寵愛深い恋人がいると噂の王太子に求愛されても信じられませんので
「お断りします」
人生で初めて受けた求愛を、リディアーヌはきっぱりとはねつけた。
テーブルを挟んで向かい合う目の前の男──王太子のマティアスは、まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をして、瞬きを繰り返す。
すらりと伸びた身長に、端正な顔立ち。間の抜けたような表情すら、絵になってしまうのが憎らしい。
「理由を聞かせていただきましょう」
こわばりつつも笑顔を作ることに成功したらしいマティアスが、低いトーンの声で尋ねてきた。
「王太子殿下には、長年深くご寵愛している恋人がいるとの噂があります」
その存在は、公にはされていない。
だが、社交界はとにかくさまざまなゴシップが溢れている。
ベルジェ侯爵の令嬢であるリディアーヌのもとには、彼女自身が積極的に情報を集めずとも、勝手に舞い込んでくるのである。
その一つが、王太子のマティアスが隠している恋人についてだった。
『市井の女らしいですわ』
『いえ、乳母の縁戚の娘と聞きましてよ』
『どうやら他国の姫らしい』
しかしながら、その身分や人物像などは謎に包まれていた。複数人いる可能性も捨てきれない。
いずれにせよ、深く寵愛しているようだと彼らは一様に語った。
侯爵である父が本気を出せば、恋人の素性を調べることはできるだろう。
だが父の侯爵は、今日わざわざお忍びで屋敷にやってきたマティアスを歓待している。
つまり父は、すでに一人娘のリディアーヌをマティアスの妃、すなわち未来の王妃にするというシナリオを頭のなかで完全に描いている、というわけだ。
そう、求愛されて断れるはずがない。
たとえ今この場は、正式な求婚ではなくとも。
「なるほど。自分一人だけを愛してほしい、ということでしょうか」
マティアスが、真剣な眼差しを向けてくる。
恐ろしいことに、この王太子は顔がいい。趣味も洗練されているし、横柄な態度もとらずに紳士的だ。
こんな男に、秘密の恋人になってくださいと言われたら、メロメロになってしまう女がいてもおかしくない。
だが、リディアーヌは首を横に振った。
「……いいえ。そこまでは望んでいません」
「ではなぜ、理由を尋ねて、僕の恋人の話をしたのでしょう?」
「その寵愛が軽率だからですわ」
リディアーヌは、テーブルに置いてあるカップとソーサーを手に取った。
温かな紅茶を一口含み、ゆっくりと味わって飲む。たちまち口の中が、芳醇な香りで満たされる。
「殿下の恋人がどのような立場の女性か、私は正確には把握できておりません。しかしながら、存在を表向き隠しているということは、決して公にできない身分ということでしょう」
よどみなく語る。
マティアスは頷きもせず、まっすぐにリディアーヌを見つめる。その視線は、続きを促しているようだった。
「もしも、そのような女が殿下の御子を孕ったら、いかがなさいますか? その子が男であれば、世継ぎの問題が必ず起きます。私は側妃の存在は認めますが、それは身元がはっきりしている女性に限ります。もっといえば、貴族である必要がございます」
最近、とある貴族が召使に手をつけて男の子が生まれ、跡継ぎ問題で大いに揉めた話が、これまた社交界の交流のなかで聞いた。
それ自体は、決して珍しいことではない。
だがリディアーヌにとって最も許し難いのは──。
「不幸な御子をお持ちになりたいのですか。愛する女を、悲しませたいのですか。ですから、側妃になれるだけの身分を、それこそ私よりも身分の高い女性をお迎えになって、その方を正妃になさると約束してくださるなら──」
自分の語る言葉に空々しいものを感じたリディアーヌは、カップとソーサーを置いた。
「殿下の求愛はお受けいたしませんが、求婚でしたら喜んでお受けしたく思います。我が父もそれを望んでおります」
『リディアーヌ嬢、あなたをお慕いしているのです。私の恋人になっていただけないだろうか』
直球すぎる求愛をきっぱりと断った時と同じトーンで、リディアーヌは告げた。
