食欲をそそる香りだ。炊飯ジャーで炊き立てのご飯を用意し、皿によそってからカレールーを掛けてくれる。冷たい水もグラス一杯用意してくれていた。

「先生、どうぞ」

 岩本もなかなか気が利く。俺も朝食後、ずっと新作の原稿を打ち続けていて疲れてしまっていたのだ。家の中のことは全て岩本に任せてある。俺自身、この家の主であることに違いはなかったのだが、細かいことは岩本が全部してくれた。彼女は家政婦だからである。俺もなかなか外に出る機会というのがなくて、せいぜい普段は午後三時からの散歩程度だ。

 午後からも仕事が続く。物書きというのは実に因果な商売である。売れようが売れまいが、文芸雑誌や週刊誌などに連載を複数抱え持っている。仕事が来るようになったのは、三十の時に公募新人賞を獲ってからだ。それから数年間、まるで鬼のように忙しかった。俺もかなりの程度、原稿を書かせられていたのである。そして三十五歳で晴れて直木賞を受賞し、受賞作からブレイクし始めた。それまでどんなに苦労したか。言い表せないものがある。

 一般人から見れば、作家などカッコいい商売だと思われるだろう。だが全然違うのである。今の若手や中堅などはイメージ戦略で本が売れるかもしれないのだが、何せ下積みしてない分弱い。俺の作家人生にはそれがあった。だから少々ことじゃ動じない。それだけしっかりとした意志を持っているのである。作品を書くという。

     *

 その日もいつも通り、午後二時に書斎の固定が鳴り出した。受話器を取り、

「はい、城ノ内です」

 と言うと、電話先から、

 ――あ、先生、こんにちは。いつもお世話になります。帝要出版(ていようしゅっぱん)編集部の山田です。

 という声が聞こえてきた。思った通りだ。俺も山田との付き合いは長い。多分、来年一月刊行予定の新作の件だろう。受話器を握りながら言った。

「例の原稿なら執筆中だよ」

 ――ああ、ありがたいですね。先生は直木賞作家っていう肩書が付いておられますから、尚更本が売れます。

「初版どのぐらい刷る予定なの?」

 ――おそらく十万部は刷りますね。多分すぐに売り切ってしまえると思います。

「俺もそこまで人気があるのかな?」

 ――ええ。先生のお書きになるハードボイルドはどれも面白いですので。

「まあ、しっかり書くよ。直木賞作家の名に恥じないようにね」

 ――お願いいたします。一応来月頭までに私のメールアドレスまでご入稿願います。

「分かったよ。ちゃんと送るから。じゃあまたね」

 ――失礼いたします。

 山田の丁重さは変わらない。さすがに昔から出版社の編集者はしっかりしている。いったん原稿を受け取りさえすれば、後は徹底して読み込み、執拗なまでに赤を入れる。ゲラのやり取りもメールやスカイプなどを使って行っていた。郵便などで原稿を送ったり返したりすることなどない。ずっとディスプレイを見つめて適宜修正していくのだ。メールなどがなかった頃は、封筒に詰めて郵送していたのだが……。

     *

 家にこもって警察小説などを書いていると、外出の時間が楽しくなる。山の中を軽くウオーキングするのだ。俺も山中の道をずっと巡りながら執筆中のことを忘れてしまう。確かに俺の書く小説には新宿や六本木、銀座などの大都会が登場する。昔いた場所は、今だいぶ変わっていると聞く。山田が最近の盛り場の様子をデジカメなどで撮り、よくメールに添付して送ってきてくれる。俺もそれを具に見ながら大都会の様子を感じ取っていた。後は想像力である。これが作家の武器だ。

 山中を小一時間歩いた後、自宅に帰り着き、午後四時過ぎ頃に入浴して岩本から夕食を作ってもらう。そして食べ終わり、歯磨き等を済ませてから自室に入る。眠りに就くまでDVDレコーダーに録り溜めていたサスペンスドラマなどを見ていた。稀にテレビ局の人間から、昔書いた長編がドラマ化や映画化されているのが送られてきて、見てほしいということが一筆書き添えてある。こんな昔の作品、どこから拾い出してきたのだろうと思っていたのだが……。

 だが見方を変えれば、俺も直木賞作家なりに出世したということだ。世に送り出した作品数は千を超えていて、それでもまだ書き続けている。人生は苦しいことばかりじゃない。楽しいこともたくさんあった。そう思えればこそ生きていける。仕事中はずっとパソコンのキーを叩き続けていたのだが、今は昔に比べ、かなり落ち着いていた。人生を楽しむ余裕が出てきたということだろう。

 貯金はかなりある。使いきれないぐらい。昔は散々苦労したのだが、その労苦が結実したと思えばよかった。まだ書くことはいくらでもある。ミステリー作家など、執筆の題材は腐るほど持ち合わせているのだ。貪欲に書く。まだまだこれからだと思い。

 凍える夜は暖房を入れてタイマーをセットし、午後十時前には眠りに就く。大好きなクラシック音楽を掛けて心を落ち着かせながら……。眠前に軽くルイボスティーを淹れて飲むこともあった。つい最近、寝つきが悪い時に教えてもらった方法である。昼間原稿を書く時間は緊張しているので、夜眠りに就き辛かったのだ。

     *

 毎朝、部屋に差し込んでくる光で午前六時前には自然と目が覚める。起き出し、ベッドのシーツのよれなどを整えて部屋を出た。キッチンに入っていくと、すでに岩本が来ていて、

「先生、おはようございます」

 と言い、朝食の支度をしていた。また新たな一日が始まるなと思いながら、テーブルに置いてあった朝刊に目を通し始める。すでに淹れてもらっていたコーヒーを飲みながら……。その日は幾分濃い目に淹れてあったが、ブラックで飲む。砂糖やミルクなどは一切入れない。長年ブラックで飲む習慣が付いているのだ。

 洗顔も何もしてないまま、作ってもらった朝食を岩本と一緒のテーブルで差し向かいの形で取る。ゆっくりと朝の時が過ぎていった。午前中は貴重な時間である。一番頭がすっきりしていて、原稿を書くのに能率が上がるからだ。食事を取り終わり、

「ご馳走様」

 と一言言ってテーブルを離れる。歯磨きと洗面をして、電動髭剃り機で髭を剃ってしまってから書斎へと入っていく。パソコンを立ち上げて書き掛けの原稿を開き、加筆し始めた。この作品は山田と約束している作品だ。何としてでも仕上げないといけない。四百字詰め原稿用紙に換算して四百枚程度の作品とする予定である。一作一作書いていくごとに深みは増していく。

 キーを叩くのには慣れていたのだが、いかんせん人生のラストが近いのだし、ゆっくりとしている暇はない。ただ、今こうやって余生を楽しんでいると、人生も案外面白いものだなと感じる。それは間違いない。歩んできた道は間違ってなかった。そう確信できる。そしていろんな出会いや別れなどを経ながら、一人の人間としてこの山の中で一生を終える気でいる。この美しく、清々しい山の中の空気を吸い、景色を見て楽しみながら……。

 そして仕事は続く。キータッチ音が鳴り響いているのは業務が進んでいる証拠だ。別に邪魔する人間は誰一人としていない。家の中には岩本しかいないのだし、固定が鳴るのは出版社からの連絡の場合が多いからだ。ずっとキーを叩く。BGMに静かなクラシック音楽を掛けて気持ちを落ち着かせながら……。

                           (了)



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