「つまり、愛は求めない、と?」
「はい。ただし、殿下の交遊関係は全て把握したく思います。ご納得いただけないのでしたら、このお話自体はなかったことにしてくださいませ」
「……求婚の場合もでしょうか?」
「はい。ご縁がありませんでした、ということで。父は嘆くでしょうけど……」
向こうがなおも視線をそらさないので、リディアーヌはしっかりと見据えてから、ふわっと微笑んだ。
「私には野心などありませんが、軽んじられる女になりたくないのです。愛されるならとことん苛烈に私だけを愛してほしい。それが望めないなら、せめて誰よりも重んじられる存在となりたいのです」
半端な愛を与えられるぐらいなら、いっそ愛は不要だ。
それがリディアーヌ・ド・ラ・ベルジェの信条だった。
これだけは譲れない。
沈黙がおりる。
だが、視線だけはどちらも逸らさない。
しばらくしてから、ふっ、と、マティアスが息を漏らして破顔した。
「やはりあなたは僕が心から惚れた、唯一の女性だ! その矜持、その貪欲さ、その堂々たる美しさ! あなたは本当に素敵です!」
「……はい?」
「承知しました。僕の交遊関係、いくらでもお教えしますよ。ですからどうか求婚させてください。ああ、でも──ご心配なく」
今度はリディアーヌが豆鉄砲を食らう番だった。いったいこの王太子殿下は何を言っているのだろうか。
突然のことにぼうっとしていると、いつの間にかマティアスが隣に立って、そっと耳打ちをしてきた。
「長年の恋人などいません。全てはあなたから求婚の受諾を引き出すための、嘘です」
「なっ、嘘ですって?」
思わず立ちあがろうとしたが、すぐそばにいるマティアスにぶつかりそうだととっさに判断し、腰を僅かに浮かせるだけにとどめた。
「あなたこそ、過去に恋人がいらっしゃっいましたね。あなたのほうから愛を告げた大切な人が」
リディアーヌは息を詰めた。口の中の紅茶の香りが、やけに濃く感じた。
「向こうも快諾し、しかも身分も釣り合っていた。でも結婚はしなかった。なぜなら、あなたの恋人は浮気をしていたからです」
「……」
「あなたは許せなかった。だから、恋人だけでなく相手の女にもきつい制裁を加えた。でも、その件はあなたの父君があちこちに手を回して、なかったことになった」
「……何が仰りたいの。私を罰するのですか。ですが、証拠がありませんわよ?」
「はい。何一つ、あなたにつながるものはありません。全ては噂、しかもとてもとても小さなものにおさまっています」
嫌な汗が吹き出て、背中が濡れる。
「あなたは苛烈に愛されたい。でも、だからこそ慎重です。過去のこともあって、なかなか他人の愛を信じられない。そんなあなたに求愛しても、すげなくされるだけでしょう。たとえ王太子の僕であっても」
「……」
「ですから、まずは求婚を受け入れてもらうことにしたのです。あなたは愛が得られないなら、いっそ一切の愛がないほうがいいと思うでしょうから、外堀を埋めることにしたんですよ」
「……まさか、そのために、公にできない恋人がいるなんて不名誉な噂を……あっ」
思わず上擦った声が出たのは、マティアスが顎に手をやって、顔を自分のほうへ向けさせたからだ。
その手つきは乱暴ではないのに、リディアーヌはまったく抵抗できなかった。
穏やかに笑むマティアスの瞳に囚われ、目を離せなくなったからだ。
「約束しますよ。僕はあなただけを守ります」
「……そんなの、信じられません!」
「では証明し続けますよ。僕はあなたが欲しい。蔑ろにされて決して泣き寝入りしない激しさも、存在すら曖昧だった悲しい女に向けるその慈悲深さも、僕は愛しく思います」
「……」
「夫婦から始めましょう。そして、僕の愛が決して半端ではないことを、よくよく思い知ってくださいね」
ゆっくりと顔が近づいてくる。
重ねられた唇は、雄弁な言葉と同じく、熱かった。
翌月、王太子であるマティアスと侯爵令嬢リディアーヌの婚約が発表された。
そして後年、二人は史上最も愛し合う国王夫妻として知られるようになった。




